「ターコイズフリンジ」①
背中が好きだった。
特に座っている時のものが顕著だったように思う。脊椎の形に沿うように立体的になっている様相が私の視界に心地よく弥漫した。夏の湿り気も、冬の乾いて寂れた後ろ姿も、中年男性の高い体温を不快にし過ぎることはなかった。
今だって父の背中は変わらずあの頃のままに見える。
高校三年生になった如月彩月は水道橋駅から徒歩三分のカフェテリアに来ていた。ガラス張りの窓際に座っている。
真正面、壁一面に広がる本棚。好きな本を自由に手に取り、緩やかな時間の流れを楽しむことが出来る。冊数も店内のデザインやレイアウトも、彩月の知る限り他の店舗とは一線を画していた。
こういった空間に好んで来ることがあった。生来、芸術に造詣が深い方ではない。とびきり頭が良いわけでもなかったし、思案に耽ることが好きというわけでもなかった。
棚から選ぶのはいつも理解の簡単なものばかりだった。流行りの作品や大衆受けのものを読んだりした。常日頃、身の回りから音として入ってくる情報を頼りに選んでいるだけなので特に詳しくはない。自分から調べることもしなかった。そこまでの熱量はなかった。
時折、全く関係のないことに脳を占領されようと構わなかった。高い集中力を発揮するでも、鍛えるために読んでいるわけでもない。文字を目で追いながら喉を潤す。優雅に時間の経過を待つ。それが彩月の日課だった。
普段触れないものを見たり、触れない音楽を聴いたりして、高尚な気分になるのが好きだった。稚拙だが、そんな瞬間的な自己陶酔に浸るのが癖のようになっていた。
分厚い書物が並んでいる。呪文が読めなくとも、空間を楽しんでいるからそれでいいのだ。音楽も映画も漫画も小説も。どんなに難解でもその感覚を味わうことが出来る。芸術は、手軽に凡人が背伸び出来る最適なツールだと思っていた。
白い湯気の立ち上るアメリカーノをそのままに、先日観た恋愛映画の主人公が読んでいた海外文学をめくる。猫舌というわけではなかったが、出されたばかりのコーヒーにすぐ口をつけることの出来る人間を異常とも思っていた。本は、適温を待つ時間潰しにも役立った。つまり、読書を始めたのは喫茶店に憧れを持った後のことだった。
あまり知識を蓄える方ではない彩月にとって、一つだけ覚えたことがあった。スピン。本に挟むものを栞しか知らなかった彼女は、その言葉の響きに表情筋を緩めた。なんだか強そうだ、必殺技みたいだ、そんなことを初めは思ったが、すぐにその利便性に驚いた。本と一体になっていることで失くす心配がない。色も様々だし、馬の尻尾みたいな見た目が可愛らしかった。無論、バリエーションという意味では栞に軍配が上がるのだろうが、好みの問題だった。
唇を濡らす程度でしか飲み進めない彩月が一杯を完飲する頃には日が暮れていた。迷惑な客かどうかは分からないが、彼女は容姿に自身がある方だった。
帰る支度を始め、本を閉じる。濃紺のスピンの先がお尻からひょうきんに飛び出していた。
毎日こんな生活を送っている彩月だが帰宅部ではない。彼女は手芸部に属していた。彼女の通う高校では必ず部活に入らなければならないという決まりがあった。部活動の強制。字面を見るとやけに力を入れているように思えるが学校側に成績の頓着は無いらしく、部室は部とは名ばかりの女子数人による遊び場として機能していた。彩月はその他大勢と屯する気にはなれず、こうして帰路を色鮮やかに埋めていた。
カフェテリアを出ると、左脇に親友の町尾葉子が居た。脚を寂しげに折り畳み、低い姿勢でスマートフォンを眼前に構えている。彩月に気づくや否や、兎のように飛び起きた。葉子は彩月より少し低い身長をしていた。
「なにしてんの」先制は彩月だった。
「なんか、にっちゃんが楽しんでる最中って声かけづらいんだよね」
「またそういうの? 別に、言ってくれたら早く切り上げるって」
店の外から見つけたのだろう。彩月は窓を背にしていた為、本を読む後ろ姿が気難しく映ったのかもしれなかった。
「それ配慮じゃなくて遠慮だから。遠いよ」
淡々と答える彩月。
「大丈夫、そんなに待ってないよ。帰ろ」
葉子は羽毛のように軽やかな言葉を投げかけた。彩月は苦い顔をしながらも、承諾の意を込めて同じ目的地の方向へ足を向けた。葉子もそれに続いた。
「夕日にあたしたち二人が合わさると、映えるよね」現代的な言い回しで葉子が言った。
