「髑髏に色を塗る」④

 足が重い。息が詰まる。淀んだ空気を吸わなければ維持出来ない生命活動に嫌気が差す。穏やかで平和主義、楽天家な和子がそんな気持ちになるのは滅多にない。今日は特別だった。それは一本の電話が掛かってきたせいだった。
 和子は離婚を経験していた。そんな和子へ元夫は半年に一度ほどの頻度で連絡を寄越した。今日は「店へ立ち寄る」とのことで、不本意だが大好きな仕事場で憂鬱な表情を浮かべてしまう。
 例年は温暖化の影響か夏がフライングで到来する。暑さで五感の情報が散漫になる中、嫌に声は通った。
「どうもー。やってる?」
 元夫は安達と言った。高い身長に厚い胸板をしていた。長袖を肘まで捲っており、色の濃いジーンズは所々破れている。会う度に職業が変わる男だ、現在何で生計を立てているかなど和子には知る由もない。定職とは無縁の人生を歩んでいる。
「うわ、相変わらず人いないなあ」
 開口一番、礼儀を知らぬ不躾な物言いは生来のものだ。そもそも広さのないこの店は、目視出来る距離まで近づけばある程度店内の状況が分かる。安達の一言は誰が聞いても余計と言える。
「今日はもう何件か売上ありました」棘のある言い方で反撃する。不快にも、視界の端に品定めをするような卑しい視線を感じた。じきに要件を話し出すことは経験則から類推出来る。
「あのさ、金貸してくんない」
 聞き慣れた要望だ。
「別にお前が俺より稼いでるとは思わないけどよ、どうせ使い道も無いんだろ」
 事も無げに横着な態度をとるこの男は和子の「過ち」であった。籍を入れたことを生涯後悔しかねない汚点とさえ形容したくなるほどの。
 事を長引かせるだけ浅ましいこの男との会話を続けなければならない。それは避けるべき事項だ。和子は諾々と財布をピスポケットの中から取り出す。普段なら持ち歩いていないものも、今日のような日は時短の為、事前に用意しておく。一人で生花店を営む和子にとって、金一封渡すのとて容易なことではない。それでも拒否をしないのには、開業にあたって安達やその知り合いのツテの力を借りたという事実から元夫の無心を蔑ろには出来ない背景があった。
「いくらよ。数万なら手元にあるけど、それ以上ならカード渡すから適当に下ろして。番号は覚えてるでしょ」
 今回は封筒を準備する暇がなかったので、今ある物でやりくりするしかない。相場は二十万ほどであったが、薄い期待も込めて低い金額を提示して交渉に試みる。金額とタイミングによっては死活問題になる危険性があるからだった。
「数万って。ボケたのか? まさか足元見てるわけじゃないよな」
 取り合ってもらえないことは分かりきっていた。和子は思わず口を結ぶ。悔しさで手が出そうになるのを抑えた。無言でキャッシュカードを手渡す。
 その時だった。和子はカードを落とした。自分でも自分が何をしでかしたのか分からなかった。そんな小さなことをするわけがない。子供じみている。意思に反する。けれどもきっと、肉体が無意識のうちにした、和子にとって最大限の嫌がらせかもしれなかった。
「は?」
 しまった。完全なる悪手。誰だって頭に来る。ましてやそれが安達という男となると最悪と言えた。
 もはやそれは和子以上に反射的だった。安達の左手が和子の右頬を強く叩いた。ぴしゃん。水面に跳ねる体の大きいボラが作り出す音に似ていた。安達が和子に手を上げるのは初めてのことだった。
「あ」
 和子の頬はすぐさま紅潮した。叩かれた衝撃の方向のまま、和子は左を向いてやや俯いている。何も言葉を発しはしない。安達が僅かに近づく。右足を一歩踏み出した。キャッシュカードが靴の下敷きになる。
「いや」
 和子が呟く。消え入りそうな声だった。
「わ、悪かったよ」
 狼狽える安達。さらにもう半歩、元妻を案じて距離を詰める。和子の右肩を掴もうと試みた。行動を阻止したのは強い拒絶の言葉だった。
「いや!」
 開けた店内に声は響かなかった。草木に紛れ和子の言葉は浮揚する。しかしながら安達の耳には深く浸透し、届いた。
