「髑髏に色を塗る」⑥
居酒屋で柳と赤羽の二人は卓を挟んだ。普段は水で済ませることの多い柳にしては珍しい光景だ。ジョッキが三つ、うち空のものが一つある。柳が二杯目を口にするのは早いものだった。
「お前が酒、か」
含みを持たせて言う赤羽。事情を聞いて年齢差の問題や心配、和子に降り掛かる責任が齎すものの大きさに同情する。既知のことであり、早いうちに諦めると踏んでいた。
柳がここまで荒れている様子をみると、いかに本気で和子へ思いを向けていたかが手に取るように分かる。一杯目を味わっている赤羽と相反し柳の酒の手が止まる気配はなかった。
「和子さんだって楽しそうだったし、多分俺のことを多少なりとも意識し始めてくれてはいるんだ。なのに、満足いく説明のないまま諦めろなんて言われたところで納得出来るわけない」
柳は三杯目を頼んだ。苛立ちを肴に生ビールが進む。酒飲みは木下を含め三人の中にはいない。居酒屋はあくまで雑音でごった返す環境で愚痴を吐くのに適しており、ストレスの捌け口としてアルコールに溺れることを選んだからに過ぎない。
第一、柳は酒の経験も浅い。飲み慣れないものが喉を通過し、和子の提起した問題をぼやけさせる。
「酔いすぎだぞ」
そう言われた柳は虚ろな目で赤羽を睨め付けた。憂いている現状を無言で訴える。
「どうしたらいいのか分かんねえよ」
押し黙る赤羽。安易に自分の恋愛事情や恋愛観を用いて諭すことは柳を逆撫でしかねないと考えた。交際相手のことはもちろん知られている。惚気だと非難されてもおかしくないくらいには目の前の友人は酔っていた。
赤羽はある奇策に閃いた。
「元カノは」
予想外の発言に柳は声を裏返す。
「は?」
赤羽は面白い玩具を見つけたように、愉快に喋り始める。
「地元に元カノくらいいるよな?」
「ま、まあ」
酔いが覚め、一応の返答をする。
「一番印象強い子は? どんな子?」
続けて質問が投げられた。過去の交際相手。三人との交際経験があるが、うち二人はとても短く、且つ成り行きで付き合った。長続きもしない。一番記憶に残っているのは初めての彼女だ。高校一年。柳にとっては三年前のこと、約半年ほどの交際だった。ショートの黒髪。真っ赤な口紅と、慎ましやかに唇に寄り添う左下の黒子が印象的な子だった。
「なんていうか、エロい?」
言った後で、大学生ともあろう男が青少年のような語彙で過去の知り合いを表現してしまったことを情けなく思った。まるで木下だ。咄嗟のこととはいえ猛省する。
「なんだよそれ」赤羽がへらりと笑った。
訂正の意を表明しようとしたが何故か慌ててしまって結局やめた。
「しょうもな」
柳は自分で自分に吐き捨てた。今現在、和子に傾倒している自身が当時何よりも夢中になっていた女性だった。何も没頭するものがないと嘆いていた自分が唯一全力で向き合い追いかけた人物。彼女との関係が切れた時はひどく落ち込んだ。
「まあなんでもいいけど。魅力的な子だったみたいだな」
彼女の顔が浮かぶ。久々に思い出した。上京してから地元の人間を、ましてや過去の交際相手を頭に浮かべるなんてことはまず無い。
「会えばいいじゃないか。こっちに女友達なんてあんましいないだろ? 俺なんかよりよっぽどいいアドバイスくれるかもよ」赤羽は自信満々に告げた。
「アドバイス、かあ」
「恋愛に関するお前のことなら右に出る者はいないだろう? 元カノってのは」
上京してから四ヶ月が経とうとしている。そもそもがクラスは一度も同じになったことはなく、別れてから二年間、話す機会も無かった。すれ違ったりする頻度すら少なかったように思う。時折遠くで一瞬の間見かける程度のものだった。声は、掛けない。
進路先すら知らない。そんな彼女に都合よく会って怒られないものかと頭を悩ませる。理由が理由なのだから。
赤羽と別れ、すぐに連絡先を確認した。久々とはいえ軽く話しかけるくらいの要件なら数名の当てがある。メッセージでのやり取りを煩わしく思った柳は思い切って通話を試みた。一人目にして奇跡的に電話は繋がった。社交辞令も程々に本題を切り出す。
「河北さん?」
