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恋愛の代替としてのファッション

服が好きだけど、だからといってお金をかけるのは馬鹿らしいと思っている私は、よく古着屋へ行く。

古着屋といっても、べつに原宿や高円寺、下北沢なんかのオシャレなところに行くわけじゃない。私が住む街の、なんの変哲もない古着屋さんだ。駅ビルの中にはいってる地元密着系にも、トレジャーファクトリーのような大手のリサイクルショップにも行く。メルカリなどのフリマアプリも利用する。

この間、近所のハードオフへ行ったらレディースがすべて半額で、コート、スカート、タンクトップ2枚、薄手ニット、花瓶の計6点を購入して、支払いはたったの510円だった。特にスカートはずば抜けて可愛くて、とても100円には見えず、あとでブランド名を検索してみたら1万超えのモノだった。たぶん都心の店舗ではこんなバグは生じないけど、田舎だからこそ、こういう嬉しい誤算が生じる。

古着の魅力はいろいろあるけど、やはり1番の魅力はなんといってもリーズナブルなところだ。私はヴィンテージマニアではないから、○○年代のものがいい、とか、このタグは価値が高いとか、そういうことには拘らない。とにかく安くてかわいいデザインのものがあればオンボロのUSA古着でも日本のファストファッションでもオールオッケーだ。服は安くていい。なぜなら手放すときの執着が減るから。

よく「一生モノ」という言葉を耳にするが、服の品質の方はともかく、私は自分自身の服に対する永遠の愛を信じていない。むしろそう遠くない未来の移り気のほうをはるかに信じている。服には必ず、飽きがくる。

その昔「すべてはモードである」という思想に出逢ってから、私は世界に対して常に一定の距離をとって眼差すようになった。ファッションに限らず、芸能、建築、思想、政治、この世のすべてはモードの波に抗うことはできず、すべてはモードに飲み込まれ、しかし、いずれそのモードは去り、また別のモードに取って代わる。私はその、神が決めたシステムのようなものから逃れられない、人間の自由意志などないかのような考えを好ましく思った。そういう視点で服選びをすると、その時の気分や時流にあったものを安価に入手していくことで、常にクローゼットの流動性を保っていることのほうが健全なことに思える。

とはいえ、ふつうに新品の服をプロパー価格で購入することも少なくない。これだけ個の価値観が尊重され、画一的な流行が失われ、「もはやトレンドなど存在しない」と言われる昨今においても、やはり【今っぽさ】というのは確かにある。新品の服には、そういうマイナーチェンジされたシルエットが反映されているし、やはり古着には出せない「きちんと感」がある。ふらっと立ち寄ったミドル世代向けのセレクトショップで少しエッジの効いたデザインの服を買うこともまた楽しい。

ブランドやお店に縛りを設けるとファッションは窮屈になる。服との出会いも一期一会だから、出会いの場がどこであっても、目が合った瞬間のときめきに任せて買ってしまう。あの瞬間の高揚感はすこし恋愛に似ていると思う。それは食品や家電の購入では決して得られない感覚で、胸がドキドキして、どうかすると触れる手が震えちゃうほどだ。そうして愛しい気持ちでいっぱいで絶対にずっと大切にするだなんて思っていたのに、いつからかそこに居ることが当たり前になって、結局飽きてしまうところまで含めて恋愛に似ている。

先日のコーデ

■靴 イヴサンローラン ¥2,000
メルカリ
■パンツ ノーブランド ¥3,000
KINJI
■スウェット ラッセルアスレチック ¥1,000
西海岸

ときめきをくれた恋人たちに囲まれて今日もわたしはゴキゲンに過ごしている。

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