「はは。何だよ、お前が落とすからいけないんだろ」微笑を纏いながら床のカードを手に取る。「また連絡するわ」後ろ歩きを数歩、そして踵を返して足早に嵐は去った。勢力を弱めてのことだった。
 静けさを取り戻した店内で和子は依然固まっていた。瞳だけは動揺に逆らえず、辺りを縦横にちらと動いてしまう。ある花が目に留まった。勿忘草。鮮やかな緑に青色の花弁を備える美しくも切なさを帯びる花。中心の小さい黄色は気丈に振る舞う空元気。小柄な花が集まって織り成す可憐が和子の心を捉えた。

 定休日である火曜日に、和子の居る生花店キッケへ向かう。先日の食事も火曜だった。和子に合わせることになんの躊躇いも不満もない。いつしか火曜はリュウにとって特別な曜日に変わった。
 道すがら、連絡先を交換した和子からのメッセージを眺める。口角が緩む。すぐにスマートフォンを仕舞い、歩行中の注意が散漫にならないように歩く。マナーやモラルが人をつくる。和子に見放されるような人間ではいけない。
 そういえば何故個人経営にも拘らず自宅と店舗が遠いのか。最寄駅に店がある以上、自宅も近いものだと最初はぬか喜びしていたが、江古田と聞いて肩を落としたものだ。そんな疑問を抱いたまま、リュウはキッケへ到着した。
 店前には火曜が定休日だという旨の立て看板があった。いつも置いてある店名が記載したものの裏側に書いてあるものらしく、蝶番を反転させてもう一つの役割を全うさせていた。
 店に入りレジの奥を進むと「関係者以外立ち入り禁止」の文言が刻まれた扉が見える。息を整え、二度ノックをする。中から待望の美声がやや小さめに聞こえた。駆け寄る足音。桜色のファンファーレ。
「ごめんね。立ち寄らせちゃって」扉を開けながら和子が言った。
「いえ」
「タクシー代は私が出すから」
 室内は表とは違い、鮮やかさとは対照的なシックな色合いに満ちていた。まさに作業の為の部屋。いくつかの植物は確認出来るが、金属やガラス・書類などの方が目につく。ここでの手入れの積み重ねがあの力強く美麗な花々を生んでいる。
「いいですよ、俺が」言っている途中で和子の目つきに気がついた。こちらを睨んでいる。
「駄目。それは初めだけよ。二回も三回も女の子奢ってるとそれが癖になって辞め時が分からなくなるわよ。ここは年長者の言うこと聞きなさい」
「はい」
 叱られた。懐の寒さを気にしていたところだったので内心安堵してもいた。
「それにしても、定休日もお店に顔出すなんて大変ですね」
「世話があるからね。それに仕込みとか準備いろいろ」
 和子は作業を再開する。
「なるほど」
「じゃあもうちょいで終わるから待ってて」
 店内には二人ほどが座れる腰掛け台が一つだけある。そこで時間まで和子を待つ。待機が苦に感じない。リュウにとってこの店は、そこらのテーマパークより余程魅力的だった。
 前よりも落ち着いて草花を見ることが出来る。和子に視線を奪われずに済むからだ。季節のものや恐らくそうでないものまで、幅広い種類がこの決して広いとは言えない空間の中で無駄なく詰め込まれている。それでいて窮屈ではない。見知ったもの、和子に教えられたもの。後者はなんだか一際特別に映る。マイナスイオンとやらの効果を実感した。
「行こっか」
 ようやく和子が顔を覗かせた。

 タクシーの中で店舗の場所のわけを聞いた。考えてもみなかった。以前の家の近くで始めたからなどとは。離婚後、江古田に引っ越したが、花屋の経営は続けることにした。和子が一人で切り盛りしていることをリュウは不憫に思った。僅かでも助力が叶うならそうしたいとも。
 和子の自宅へ着くと背筋の伸びる感覚があった。駅ではない、そこから十二分離れた正真正銘の真澄邸。三階建てのアパートだった。十八世帯の金属ポストが鏡のような表面で反射している。清掃が行き届いている。ちゃんとしたところのようだ。
 和子の案内に従い後ろにつく。和子の部屋は最上階の三〇四号室。階段を上がる度、廊下を進む度、靴音がひんやりとした響きを見せる。和子が取り出す鍵の音でさえ、胸の高鳴りに共鳴するドラムロールのようにリュウに突き刺さる。扉を開け、和子は暗がりの中で手探りに照明のスイッチを探し当てた。順繰りに三箇所の電気が点いた。アンティーク調の茶色をベースにした落ち着きのある古風な空間。それでいてモダンである。