驚かれることは想定していた。彼女と交際していた事実は同級生には殆ど知られていない。人前で絡むことは少なく、学校内で親しい素振りを見せることすらしなかったからだ。久しぶりのクラスメイトから急に着信があり、関係の浅い異性の所在を聞かれるなど不審がられてもおかしくはない。しかし最初に返ってきた台詞は逆に柳を驚かせた。
「え、知らないの」
「何が」
「あの子もうこっち居ないよ」
県外へ進学または就職をしたのか。だとすれば熊本から行く先は九州にとっての都会である福岡か。上京組が少ない母校では自分のことばかり話題に上がっていて、仲間内での情報で完結していた。彼女が地元を離れたのは意外だった。
「どうして」
柳は訊ねた。
「だって高校卒業して兵庫行ったもん」
「兵庫。なんでまた」
話を聞くと、元々関西に親戚が居るからとのことだった。彼女は今、銀行員として日々働いているらしい。柳はその日のうちに八時台の新幹線を予約した。
同級生から教えられた勤め先の銀行に着くと、意を決して窓口へ向かった。初老の女性が応対する。
「次お待ちの方こちらへどうぞ」
幸い日中にしては人が少ないようだった。
「あの、不躾ですがここに河北さんという方はいらっしゃいますでしょうか」
ぎこちなく柳がそう聞くと女性はやや張り上げるような声でその苗字を読んだ。後方のデスクから顔を出した女性がこちらへやってくる。業務に関係のない人探しの客に対して親切だった。それは職務に当たる東京の人間に比べてフランクな印象を与えた。
お客さん、窓口の女性にそう説明された自分がどう待っていればいいのか分からなかった。柳には彼女が到着するまでのほんの数秒が長く感じられた。
彼女は何も変わっていなかった。短い黒髪に赤い唇、唇脇の黒子。あの頃の妖艶な美貌をそのままに歴とした大人の装いで従事していた。
「あ、なになに懐かしい顔だ」
彼女の昼休憩を待ち、外で食事をすることになった。時間を合わせて行った柳の狙い通りだ。少し歩いた先の店に行くと彼女は言った。銀行を出る際、同じく休憩に入る同僚らしき男から声が掛かった。いつもは決まった場所があるのかもしれない。
「何しとう? こーへんの?」
「今あかんわ。昔の友達来とうねん」
彼女は誘いを断った。柳は指差された自分が彼女の予定であることを少し嬉しく思った。優先される対象というのは何となく誇らしい感覚を与える。男のちゃちな感性だ。
関西弁の彼女は別人のように映った。自分とは何の関係もない他人。柳はどう接すればいいのかつい困惑しかけた。先程の彼女。用いたのは標準語。よそよそしさを感じるが、仕事場では普通のことである筈。あの頃も標準語だった。高校時代はそのことも拍車をかけて彼女を大人びて見せた。
彼女が選んだのは餃子の専門店だった。ワイルドな選択だと思った。ずかずかと店内に入っていく。柳もそれに続いた。
席を見繕うと、すぐに店員を呼ぶ。メニューを開かずに彼女は流れるように注文する。痩せた小柄な男の店員がやってきた。皮膚が汗ばんでいるのが分かった。
「一枚で?」
「いや、二枚で。あと揚げそばも。柳はなんか要る?」
投げられた要望に上手く答える自信がなく、柳は反射的に言った。
「それでいいよ」
「おっけい」
店員は戻り、厨房の荒波に溶けて消えた。彼女は服を揺らし空気を扇いでいる。
「結構がっつり食べるんだな」
彼女が頼んだ量も、夏にするこのチョイスも、にんにくの臭いも、思い描くオフィスレディとはかけ離れていた。変わり者の彼女らしいといえばらしい。
「社会人はエネルギー無いとすぐ駄目になっちゃうから」大学生である柳を煽るような抑揚を付けて言う。
兵庫に居る理由を聞いた。奈良と兵庫に祖父母が居るという。父親の転勤先が熊本だった彼女は中学三年から高校三年までの四年間を終えると故郷に戻ったのだった。
食事をしていると様々な記憶が甦った。柳は彼女から全てを学んだ。ほんの日常の些細な悩みから学校での勉強。服装やデートの指南。柳に女を教えたのも彼女だった。
「ぷはあ。食った食った」
「俺より食いそう」
