「ターコイズフリンジ」⑤完

 インターホンが雨音の中を潜り抜ける。彩月は一人、窓を叩きつけるその音に耳を澄ませていた為、聞き漏らしはしなかった。
 突然の豪雨。高い湿度に見舞われ快適とは程遠い中で、一体誰がここの門を叩くのか。彩月は幾人かの予想を立てながら玄関へ向かう。
 裸足が床に接地するたびに皮膚との間で音を立てる。小気味よく等間隔で発生するそれが室内に響く。外の喧騒に負けじとよく耳に届いた。
「彩月ちゃん。こんにちわ」
「おばあちゃん」
 扉の向こう側に居たのは彩月の母方の祖母である今崎早苗だった。事前連絡なしの来訪は珍しい。
「急に押しかけてごめんね。すごい雨」
「あ、うん」
 戸惑っている彩月に反してずんずんと家に上がる早苗。見たところさほど濡れているわけではなさそうだったので強く制止はしなかったが、彩月は顔を歪ませた。以前から、祖母特有の圧の強さや高い積極性のようなものに対して苦手に感じることがあったからだ。
 リビングのテーブルに持ってきた紙袋を置く。早苗はその中から土産の品を取り出した。
「暑中見舞い。ここのゼリーおいしいのよ。彩月ちゃんメロン好きだったわよね。味、五つから選べるから」
 質感の良さそうな直方体の箱。話しながら早苗が中を見せる。五種類の果物の絵柄が二列並んでいた。
「一人?」
 早苗はくるりと辺りを見回す。今日は土曜だ。本来なら正水が家に居るはずの状況で、彩月だけの出迎えに疑問を抱いたようだ。
「休日出勤とか何とか言ってた。確か理由は、えっと」
 彩月には断片的な単語の記憶だけしか残っていなかった。普段、早苗と会うときは一般的な仲の良い親子を演じるよう努めている。父が居ない説明を流暢にする必要があった。
「月曜日までのプレゼンを仕上げるため、とか?」
 早苗が吐いた言葉に縋るように首を縦に振る彩月。
「そう、それ」
「前にもあったもんねえ。彩月ちゃん寂しかったでしょ。せっかくの夏休み、休みの日くらいは貴重に過ごしたいわよね。もうどこか旅行に行ったりはした?」
「まさか」
 彩月は正水と二人でどこかへ行くなど、今では考えもしなかったことを聞いて笑いそうになった。そしてすぐにその笑みは消えた。答えを誤ったかもしれない。父と娘の旅行がごく当たり前かのような早苗に対して、不和を感知させるような物言いになってしまった。
 幸い早苗に特に変わった様子はなかった。しかしその瞬間、彩月に一つの考えがよぎった。早苗がなぜ突然訪問したのか。正水は自分との関係を早苗に相談しているのではないか。その上で、自身が不在の間に早苗を家に寄越した。
「あのね」
 そう言った早苗を彩月は遮った。次に出てくる言葉が怖かった。主導権を握らせてはいけない。
「おばあちゃん何で来たの。今日って何かあったっけ」
 純粋に目的を探る為だった。しかし彩月がした質問は思いもよらぬ答えを引き寄せる。
「何って、今日は正水さんの誕生日でしょう」
 彩月はカレンダーを確認する。八月十二日。失念していた。確かに正水の誕生日だった。正水と全く口を利かなくなってから、すでに一週間が経っていた。祖母は少ない家族、三人で父のお祝いをしにやって来ただけだったのだ。
 物事を悪い方向にばかり考えてしまう。彩月は頭の凝り固まった自分に辟易した。
「何か悩み? 心ここに在らずって感じだけど」
 大きなため息を吐いた彩月を心配するように早苗が顔を覗く。彩月が平常と違うことは最初から勘づいていた。
「別に。忘れてただけ」
 早苗は肩に掛けていた鞄を下ろし、羽織っていた薄手のカーディガンを脱いだ。
「ハグしましょ、ハグ」
 彩月は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「ハグ?」
 早苗もそのまま繰り返す。
「そ、ハグ。意識的にこういうことする人、今減ってるでしょ。特に若い人は」
 両腕を広げ、彩月を待つ。穏やかな表情で開かれた体は、彩月の行動を促した。断れずに従うしかなかった。
 彩月が早苗の真横に顔を持ってくると、早苗が腕を折り畳み、抱き寄せる。その高い体温は彩月の低い体温によく馴染んだ。
「抱き合うのって、この世界に自分が一人じゃないんだって強く実感できる何よりの方法なの。どんなに友達が多くても、血の繋がりがあっても、言葉を交わすほどの距離でも。人は人を遠くに感じることがある。でも体を触れて、心臓を合わせて密着すれば、それがぎゅうと縮まるのよ」
 実演している最中ならば、説得力は最大限に増し、効果を発揮した。鼓動が伝わる。言葉を発する度に揺れる振動の感触が伝わる。思えば、有志以外とこうして体を抱き合わせるのは久しぶりのことだった。彩月は友人ともスキンシップが盛んな方ではない。
「ハグ、か」
 不安定だった自分の核のようなものが一先ずの落ち着きを取り戻したようだった。苛立ちや強い猜疑心に占領されていた感情が整理されていく。
 四年前を思い出す。憂き目に遭っていた彩月を慰めたのも、早苗の抱擁だった。
「すごいね、おばあちゃん」
 抱き合ったまま、彩月は目を閉じて呟いた。
「海千山千よ。うふふ」
 服の手触りを確かめる。早苗はよく花柄のものを好んで着ていた。紫陽花や向日葵、アサガオやスイセンなど、それは多岐に渡った。中でも百合の花が好きで、今日はそのとっておきを引っ張り出してきたようだった。
 鍵が開き、玄関からの物音で正水の帰宅が判明する。正水は揃えられた靴を見て来客に驚いた。ネクタイを緩めながらリビングへ向かうと、義母の姿が目に入った。
「早苗さん。いらしてたんですか」