「なにそれ」
青い彩月と白い葉子、そして橙色の空。たしかに映像映えしそうな画だな、と彩月は業界人じみたことを思ってみた。
白いと形容したものの、葉子は地黒で肌は健康的な小麦色をしていた。白いとは制服のことで、青いというのも同様だ。
屋内競技であるバレー部に葉子が所属しているということを一目で見抜いた人間は少なかった。リベロである彼女は人を支えたりサポートすることに長けていた。そんな彼女と彩月は馬が合った。
長く艶のある黒髪を韓国風にうねらせ巻いている彩月と卵型をしたショートボブの葉子。相違点の多い二人はまさしく歯車の凹凸のような関係だった。
「全然汗ばんでないね。いいなあ」
よく葉子は彩月の代謝の低さを羨んだ。同時に昨今の異常気象を恨んだ。
「葉子は筋肉あるってことだから誇っていいのに。あたしは汗腺死んでんのよ」
自虐してるつもりは毛頭ない軽口で返す彩月。二人は同じ制服を着ている。
好きなことを聞かれることがある。やはり物事に熱心に取り組むということをしないので趣味といえるかは分からなかったが、強いていうなら彩月はファッションが好きな方だった。
校則は緩く、着こなしが自由だった。彩月は青色の制服に憧れていたが、高校は一般的な白いシャツだったので、下に青いノースリーブのインナーを着ることにしていた。シャツは薄手の素材ゆえに、白に青が透けて見えた。夏にぴったりの清涼感を漂わせている。
「えー。筋肉を褒め言葉に使うって、あたしのこと女として見てる?」
「見てる見てる。活発で元気な子はモテるよ」
「今彼氏いないんですけど」
「あれ定期チャージしてたっけ」
鋭い視線をくぐり抜ける手段を彩月は心得ていた。
葉子は不服そうに、腹部から取り出したスマートフォンの画面を確かめた。いつもシャツとスカートの間に収納するのが常だった。丁度あと二分で次発の電車が来る。
自分より一枚多く着ている彩月が涼しい顔でさらついた体をしていることが不思議だった。それでも逸らされた話題を執拗に続けることはしなかった。
二人は改札を抜け、総武線のホームを目指した。
彩月が家に着く頃にはすっかり過ごしやすい気温にまで下がり、半袖から露出した細腕が頼りなく見えた。
無機質だが、四隅の錆や汚れがそこはかとなく味付けをしている扉の前まで来た。
鞄から無造作に鍵を探す。先に、本体に付けてあるラバーキーホルダーの感触があった。乱暴に扱うことが多かったので今ではストラップがほつれていた。千切れないように徐に取り出し、解錠する。
玄関先は湿り気のある蒸し暑さが充満していた。うんざりしながら一呼吸置き、脱いだローファーを並べる。自分の部屋は冷房をタイマーで設定しているので、すぐにでも向かいたかった。だがその前に、リビングの冷蔵庫で冷やしてあるペットボトルの水を飲むことにした。
自室に入ると寒色系で彩られた家具が一斉に飛び込んでくる。聖域は落ち着きのある空間でなければならなかった。水色のベッドに倒れ込む。汗でべたつかない以上、彩月は帰宅後すぐに入浴するという習慣がなく、外行きの格好でベッドに横たわることに抵抗もなかった。しかし、見た目に余裕があっても疲労は道ゆく人となんら変わりない。発汗が無いせいで熱さが肉体の内にこもる感覚さえあった。
大きくため息を吐き天井を見上げる。幾つかのしみが見えた。星座を見つけるのは苦手だが、天井の模様にイメージをつけるのは好きだった。特に、四本の歪な線から成る蜻蛉のようなものが好きだった。夏は好きではないが夏の風物詩は好きだった。他にも、猫の肉球や虫のようなものもあった。しかし大抵はただの斑点にしか見えなかった。
葉子は視線を上にすることが多かった。そして俯瞰で世界を観察し、景色の変化にいち早く気がつく。屋内ならば、彩月だって空を見ることが出来た。
視界の外にある鞄。その中からまたも無造作にヘッドホンを探し、取り出す。電源を入れ、スマートフォンでお気に入りの音楽を流した。ヘッドホンは無線だった。
最近はジャンルやニーズごとにプレイリストが分けられているのがありがたかった。「おしゃれな気分になりたいあなたに」というものを選択し、ランキングの一位から昇順に再生する。目を瞑りシンセサイザーの音に耳を傾けていると、通知音が横から割って入ってきた。ロックを解除しないと内容の分からない設定にしている彩月。画面を傾けて顔認証をし、確認する。父からだった。