追加で頼んだ餃子も含めた全てを完食した彼女を見て柳が言った。柳はといえば餃子八つを食べてそれきりだ。確かに味は良かったが、腹を膨れさせる為にここへ来たのではなかった。
「で、何? 話って」
今更ながら後ろめたい気持ちが翳った。
「えっと、ホントに急に押しかけて意味わかんないだろうけどさ、恋愛相談というか」
彼女は笑わなかった。
「うん。続けて」
理路整然に話すことは出来ないかもしれない。それでも思いの丈を限りなく事細かに伝える。
「俺、今好きな人がいるんだ。それでその相手の人も多分同じ気持ち。けどその人は俺の二十九個上なんだよ。だから、世間体とか俺の将来とかを心配して、俺を拒否してる」
突然の恋愛相談で脈があることを前提に話すのは馬鹿げている。懸念を飲み込んで、恥を忍んで言葉を並べる。
「俺は年齢なんか関係ないと思う。当人同士の愛、があれば問題なんかない。乗り越えられると信じてる」
恥ずかしさのある言葉に詰まりつつ、最後まで言い切る。端的に近況を説明出来たと確信した。
「うん。それでいいじゃん」
「でも相手が首を縦に振ってくれないのがさ」
和子の辛そうな顔は目に焼き付いていた。離婚の傷の癒えぬまま、仕事で自らを誤魔化している。痛々しい姿を傍観するのは耐えられない。事情を知った。知らなかった頃には戻れない。戻る気もない。自分の恋心にも嘘はつきたくない。
彼女が脈絡なく言った。
「てか柳さ、まだ聴いてるの」
「え?」
「歌謡曲。ほら、好きだったでしょ」
音楽の趣味。和子と出会って再認識した、生まれる前の魅力。当時からも聴いていたのだ。良く観察している。人の心を見透かしたような物言いをする。時代が時代なら彼女は世界を掌握した。
そういえば初めて会った時も彼女からは変わった子だなという印象を受けた。
放課後に入るとすぐにトイレへ向かった。十五分程スマートフォンで時間を潰す。頃合いを見て教室へ戻ると、生徒は殆ど居なくなっている。自分の席に座り、カモフラージュの教科書を立て、再びスマートフォンを弄り出した。さらに十五分も経てば、教室には柳一人になった。
何もやる気が起きない。部活動のことも定期考査のことも人間関係も、何一つ考える気になれない。壁に直面したり、柵に苦悩するのもお断りだった。全てに無縁でいい。無関心を貫けば疲弊することもない。しかしこの時の柳には既に何もないという悩みがあった。
パズルゲームを延々と続ける。音を出さず、色彩豊かなブロックを積み上げては消していく。単純作業には心が浄化された。けれども改善は見込めない。視力に悪影響を与えながら時間が過ぎていく。教師の足音に耳を澄ませているつもりだったが、ある声が先に聞こえた。
「部活行かないの」
柳が顔を横に向けると扉のところに女子生徒が立っていた。
「えっと」
初めて見る顔だった。転校生というわけではないのだろうが、まだ一年生の柳にとって中学から一新された周囲の人間を覚えるのはクラス単位が限度だった。学年単位を把握するのはずっと先のことである。
「部活も行かないで、普通教室になんて残らないよ。課題でもなさそうだし」
彼女は無遠慮に教室へ入り込み、柳の隣の席まで来ると椅子の笠木にもたれ掛かった。
「スマホ触ってんじゃん」
「暇潰し」
咄嗟だった。校則違反を指摘されそうな予感がしたので素早く当たり障りのない答えをした。
「誰待ってんの」
「誰も」
「じゃあ何待ってんの」
「何も」
彼女は訝しんだ。当然だった。目的の無い男子高校生が教室に一人で居る。
「悩みがありそうだね。大きい問題を抱えてる。君、高一のする顔してないよ。謎の放課後ゲーム男」
「うるせえな」
「言ってみ。私が聴いてあげる」
柳はむっとした。こういう失礼な女子は時たまいるものだ。このタイプを柳はあまり好きではない。言動は確かにそうだった。しかし彼女は不思議と壁を感じさせなかった。誘導されるように口が動く。するすると催眠に掛かったように柳は話し始めた。