「適当に座って」
 和子に促されリュウはリビングのソファに腰を下ろした。すぐに着用出来るようクローゼットから二着の洋服が壁上方のフックに掛けられている。梅雨を前にして外の湿度から解放されただけで、かえって温度差で自然と汗が吹き出した。
「今エアコンつけるね」
 和子はリモコンを手に取った。スティックタイプのアロマディフューザーのおかげでさほど暑さは感じていない。
 何を話そうか。リュウは思案した。以前カフェでは話が盛り上がった。そう記憶している。会う回数が少ないと話題も多いので事欠かないのだ。リュウとて無我夢中だった。しかしいざこうして静かな空間に二人でいると、アドレナリンだって切れる。
 リュウが視線をテーブルから外すと、スマートフォンを操作する和子がいた。いつの間にか眼鏡を掛けていた。百円均一で見かけるようなシンプルなもの。レンズ部分が青い。リュウは自分の目を指差して訊ねた。
「ブルーライトカット?」
 和子はレンズの中で、画面からリュウに対象を変え、焦点を合わせた。
「最近は若干、老眼も感じ始めてきたし、目の負担を抑える為にこれ掛けてるの」
「そうなんですね」
「あんまり意味ないって聞いたこともあるけど、何となく」そう言ってはにかんだ。
 似合っているのだから効果なぞはどうだっていい。リュウはそんなことを考えた。
「夜には降り始めるらしいから、それまでにしようか。来週には梅雨本番かもね」
 来た瞬間に帰りのことを考えるのは寂しい。たったニ、三時間で日常に返還されるこの身が嫌になるだろう。世間話のネタも手薄だ。早いうちに本題に入って差し支え無い筈。一刻も早くその回答を耳にしたかったのも大きい。
「真澄さん。俺の気持ち、考えてくれました?」
 リュウは勇気を振り絞った。ソファの沈みが副交感神経に働きかけるが、油断しないよう己を律することに努めた。
「まだそんなこと言ってるの」
 虫の居所が悪いのだろうか。少し尖った声だった。
「何度でも」
 リュウは退かない。家にまで誘われたのだ、可能性を感じるのも無理はない。今、物理的に和子の一番近くにいるのは自分であり、この時間彼女を一人占めしているという事実は揺るぎない。
「流石に無理があるわよ」
「乗り越えましょう、二人で」
 偏見にだって立ち向かえる覚悟。何度も決意を述べておいて万一迷いを見せようものなら築いたものは全て水泡に帰する。
「えらく簡単に言うじゃない」
「だって」
 普通ではない。それは和子が一番分かっていた。自分の年齢と相手の年齢。親子ほども離れている。世間的に見ても気味の悪い関係と揶揄されたりするのは必至。いくら正常を説いたところで風当たりは強い。
 確かに手を褒められたのは嬉しかった。感情を隠さず素直に伝える真っ直ぐさに面食らいもした。若さ故というだけでなく目の前の彼自身の性格からくるということも、数回とはいえ会って話してそれとなく実感した。
 断る理由としては不服だと言わんばかりの表情のリュウ。和子としても手に負えない。納得させるには骨が折れる。どうすれば諦めてもらえるのか。一か八か、荒唐無稽な案を口に出した。口にするのも一苦労の恥ずかしさであった。
「じゃあ、そこまで言うんだったら試しに付き合ってみる?」
 リュウが和子の方を見る。吐息のような驚きが喉から漏れ出た。キッチンに立ち背を向ける和子の姿。気を張り詰めていた自分が聞き間違いを起こした筈がなかった。和子は言葉を重ねた。
「お試しよ、ただのお試し。クーリングオフとか、そういうのは無いかもだけど」
 リュウは肯った。全力で肯った。浮き足立つ気持ちを抑えられない。幻は見えているうちが華だ。消えて美談にさせるつもりはない。過去の栄光を追いかける亡霊にはなりたくなかった。
「も、もちろんです! 返品なんてしないし本契約します。俺、絶対真澄さんの気持ちを動かしてみせます」
 意気込みを聞いた和子は言った。