「晩ご飯どうする?」彩月はメッセージを一瞥した。
聖域の扉を叩く音で目を覚ます。どうやら気が遠くなっていたようだった。暖房のような声が小さく聞こえた。
「彩月、夜はもう済ませたのか」
父が帰ってきていた。
当然、腹は空いていた。かといって食欲があるかと問われれば微妙なものだった。発声すら面倒に感じる。
「まだ」
「そうか、じゃあ父さん作るから三十分くらいしたら降りてきなさい」
それ以上の返事はしなかった。
学校の宿題・友人からのメッセージの返信・好きな配信者の最新動画。これからすべきことを脳内で整理しスケジュールをつくる。そこに食事やシャワー、歯磨きといった日常を差し込む。
父はいつも入浴してから彩月に声をかける。先程もその直後だったと考えると浴室はまだ暖かい。彩月は少しだけ時間を空けることにした。
彩月は四年前に母と死別した。
膵臓がんだった。見つかった時には末期で医者からはもう手遅れだと言われた。不親切な物言いだったと記憶している。
彩月は両親が好きだった。溺愛していたし、溺愛されていた。季節ごとの行事は大切にし、外食だって適度に行くようにしていた。はたから見ても仲の良い一家だっただろう。
母、百合が亡くなってから家族の会話が著しく減少した。
シャワーを浴び終える。彩月はあまり浴槽に浸かるということをしなかった。それでは疲れが取れないと周囲の人間に口酸っぱく言われていたが気にしなかった。ずぼらな性格に加えて天邪鬼でもあった為、助言は逆効果だった。
髪を乾かすことさえせず、タオルドライのみの自然乾燥が常だった。肩に紫のフェイスタオルを掛け、しらふの千鳥足でリビングに現れる彩月。
「父さん先に洗い物しちゃうから食べてていいぞ」
古びた椅子を引き、馥郁とした香りの前に座る。今日はオムライスだった。ケチャップが不思議な模様を形成している。左上と右下の端を見れば想像出来た。ひらがなで「さつき」と書こうとして止めた形跡があった。時たま見られる光景だった。
手前の曲線にスプーンを入れる。赤い部分を少しばかり多く取ってしまい、酸味の強さが頬を強張らせた。
彩月の父、正水(まさみ)は妻の没後ひどく憔悴し、半ば廃人のようになっていた。当時その姿を見ていた彩月は自らを奮い立たせ、家事に手をつけた。溜まった洗濯をし、洗い物をし、掃除機をかけた。何かに夢中になることは、脳の余白を埋めるのに適していた。
キッチンの前に立ち、包丁を握った。レシピを調べながら、何度か母と一緒に食材を切った記憶を辿った。正水は百合の作るビーフシチューが好きだった。
鍋を洗うのが面倒だったので、使用頻度が高く、常にコンロの上にあるフライパンを代用した。牛肉全体に色がついたところで刻んだ野菜を投入する。具材が小さく細かいスープのようなものが百合の特徴だった。水を加え、煮込む。頃合いになればいつも買っていた近所にあるスーパーの自社ブランドのデミグラスソースを加える。安価ながらも味は確かだった。
あぶくが音を立てて表面に広がっていく。音が大きさを増してからも最低十五分程は弱火をかける。正水にすぐにでも食べてほしかった彩月は、寝かせることなく完成を出そうと決めていた。
呼び出し、手を引き、コンロの前まで来させた。狭い空間だったがフライパンにある今の状態がベストな成果を披露できると思った。元気になってほしかった。
「きてきて!」
彩月ははしゃいでいた。未だに彩月はこの時の自分が理解できていない。彼女は後ろ向きに歩いていた。
彩月の背中が取手にぶつかる。正水からはその光景がしっかりと視界に入っていた為、即座に対処できた。出来立てのビーフシチューが正水の左肩に降り注いだ。正水は思わず声を上げた。
「お父さん!」
彩月を庇うようにして、正水は左の肩から肘にかけて火傷を負った。彩月は溢れ出る涙を抑えることが出来なかった。
以来、正水は生まれ変わった。今のままではいけないと。遺る彩月に愛情の全てを注ぐと決めた。その為なら何も惜しむことはなかった。
父の火傷の痕。彩月は眉間に皺を寄せつつスプーンを口に運ぶ。爛れた皮膚が迷路のように見えた。
暑がりな正水はいつも無地のタンクトップだった。初めは彩月が罪悪感を抱かぬように隠していたが、彼女が「遠慮しないで。暑いなら脱げば」と声をかけてから気にしなくなった。彩月としては自分の首を絞める結果となった。