「スポーツとか勉強とか恋とか、色々面倒くさい。けどそれがちょっと羨ましくもある。それに振り回されたりしてる友達やクラスメイトを、良いなって、そう思ったりするんだ。こういう気持ち、分かる?」
口にして述べた後で、顔を赤くした。相手のことを良くも知らないで、つらつらと男が女々しい不満を口にしている。同い年に見せる弱みではなかった。
「俺なんで初めて会ったくせにこんなこと言ってんだろ」
年頃の高校生、噂話はすぐに広がる。陥穽は至る所にあるのだろう。油断は禁物、それが学生生活というものの筈と心得ていた筈なのに。
彼女はさも当然の如く私見を言葉にした。彼女の流儀のようなものに感じた。
「仲が良いから話せない。初対面だから話せることがある。違う?」
仙人のような達観に思える。
「悟り開いてんな。セミナーでも開けば?」
優位に立っていた先程までとは打って変わって彼女はしをらしい顔になった。こうして言葉を交わしているのが夢幻のように思う。彼女のように強弱を併せ持つ人間が本当にいるのだろうか。それも高校生という分際で。
「人に言えるのは、自分に言えないことだけ」
柳は狼狽えた。彼女は静謐に微笑んだ。
「帰ろ」
帰路は逆方向らしかった。校門で別れる間際、彼女は柳を抱き締めた。驚いた柳が動けずにいると、背に回る腕の一本の感触が離れた。彼女が右手を伸ばしていた。柳の体越しの太陽を遮るように上へ翳している。五本の指を大きく開いていた。隙間から光が漏れている筈だった。
「何してんの」
思わず聞いた。純粋な興味からくるものだ。
「うん? えっとね」
彼女が言った。
「君、透けて見えるよ」
「え?」
柳の顔、彼女の右手、太陽の三つが一直線に連なっていた。彼女は確かに柳の瞳を見て言った。敢えてのことだったのかもしれなかった。
顔が近づくと彼女の色が目についた。鮮やかな赤。
「口、赤くて綺麗だね」
意識的に異性を褒めた初めての経験だった。
「メイクしてるからね」
彼女は右手の親指で唇を拭ってみせた。少しだけ化粧が崩れる。本来の色が顔を覗かせたがあまり変わらないようにも見えた。元々赤みの強い唇をしている。
程なくして交際が始まった。後から彼女が一つ上の先輩ということを知った。にも拘らず、呼び方や話し方の訂正を彼女は許さなかった。親しい間柄に敬語は不必要だという。彼女はずるい人だった。
「昭和とかに惹かれてたよね、当時から」
昔の彼氏の好みを覚えている。しかし彼女なら不思議ではない。
「それだけの理由じゃ」
一因で全てを判断されてはいけない。和子への気持ちは詩ではなく論文だ。
「そう。それだけじゃない。色んな面を含めてその人のこと好きになった。柳は真っ直ぐ過ぎるくらい真っ直ぐで、一度決めたことは最後までやり遂げないと気が済まない。毎日のつまらなさを嘆いてたあの時、私と付き合い始めたら人が変わったように生き生きしてた。だからこそ、自然消滅に納得いってなかったよね」
苦い思い出。彼女に別の男が出来るまで、気まぐれなその結末を認められなかった。身勝手過ぎる気分屋だとつくづく思う。
「私がしっかり振って、初めて諦めたでしょ。その後、他の子と付き合ってもあんた楽しそうじゃなかったもん。柳が私を越える相手を見つけられたことは喜ばしいことなのよ。私にとって」
調子づいた発言に躊躇いはなかった。ずっと気掛かりだったのだ。土方柳という一人の男のことが。
「柳を埋める人が必要だと思ってた」
彼女は悪びれもなく言った。本心に違いない。当時の自分が聞けば発狂しかねないな、と柳は他人事のように思った。
「まあつまり柳は、見つけさえすれば死ぬほど頑張れるのよ。そこに向かって燃え尽きるまで突き進んでいける。んで見つけた。運命の人を」彼女は途切れる暇(いとま)を惜しんで息を大きく吸い込みはっきりと口にした。「じゃあ離すな。絶対に」
柳は体の奥が熱くなるのを感じた。夏の暑さでも店内の熱気でもない。内側から燃焼される己由来の活力。
「猪突猛進は馬鹿野郎の専売特許よ」
彼女がそこまで言うと、柳は眉間に拳を当て、離してから思い切り額に叩きつけた。拳が額に命中すると息を吐き、静かに唱える。
「俺、決心ついたわ」