「どうかしらね」
 そんな言葉もどこ吹く風。充足感に包まれるリュウには届かなかった。目先の幸せに存分に浸っている。
「やった。やったやったやった!」
 能天気な声音が和子に鈍くのし掛かった。
「お腹空いてるでしょ。とっておき作ってあげるから待ってなさい」
 背後の青年は思い人の手料理が食べられることを無邪気に喜んだ。
 冷蔵庫から材料を取り出す。必要なものは買い揃えてあった。豚バラ肉をパックから出し、折り畳まれた部分を切り三等分にする。フッ素樹脂加工の施されたフライパンの上に気持ち程度の油を引く。中火で肉を焼き始める。和子からすれば多い量だが育ち盛りの十八歳にはたんぱく質などあればある程良い。大学卒業までは男性の体は成長すると聞く。全体に火が通り色が変わった頃合いでキムチ一パックを全て投入する。肉を焼いていた音が僅かに小さくなった。具材をほぐしながら炒めていく。キムチだけで味が付くので本来は調味料を足す必要はない。しかし和子は用意したはちみつを一回しした。辛味の中にまろやかさのコクを含ませる。一度味見をする。口の中で白菜の切れ端を咀嚼すると、もう一回しはちみつを足した。全体の馴染みを確認すると火を弱め、味を締める為に黒胡椒を振り掛ける。急いで横に置いておいた丼を手に取り、保温中の炊飯器を開ける。タイマーを設定し家に着く二十分前には炊き上がるよう設定しておいた。水にくぐらせたしゃもじで米をほぐす。ある程度掻き混ぜたら、もう一度しゃもじを水に濡らし丼へよそう。フライパンの前に戻り、白米の上に具材を乗せていく。最後に、早朝に予め刻んで食品保存容器に入れておいた青ネギを散らす。
「さあさあ、お待ちどおさま」
 運んだ料理と箸をリュウの前に置く。陶器の重量感のある音がテーブルとの間から鳴る。リュウは視覚と聴覚に飛び込んでくる情報量の多さに目を見開いた。生唾を飲み込む。
「これ、すごい。漢メシって感じで」繊細な和子からパンチのあるものが出てきたことに驚いた。「あ、あの、漢字の漢って書くほうのオトコ」
 続けて麦茶の注がれたコップを運んできた和子が笑う。
「ふふ、特製豚キムチ丼。て言っても大したモノじゃないけど」
 男が好きな活力の湧き出る得意料理。あの人も好きだった。こんなことは間違っても言ってはいけないと和子は心に留める。リュウに元気をつけてほしい、喜んでほしいから作ったのだ。他意はない。
「真澄さんの小さいですね」
 ふとリュウは目の前に座った和子を見た。ソファの反対側には何も無く、地べたのカーペットに座っている。和子の前の料理はご飯茶碗に盛られており、リュウの半分程しかなかった。
「遠近法じゃない?」和子はそう言って微笑み小首を傾げた。
「そんな馬鹿な」
 言って和子の姿が靄に掛かっているのに気がついた。白い揺らぎ。二人が挟む、出来立ての品から昇る湯気には違いないのだが、神秘的で刹那的な儚さを持ったように映り、心の奥がきゅっと絞られる感覚があった。
「ささ、食べて」
 和子の手が伸びる。掌は上を向いていた。手相に明るいわけではなくとも彼女のそれがきっと素晴らしい意味を持ったものばかりなのだろうと妄想を膨らませた。リュウには店で花を生け、キッチンに立つ人の手とは思えなかった。
「いただきます」
 両手を合わせ、箸を右手に具材と米を同時に持ち上げる。一段と濃くなる湯気。息を吹き、頃合いで口の中へ頬張る。熱さよりも先に旨味が届いた。赤々とした見た目から第一に甘さがくる。噛む度に辛さが徐々に現れ、飲み込む手前で黒胡椒の存在に気づく。ぴりりという程の辛さはなくとも、甘さと辛さが上手く同居し調和している。
「う、うま」
 その呟きを聞くと和子はさらに口角を緩ませた。
 夢中になって箸を進める。食欲の増進効果も高い。好きな人の手料理にありつけた嬉しさが、さらなる味の向上に繋がる。リュウは一心不乱に食事を堪能していた。
「真澄さんは何か趣味とかありますか」
 口を水風船のように膨らませて訊ねる。
「うーん、趣味かあ。花かなあ」
 小さく両手を合わせ挨拶を呟き、一口目を口にする前にリュウの質問に答える和子。