 三人でゼリーを食べた。甘味は控えめで、上品な酸味と多めに入った果肉が味を引き立てていた。早苗は遠慮すると言ったが、彩月がそれを拒んだ。三人で食べようと提案した。祖母を道連れにしたような気分になった。
「ごちそうさま。おいしかったかしら」
「ええ、もちろん」
 正水の返事を聞くと早苗は空の容器を置き、返り支度を始めた。
「楽しいお話が出来たわ。もうそろそろ、おいとまするわね」
 彩月は立ち上がる早苗を引き留めるように言った。
「まだ居ていいのに。泊まっていったら?」
 早苗はかぶりを振った。
「ここからは二人の時間。親子水入らず。誕生日、うんと祝ってあげて、彩月ちゃん」
 事情を知らない早苗がお節介のようにそう言うと、二人は苦い顔をした。上着を腕に提げ、椅子を戻す早苗。少し考え事をしたように止まり、背中を向けて言い放った。
「神様は言い訳よ」
 仰々しい言葉に彩月と正水が固まる。
「え?」
 彩月が困惑していると、早苗は振り返って付け加えるように話し始めた。
「良いことがあったり、努力した結果が出たり、達成出来たり。そういうのは自分のせいにするの。そうしたら自分を好きになれるし認めてあげられるでしょ」
 目尻に皺を作り、優しく微笑む。
「それで、悪いことは自分じゃなくて神様のせいにするの。不運や不都合なこと、思い通りにいかないことは全部神様が悪いんだって。そうしたら自分を憎まずに済む。だから、神様は言い訳」
「そんな罰当たりな」彩月が口を挟む。
「だって神様よ? たかが私たちの不平不満くらい、一手に引き受けてくれるわ」
 そう諭す早苗に、説教臭さは微塵も感じられなかった。

「ありがとうございました。お気をつけて」
「いえいえ」
 外は晴れていた。しかしまだ少し雨がぱらついている。雲の隙間から射す日の光が朧げに建築物を照らしていた。
「狐の嫁入りってやつ?」
 彩月はいつかの小説で見かけた言葉を声にしてみた。
「どうかしら。降り始めじゃあないけれど。ふふ」
 早苗は空を見上げ、にこやかに笑った。孫の素敵な語彙に頬を緩ませる。帰路を辿る足取りが軽くなった。ほんの些細なことだったが、そこに喜びを見出した。早苗は幸せを見つけるのが得意だった。

 早苗を見送り、正水と二人きりになった。さっきまでが嘘のように空気に質量が宿る。飽和した湿度のせいだけではない。
 部屋に戻ろうとする彩月。
「彩月。少し、話せないか」
 予想通り、機を逃すまいという思惑の声が掛かった。彩月は足を止める。有志や葉子、店主や早苗の顔が浮かんだ。それから色褪せた白茶の装丁も。
 それでも、心の準備がまだだった。再び階段を上がる。正水は小さくなる背中を黙って見つめることしか出来なかった。

 午前二時三分。喉の乾きを感じ、部屋から出て階段を下りる彩月。やけにリビングが静かだった。冷蔵庫を目指すと、テレビ側のフローリングに胡座をかいている正水が見えた。カーテンを開け、窓際で月を眺めている。中庭と縁側に当たる月明かりが窓を貫通し、正水の膝付近まで侵入してきていた。
「何してんの」
 いつもの彩月ならば声は掛けなかっただろう。するりと勝手に舌が動いた。別段、後悔はなかった。
 正水は彩月の声を聞くと、慎重に口を開き話し始めた。
「彩月って名前はさ、月の綺麗な夜に付けたんだ」
 初めて耳にする名前の由来。興味からは逃げられない。彩月は静かに続きを待った。