和子に今すぐ会いたい。どんな御託を並べてでも、和子を好きでいる。絶対にこの恋や愛は手放さない。
「ありがとう。奈名」
「いいってことよ」
奈名は満足げだった。大人っぽい彼女の、初めて見る幼げな表情だった。
東京に戻り、いの一番に和子のところへ駆けた。午後五時に差し掛かる。キッケには客が数名いた。和子はレジカウンターに立っている。その前には誰もいない。柳はずんずん進み、手ぶらで和子の元を目指した。丁度横から花を持った男性が並ぼうとしたが、すんでのところで柳が先んじた。
「話があります」
カウンターに両手を勢いよくつけ、前のめりに凄む柳。和子は目を丸くして固まった。竜胆の花が少し早めに咲き始めていた。
狙っている女子大生のいるサークルの飲み会に参加していた木下は、彼女とすぐに仲を深めた。
当初は居酒屋で開催する予定であったが、この日の飲み会は金欠を訴える者が多く、ファミレスでの開催になった。酒は好きだが、女性へのアプローチを酒の勢いに任せるような親睦を嫌う木下にとってはまずまずの判断だった。
しかし木下には面白くない状況だった。彼女とは話も弾み、連絡先も交換した。数回会えば交際まで漕ぎ着ける見込みだ。ただ彼女が仲を深めたのは木下だけではなかった。
彼女は恐らく誰にでも平等に接する。それはそれは平等過ぎるくらいに。以前からのサークルの知り合いも、今日初めて会った木下を含めた数人の男子も、分け隔てなく仲良くなる。木下は自分と同じ匂いを感じた。恋多き人間であり、味方も敵も多く作る人間。異性に同族嫌悪を覚えるわけではなくとも、特別扱いをされないのは心外だった。
喧騒に飽きた木下はドリンクを注ぎに席を立った。ドリンクバーでグラスに炭酸飲料を注いでいると、周囲が気になった。家族連れや恋人、自分らのような友人や仲間内の集まり。見渡すだけで色々なものが目に入った。ふとトイレの方から出てくる女性を見た。目を奪われた。グラスの中身も半分に、木下は押し込んでいたボタンから手を離し、女性の元へ歩を進めた。
「こんにちは」
テーブル席のあるエリアに行く前に、トイレの入り口付近で足を止めさせた。女性は怪しげな木下を怯えるように見ていた。水色と白のタイトなTシャツに黒のスキニーパンツで、体の曲線が一目で分かる。
「何ですか」
木下は流暢に話した。
「いやあ、可愛いなって。今日は彼氏と来てるの?」
女性は眉間に皺を寄せた。明確に嫌がっている。不信感が目に見える。
「友達ですけど」
「マジで? 一緒一緒。てか良かった、彼氏さんとだったら大変だもん」
「はあ」
気のない返事だった。木下はめげない。直感で見つけた美女を取り逃すつもりもない。数時間前までの標的を変え、この女性に全力を注ぐ。
「今日は来てよかったな。こんな可愛い子と出会えるなんて」
本心を誇張するのは嘘とは違う。ごく自然に賛美を贈ることが出来る。心からの言葉は他人との間にある氷を溶かす速度を早める。
「ファミレスでナンパって正気ですか」
女性は木下を非難した。
「当たり前じゃん。運命はいつどこに落ちてるか分からないからね」
気障な言葉で笑いを誘う。残念ながら女性は顔色一つ変えなかった。
「頭おかしいんじゃない」
「おかしいからこんな美人に話しかける勇気あるのかも。ねえ、連絡先交換しようよ」
木下の饒舌は失速しない。会話のキャッチボールにおける返球の速さは凄まじい。
「いや、なんで」
「減るもんじゃないっしょ。明日になったら消してもいいから。今日だけ、ね? 俺結構面白いよ。紳士だし。見た目も悪くないと思うんだけど」
立て続けに自らを宣伝する。自信というものは男性の魅力の根底に起因する。容姿に関しては柳からのお墨付きだ。
「てか彼氏はいるの?」
女性は僅かに沈黙する。その後口を開いた。
「いない」
「嘘! 彼氏のいない一瞬の隙間に出会えたなんてホントにツイてるな俺」
女性はさらに目を伏せ、ばつが悪そうに言った。
「いた事、ない」
「え?」
木下は愕然とする。女性の表情から鑑みるに本人の望むところではなく、不本意であるように見えた。身なりに気を遣っている絶世の美女。今風のその出で立ちは木下の琴線に触れている。今し方の暴露は信じられない。