「俺の新しい趣味じゃないですか」
「え? ああ、たしかに前はそう言ってたけど、今となってはホントか怪しいなあ」横目で和子がリュウを見る。いたずらな表情をしていた。
 リュウは自身への疑いを晴らすべく釈明した。その際、笑いながらも和子は料理を食べ始めた。一口は小さい。
「やっぱり好きなんですね」
「うん、好き。綺麗で」口を手で隠して和子が言った。「見た目も好きだし、なんだか空気も澄んでくるし、強く咲き誇って『生きてる』って伝えてくれるから好き」
 感性が選択される言葉の節々から伝わってくる。リュウはそれを聞き漏らさぬよう神経を研ぎ澄ます。口内の辛味が少しだけ邪魔をした。
「リュウくんの趣味は?」
「俺は、特に何も」
「何もってことはないでしょ」
 箸を止める。和子に対して言うべきことなのか悩んだ。それでも何故だか今日は、弱さを打ち明けることに抵抗が少なくなっていた。不思議と舌は吐き出した。
「何も打ち込めることが無くて。死ぬほど努力した経験も無いし、誇れることも無い。だからそんな自分にうんざりしてたんです。ずっと」
 和子は手を止めたリュウの纏う空気の変化を一早く察知した。
「自分の足で歩いてきた道のりを振り返ると、足跡が風に消されて無くなってるんです。自分の足で山を登ってきた筈なのに、振り返ると標高が変わってないんです。びっくりですよ、汗を流した記憶はあるのに」
 つまらない話には違いない。リュウは自覚しつつも話を続けた。
「女々しいですけど、友達にも相談してたくらいで。でも俺は真澄さんに出会えた。それだけで今までの人生お釣りが来ます。感謝してるんです」
 行き着く先は同じ。無意識の着陸。きっと和子への思いは抑えられないように出来てるのだ。リュウは肉体の構造を把握した。
「ごめんね。辛いこと話させちゃったかな」
「いえ、だから! 俺のしょうもない人生にとって真澄さんは希望の光っていうか、絶対の花なんです!」
 カフェで見た、同意してばかりのリュウを思い出した。
「肩に力入りすぎ」またも和子は微笑んだ。
 お試しで交際するなど、かえってリュウを傷つけることになるやもしれない。止した方がいいのではないのか。もしくは、自分が若者に本気になる可能性に怯えているのか。今まさにその懸念が増してしまった。彼は本気で、本当を言葉にしている。
「す、すみません」
「ううん。いいの」
 話のタネが尽きてしまった。言葉が切れた。重い内容が過ぎたことを省みる。リュウは焦りを隠すことが出来なかった。次にどうやって切り出すか。口を開こうにも、持っている相手の情報が少なすぎる。かといって流石に問いかけが多くなっているのも理解している。質問攻めもよくない。会話に臆病になる。
「えっと、えっと」
 リュウは丼を見た。残り三口くらいだろうか。味の認識が鈍くなり衰える。卑屈な人間と思われた。せっかくのご馳走を台無しにするような顔を見せた罪は大きい。すると前方から聞こえた声があった。
「そんなに会話に必死にならなくても」和子は麦茶を喉に流し込む。
「え」
 和子は穏やかに話した。ごく自然な物言いで私見を音にした。
「沈黙も保つの、恋人って。そういうものでしょう」
 経験値の浅さを抱擁されているようで、リュウはどきまぎしつつも箸を口へ運んだ。
 その光景を眺める和子。若い男の優しさに溺れているのか。元夫の呪縛から目を逸らすように。これはひどく低俗な行為なのかもしれない。年の差の恋愛を常識的でないと割り切るようで、どこか自分の生活に変化を齎すのを期待している。同じだった。リュウが言うように、四十七年の人生に自信が無くなっていた。このまま花に囲まれて幸せを享受し、反面、金銭面では瀬戸際で糊口を凌ぐ。悪くはない。しかしどこかで愚痴を吐く筈だ。定期的に訪れるそれに抗う術(すべ)を自分が持っているとは思えなかった。
「若いのによく考えてるのね。私なんかもっとフラフラしてたわ。危機感なんてこれっぽっちもなかった」
 和子は食事を終えていた。空の碗には米一粒も存在しない。食器を横にずらし、テーブルに両肘をついて前のめりになる。