彩月は正水のしみのある背中を不快に思っていた。体だってだらしがない。左肩が恩着せがましくこちらを見つめているようで嫌いだった。しかし何故いつも自然とそれに目を向けてしまうのか、自分でもよく分からなかった。
陶器が金属に触れる音が合図のように響いた。
「よし。じゃあ俺も食べようかな」
正水がタオルで濡れた手の水分を拭き取り振り返ると、両手を合わせた彩月が映った。
「ごちそうさま」
思わず目を丸くする正水。洗い物を優先した自分を呪った。
「相変わらず食べるのが早いなあ」
ぎこちない笑顔で声をかける。彩月は正水を見ることなく自室への階段を目指す。
「あ、待ちなさい。明日は一緒に食べよう」
刹那、歩行の速度を落とした彩月だったが、ごく僅かな差だった。
一人になった空間は正水に間取りが変わったかのような錯覚をさせた。空になった皿の反対には心細さを訴える夜食が置かれていた。まだほんのり温かく、弱々しい熱を持っていた。
整理整頓という言葉とは無縁な勉強机に渋々腰を下ろす。彩月は鞄をその上に放り、枕のようにしてうつ伏せた。聖域が家から部屋までに範囲を狭めたのはいつからだっただろうかと考えた。たらればに囚われるのは無駄極まりなく、時間の浪費だと重々承知している。それでも母の影を探すことをやめられはしなかった。
図形は三つの点があって初めて形になる。二つでは何も形を為さないのだ。そのくせ心にはぽっかりと丸い穴が空いている。埋めるにはまだまだ時間を要するだろうことを彩月は理解していた。
ストレスは肌に悪い。自覚はしていても、四年前からそれを感じなかった日はない。透明で触れることの出来ない苛立ちが四六時中、体に付き纏っている。
以前、彩月が彼氏を家に連れてきたとき正水が顔を顰めた。玄関から自室への距離を挨拶した程度だったが、彼氏が帰った後に話をした。彼氏の名前は山本有志といった。
有志は彩月にとって二人目の彼氏だった。一人目は俗に言う不良少年というやつで、非行を繰り返すことが男の価値だと妄信しているような輩だった。その頃の彩月も悪ぶっている姿に魅力を感じ付き合い始めたが、すぐに見切りをつけ別れた。それからまもなく、有志と出会ったのだった。
一人目は同級生、二人目である有志は一つ年上の先輩だった。彩月は中学時代、バスケ部に一年間だけ所属していた。教室から部活へ向かう途中、有志とすれ違うことが何度かあった。中学で帰宅部の男子は珍しく、それも明らかに運動をしていそうな外見をしていたのが不思議だった。黒いエナメルバッグが光沢を帯びていた。
バスケ部に特別な思い入れもなく、突発的に辞めた彩月が帰り際に遭遇したのがきっかけだった。放課後、急いで部室や体育館へ向かう生徒達で校舎がひしめく中、下駄箱で家へと向かう人間はそう多くはなかった。
「おう、またな」
有志は同じクラスの友人と軽く言葉を交わし、靴を手に取った。折り曲げた袖から薄く浮き出た血管が交差しているのが見えた。
「あの」
意図せず口から言葉が飛び出た。声をかけた彩月の方が驚いていた。
「ん、なに」
三年生の有志からすれば先輩に当たる生徒はこの場所に存在せず、砕けた物言いになるのは当然だった。しかしそれが彩月には彼自身のフランクさを感じ取られる要因になった。
「部活、入ってないですよね。なのにその荷物なんですか。地域のクラブとかですか」
初対面にもかかわらず、まるで詰問をされている。そんな様子がおかしかった有志は半笑いで答えた。
「あ、これ? 俺空手やってんの。一応、道着とか帯が入ってまーす」
彩月は納得のいく回答に満足した。自分で完結し、数秒間を口が開いたままにする。すると有志が両方の靴を履き終えた。
「そっちは?」
こちらの手札は用意していなかった。前髪を整える。柄にもなく声がうわずった。
「えっと。今、辞めてきたとこ、です」
有志はまたもにやついていた。「まじか。じゃあ同じ帰宅部員だ」
その日は一緒に帰った。たわいのない話をした。大半がよく分からない空手の話だった。帰路はほんの四、五分のみ同じ方向だったが、その間彩月はずっと自分の耳が赤くなっていることに気づかなかった。
目眩がするほど暑い夏の日だった。
ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。