「なんか事情ありそう」
「関係ないでしょ」
否定の言葉を発するも力は少し弱まっている。
「あのさ、俺今ここ抜け出したいんだよね。いっそこのままどっか行かない?」
軽い男の常套句。女性からすればそうとしか思えない。しかし事実、木下のサークルへの関心は完全に消え去り、目の前の女性の虜になっていた。
「行くわけ。だから友達と来てるって」
すぐさま木下が言う。
「いやそりゃ嘘だね。君は一人で来てる。見たところ君の知り合いはここには居なさそうだ」人間観察には自信があった。木下は話している間に周囲を簡単に確認していた。
「自暴自棄で暴飲暴食って感じかな。若い女の子は過食でストレスを発散しがちだから」
木下は微笑む。女性は口を結んでいた。
「同い年なのにすごいね。経験豊富だ。テクニックがすごいの?」
「たまたま女の子が俺を許容してくれてるってだけ」
駅前の中央広場だった。
木下は照れくさそうに言った。褒められたことではない。それでも軽口は相手の負担を減らし、笑顔を誘発させる。会話のリズムを崩すことを避ける為に言葉数もなるだけ多くするよう心がける。綻びがあれば願ってもない。
「私は、叶ったことない」
しとりと力無く紡がれた。同い年だと言う女性は木下に別の生物のように映った。けれども女性の瞳には確かに恋愛の存在が渦巻いている。恋に正直だが愛に不器用といった具合だった。先の発言から女性の遍歴や模様を推察する。
「片思いだって立派な恋愛だよ」
木下は自身の恋愛観を遺憾なく述べた。女性の身辺が気になった。
「後藤さんは好きな人いないの」
質問すると後藤は俯いた。逆鱗に触れる気持ちで踏み込んだ。木下に後悔はない。悪気はなかったが、遠慮続きの平行線では得られるものも得られない。
すると電話が鳴った。着信音は人を問わず聴きやすいバンドミュージックだった。
「誰?」
「えっと」
後藤の顔が引き攣っている。肩が微かに竦み、片足が小刻みに揺れる。
「なんだ、彼氏いるんじゃん」
残念がると同時に束の間の安心を感じた。無用なお世話だったのかと自分を笑った。
「彼氏じゃ、ないです」
すぐにその考えは取り下げられた。
「それって、どういう」
木下の脳裏に嫌な事例が浮かんだ。押しに弱く、簡単に初対面の男についていく。交際経験がなく、それなのに綺麗で特別会話下手というわけでもない。きっと、都合が良かった。皮肉にも木下には相手の男の全体像が克明に想像出来た。
木下の察したような顔を見ると後藤は渋々現状を打ち明け始めた。
「気持ちが欲しいのは本当。けど、気持ちがなくても『その時』だけは確かに触れられて、この胸の中に存在を感じ取れる。それだけでも大切で愛おしい時間なの。惜しい、時間」
物理的な肉体の欲望。愛情の皮を被った低俗な痴情。邪の関係は長続きしない。建設的なセックスフレンドとは似て非なる。
「それでいいの」
後藤は対岸の火事かのように笑った。あまりに弱々しい。
「良くはないよ、多分。けどこの関係すらも終わってしまうと、きっと寂しさで立ち直れなくなる」
何かに突き動かされた。それは木下自身の長らく目を背けていた倫理であったかもしれないし、最近の友人から感じられる誠実な直向きさだったかもしれなかった。
「俺が埋めるよ」
木下は後藤の手の甲に自身の掌を重ねた。直線的に伝える、決意を乗せた宣言。
「木下くんじゃ、駄目」
その言葉が木下に火をつけた。
「デートしてみよう。それからだ。それからその先は決めてほしい」
必ずこの人に心から笑ってほしい。いつの間にかそんな感情が芽生えていた。会って一時間程の相手だ。自分もそんなに変わらないではないか、木下はそんな風に思った。即興や一目惚れは本能が正解を肉体に分かりやすく教えてくれている合図なのだ。
八月に入った。柳は友人二人と共にいた。場所は柳の自宅だ。三人の会議や作戦は大抵ここで行われる。といっても、四月に二回集まって以来のことだった。前回と前々回はただ学業の難しさやアルバイトの愚痴を言い合っていただけだ。今回はそれなりの意義を持った会合になる。