「せっかく先に食べ終わったから私がお話しようか。気になってるかもしれないこと」
 リュウは身構えた。嬉しい提案だったが、同時に自分がした暗い身の上話の次に彼女が何を言うのか、恐ろしくもあったからだ。
「子どもはいないわ。出来なかったの。こればっかりはどうしようもない」
 意外な切り口だった。
「原因は私の方にあった。そういうのも愛想を尽かされた理由かもね」
「そ、それ」
 リュウを制するよう言葉は上から重ねられた。
「それと、私は片親でね。シングルマザーで育ったの。父も息子もいない。だから男性への理解が薄いのかも。あ、別に女子校じゃないけどね」
 あっけらかんと言ってはいるが、その内容はシビアだ。リュウには和子が明度を合わせてくれているような気がした。
「あなたの気持ち、正直嬉しいわ。年齢差は最初こそ偏見の壁として立ち塞がっていたけれど、今なら一人の男性としてしっかり自立してて己の価値観を持っている人だって分かる。中身が大人で、ちゃんと話せてちゃんと理解し合える。そこに年齢は関係ないのかもって思え始めた」
 傍からみれば言い訳だった。それでも自分が感じたものを大切にしたい。心に従い、直感を信じる。少なくとも、プライベートな話をすることに躊躇いのない相手だ。
 和子は思いついたように訊ねた。
「名前の漢字、教えて。もうはぐらかさないでよ」
 想定外を聞かれた。そう何度も逃げられない。けれど以前と状況は異なる。弱音を吐いた後だ。冷静に言葉を紡ぐ。
「リュウ、川柳の柳です」
 和子が目を丸くする。
「へえ、風情があるね」率直な感想だった。
「そんないいものじゃ。枝垂れ柳って分かります? 首が項垂れるように成長するんです、自分の重さに負けて。それと同じですよ。ずっとこれからも下がるだけ、長さが伸びても上がることは無いんです」
 面白みのない話。柳はこの後に和子のことを交えて明るく着地させるつもりでいた。
「悲観的だなあ。そんなことないよ。『りゅう』って読みなんだし、上に高く上っていけば良いじゃない」
 元気づける為の気遣いが胸に刺さる。和子はどんな物事も暖色で包み込むことの出来る才能を持っている。柳の耳がじわりと赤みを帯びた。
「上手いこと言いますね」
「あ、でも天には昇らないように」ブラックジョークすらも柔らかで上品なベルベット。
「はは」
 けれども漢字が柳なのには変わりない。不貞腐れる自分の格好悪さは相当のものだった。乾いた笑みで終えようとしたその時、和子が言った。
「柳、か。やっぱり私、植物に縁があるのね」
 そう呟いた。驚いた。自分の名前が色づいた。運命とはこれのことか。まるで和子と巡り合う為の名前。あの店に相応しく、彼女と共に居るのに相応しい意味。歓喜が沸騰する。
「残り、早く食べちゃって」
「は、はい!」
 柳は残る料理の全てを平らげた。すでに冷めてしまっていたそれは、出来立てと同じ味わい深さを纏っていた。
 自分の気持ちを伝え、お互いの弱さを披露した。和子の器量の大きさに助けられた部分が大いにある。傷の舐め合いをするような関係でもいい。寧ろ、一見綺麗すぎる何もない体に傷が欲しかったくらいだった。
 雨が降り出した。急などしゃ降りの雨。豪雨は激しく地面を叩きつけ、アパートの薄い壁からその脅威を知らしめた。窓の鉄格子が揺れる。和子から一泊の許可が下りた。願ってもない申し入れだった。柳は二つ返事で了承した。時間の許す限り、たくさんの話をした。時計を気にする必要がなくなり余裕をもって相対出来た。雨に感謝した。雨音は五月蝿く、和子の声がやや聞きづらいので二人して大きめの声にならざるを得なかった。雨への謝意を少し取り下げた。
 店名の由来を聞いた。唯一無二の空間づくり。小さな秘境。心地よく、お目当ての品に必ず出会えるような。それでいて、どの花にも目移りしてしまうような。自分も客も満足させる妥協のない稀代の花屋。
 それで、キッケ。



ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。