人生という自殺行為
時間は止まらない。世界は待ってくれない。
また。まただ。
知人の成功。充実した趣味。その中で出す結果。結婚や出産報告。車に、家の購入。
吉報に笑えない。失敗続きの自分と、他者の成功を比較して死にたくなる。
光が強くなれば影も濃くなるとはよく言ったもので、そういった眩いものを見聞きする度に自分が暗く、陰鬱さを増していく。吐き気がする。鏡を見るのが怖くて仕方ない。
そして吉報だけにとどまらず、訃報を聞いても同じだけ沈むのだからたちが悪い。逃げ場が無い。
理解者がほしいとは思わないけど、やはり成功は手にしたい。
それが唯一の存在証明であり、そうしないといつまでも泥のような人間から脱却できないのだ。
顔を出せ。
簡単に言ってくれるものだ。
もちろん全て自分が悪い。自己嫌悪は飽きるほどに繰り返した。呼吸みたいなものになっている。
年を取り、いくら夢への情熱を強めても。空っぽのままの箱を眺めて、それを大事そうに持っている男など滑稽でしかない。
死は負け。死は助けにはならない。
希死念慮はなくとも、概念的にとでも言うのだろうか、死に近づきたくなる。抽象的に死にたくなる。死は味方である気さえしているからか。
けれど死は味方ではない。少なくとも自らの選択する、または引き寄せたり渇望するそれは、自分を満足させるものとは対極にある。
なんとも難しい、熟考も逡巡も答えを出さない。答えは成功の先にあるのみで、姿さえまだ見せてくれていない。
嘔吐物を再び飲み込みながら、死に体で人形のようにただ生きてるだけ。そんな毎日にまた明日からも勤しむ。
くだらない戯言。
ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。