「和子さんとのことなんだけど」
柳が言った。あれから木下と赤羽は柳が自発的に話すのを待ち、事の委細を催促することはしていなかった。
「付き合う事になった」
二人は顔を見合わせた。そして手を叩いて喜んだ。
「よかったじゃん!」木下が柳の肩を叩く。
掻い摘んで説明する。二人はその間、嫌な顔一つせずに聞いていた。
「俺の考えは浅はかなのかもしれない。でもさ、やっぱり頑張りたいよ」
木下が机の上のスナック菓子を掴み口に運ぶ。身構えてここに訪れていたが、肩の荷が下り、上機嫌になったようだ。赤羽もお茶を一口飲んで柳を見た。
「完璧なんて誰も求めちゃいない。恋は盲目くらいが一番楽しいんだ。好きなことに没頭してる間は、デメリットなんて些細なことさ」
それからは三人で飲み食いに耽った。炭酸飲料を飲み漁り、菓子類を片端から口へ放り込む。口々にくだらない話に花を咲かす。友人とする生産性のない無駄話が何より楽しかった。
「六月の誕生日をさ、わざわざ和子さんが祝ってくれたんだ」
柳が穏やかに話し始める。
「あれ、そうだったっけ」木下のいらぬ横槍が入った。
「俺はそもそも知らなかったからな」赤羽も弁明する。
「まあ男同士なんてそんなもんだろ。で、和子さんはホールケーキを買ってきた。めちゃくちゃ嬉しかった。味もより美味く感じた」
二人は柳の惚気を甘んじて受け入れた。幸せそうな顔に水を差したくはなかった。
「そしたらさ、物欲しそうな顔でこっちを眺めんだよ。元々一切れだけを自分に、後は俺にくれるって話だったんだけど、和子さんすぐに食べ終わっちゃって『もう一つだけ、いい?』って言うんだ」
やけに楽しげな口調に二人の頬も緩んだ。
「結局、俺が食べた方が一切れだけだったってわけ」
豚キムチ丼を振る舞ってくれた時とは違い、たくさん食べる本来の姿であろうものを徐々に見せてくれるのが嬉しかった。和子が心理的な障壁を取り払ってくれた気がした。暗中模索は終わりを告げた。
「うん、うん」
木下は頷いた。後藤の顔を浮かべた。今度こそ運命の人。そんな大口を叩いて、その子ではなく別の子を口説いた。もう終わりにすべきだった。後藤とは真摯に向き合う。けじめを付ける。渡り歩いた先で足を止め、住まいを見繕う。己に出来る限りの献身を誓う。
「もう大丈夫そうだ」
赤羽も胸を撫で下ろす。三人は翌朝まで語り明かした。机の上にアルコールは無かった。
和子は友人の買い物に付き合わされ、一時は荷物待ちとしても役目を果たしていた。紙袋を両手に持ち、友人は満足そうだった。高級な衣類や貴金属が数多く入っている。ショッピングモールは絢爛としている。
「相変わらずね」
和子は定期的に行われるこのイベントに感心していた。他人がものをいっぱい食べる様子を見て食欲を満たすように、金遣いが荒くとも何かをどんどん購入していく様はある種清々しくもあり、見ていて心地良い。
「数ヶ月に一回はこういう楽しみがないと」
こうは言うものの、友人はストレスを溜め込む人間ではなく、そもそも夫婦生活も常に円満だった。
「旦那さんのネクタイも良いのがあってよかったね」
友人は自身の買い物に加えて、夫への贈り物を見繕った。こちらが本来の目的であるかは分からない。友人はかかあ天下である。共働きではない。
「いつだって彼は私がプレゼントした次に会う時には、それを身につけたり使ってきてくれるわ。そういう『べた』なところがいいのよ」
五十を前にしたこの年齢で夫のことを彼などと言うのは彼女くらいであった。感性が若い。
友人の話を聞いて真面目で愚直な柳と重ね合わせる。同時に、元夫のことが思い出された。
「和子もたまには散財しなさい。心の疲れは体の疲れよ。愛でたりマッサージしたりして整えないと」
友人は予てからこうして和子のことを案じてくれる。浪費を無闇に勧めるわけでなく、干からびた顔を浮かべることの多さを同情しての発言だった。
「お金無いし」
「貯金してるんじゃないの」
友人から目を逸らす和子。様子がおかしい。友人は考えを巡らせた。思い当たる節はある。
「まさかとは思うけど、あいつにまだ付き纏われてんの? お金渡してるんじゃないでしょうね。そんな義理感じなくていいんだからね」
「はは」
的中した。友人は大きくため息を吐いた。宝くじの当選には縁が無くとも、当たらなくていい物事ほど当たるものだ。一人で店を営み、元夫の無心も重なり家計に苦しむ。不憫でならない。
「あ、渡してるな」
「緊急用に別の口座はあるし、そっちは知られてないから」和子は目を泳がせる。
「そういう問題?」
養育費ならまだしも。そんな無慈悲で惨たらしい言葉が浮かんだ。浮かんでしまった。子供を連想させる話題は禁忌だ。無意識の配慮が音にするのをとどまらせた。
「でももう大丈夫」
和子の表情が明るくなる。その場凌ぎの言い訳ではなかった。
「何。浮いた話の一つもなかったあんたに、いよいよ春が来たってわけ?」
それとはなしに恋愛を持ち出す。すると和子が否定の顔をせず、また否定の文言を並べることもなかったことに驚いた。
「そんなんじゃ」
友人は声のボリュームを上げた。
「え、ほんと。嬉しいわあ」
和子が再び曇ったぎこちない顔をする。何かを言い辛そうにしている。友人は眉を顰め、和子を促す。
「年齢が」
そこまで言うと友人は鼻で笑った。言いにくいからには少し離れているのだろうと予測した。十歳くらい下を掴まえる。昨今は珍しい話でもない。
「若い男! 良いじゃない、英気ってのは若さから養うものよ。この。まだまだ綺麗でいる気ね。野心家は魅力的だから胸を張りなさい」友人は笑い飛ばした。「で、幾つなの」
和子は苦笑いで言った。
「んと、十八」
「十八ね、うん。十八!」見事な二度見だった。驚くのも無理ない。
友人はなんとか自身の中で飲み込むことに努力した。真澄和子という人間が堅物で誠実な性格をしているのは長年の付き合いで知っている。風当たりが強いことは本人だって重々承知している筈。現に先程のやりとりからも、彼女が事の重大さを理解しながらも多大なる幸せを享受しているのが目に見えて分かった。彼女が選んだ道は間違いではない。
「まあ、成人してるしね」友人が時間をかけてぼそりと呟く。
和子が恐る恐る心情を吐露する。
「私、年甲斐も無くドキドキしてるの。好きなんだ、その子のこと」
多幸感に身をつむじまで浸らせている。なんとも微笑ましい光景だった。自分より他人を優先する利他的な和子の然るべき姿だった。友人として彼女の苦労を近くで見てきた。泥水を啜ってきた人間には不幸と縁を切る権利がある。
その時だった。強く張った弦が切れたように和子は膝から崩れ落ちた。体勢を崩してではなかった。友人と目が合った時点で意識の糸が切断されていた。
「ちょっと和子、和子!」
辺りが騒然とする。和子は返事をせず、モール内で力無く横たわった。
やがて人だかりが生まれ、すぐさま病院に搬送されていった。
夜食を口にしていた。体に悪い料理が食べたくなり、油を大量に使ったものを探した。現在柳の胃の中に続々と運ばれていくのは五百円超えの高価な炒飯と青椒肉絲だ。手軽な冷凍食品も、文明の進化の前では本格的な料理と遜色ない。企業努力をありありと感じさせる。奮発しただけはあり、胃もたれのするような味がたまらなかった。完食を目前にして和子から着信があった。軽快な声音で柳が応答すると、聞き慣れない女性の声が聞こえた。
「真澄和子さんのお知り合いの土方柳さんでお間違いないですか?」
通話履歴から柳に架電したようだった。話の内容が通達される。
胸が痞えた。味がしない。というより、味覚は正常であるし確かに甘味塩味は感じられるのだが、食道を通り胃に到達させるのに苦労する。舐め始めの飴玉を誤って飲み込んでしまった時のような不快な恐怖が箸を止める。
明度は暗く、彩度は低く、色相は醜く歪んだ。窓外の木々のざわめきが耳を塗り潰す。それは行き先を失った柳の様子を嘲笑い楽しんでいた。
ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。