 七月一日。彩月の生まれた日。深夜に陣痛が起こり破水。早朝にお産が始まり、約七時間をかけて彩月は摘出された。正水と百合は、何とか無理を言って当日の夜に一瞬だけ二人で彩月を抱かせてもらえることになった。暗い病室、夜空に浮かぶ月が印象的だった。
「可愛い。目も鼻も口も、すんごく小さい」
「はは、当たり前だろ」
 二人の顔は弛緩しきっていた。つぶらな瞳と突き出た唇が頬の肉に押されて窮屈そうにしている。何とも愛らしい光景だろう。柔らかな、癖のある匂いが立ち込める。
 赤ん坊の輪郭がぼやけて見えた。まだ肌には新鮮な赤みがある。正水が振り返ると、月が燦々と輝きを放っていた。
「ほら見ろよ。綺麗な月だ」
 正水は思ったまま、感想を述べた。すると百合がくすりと笑う声が聞こえた。
「夏目漱石のつもり? 急にやめてよ、愛の告白なんて」
 正水は小首を傾げた。

「二人とも本に明るい方じゃあなかったけど、母さん、その言い回しだけは知ってたんだ。俺は当然知らないもんだから、早とちりに顔真っ赤にしてたな。それに、後から調べて出典が不明だなんて知ったときには二人してがっかりしたよ」
 変わらず正水は彩月に背を向け、記憶を噛み締めるように笑った。
「でも、確かに月が黄色く発光して見えたんだ。彩りが美しくて、周りの黒い夜空はこの為にあるんだと思った。引き立て役だけど、なくてはならないもの。明るさと暗さが手を取り合ってるような。どこか楽しげで」
 似合わない言葉で自分の感性を装飾する正水。彩月は眉一つ動かさなかった。
「彩月が生まれてきたことで、世界がより一層色づいた。母さんの笑顔も一段と増えて、美人が増したもんだ。幸せに幸せが重なるなんて考えられないだろ? でも間違いなく、百合と彩月がいて俺は世界一幸せだった」
 幸福と不幸が釣り合うことはなかった。正水にはどちらかが一遍に押し寄せる。この四年、息が詰まるような閉塞感から逃れられずにいた。何をやっても裏目に出て、娘との距離は広がるばかり。踠いても踠いても水面が近づくことはなく、薄い光の揺らめきを眺める事しか出来なかった。
「なんでだろうな。父さんが間に入ると、いつも彩月を不機嫌にしちまう」
 ハの字にした眉で彩月に向かって微笑む。表情とは裏腹に苦しそうな震えた声だった。やがて姿勢を元に戻し、月光と向き合う。
 彩月は被害者のように暗澹とした顔の正水をどうしようもなく憎らしく感じた。堆積した鬱憤が限界を迎える。堰提が瓦解していく。
「あたしの何が分かるの」
 静謐な声だった。彩月は、放出される自身の悪意を擁護した。
「嫌なの、あんたが嫌なの! やることなすこと全部嫌! 無理! 友人関係とか恋愛とかずけずけ聞いてくるの、気持ち悪い! 洗濯物を別にしたのに勝手に畳んでるのもキモい! 夜ご飯あたしの名前でデコるのもキモい! 郵便受けに入ったあたし宛ての封筒を勝手に開けるのもキモいし、それで紙の右端が湿ってるのもキモい! プレゼントもキモいし、汗とか匂いの話しつこくしてくるのもキモい! 加齢臭もタンクトップも、食べてる時に口開けて食べたり飲み物でじゅるじゅる音を立てるのも全部キモい!」
 一切の継ぎ目なく並べられる罵詈雑言。正水の背後に立った彩月は凍えるような冷気を纏っていた。互いの体に力が入る。
 正水は自らが浅はかに連ねた行動を思い、慚愧に堪えなくなった。
「あたしのこと、にっちゃんて呼んだよね」
 彩月は核心に触れる決意をする。最たる分岐点となった出来事。以来、正水という人間自体に懐疑的になってからは毎日が苦痛だった。
「あたしと葉子の間だけの呼び方。一人でも他の人がいたら使ってない。それをあんたは知ってた。娘のケータイを勝手に見るような、最低な人間ってことだよ! あんたは! 愛情のつもり?」
 娘の怒号を浴びて、正水は硬直した。
「え、あ、あれかあ」
 衝撃が体を走る。正水は流れを変える可能性を持った希望の光として使ったものは覚えていた。まさかその光が失態で、ましてや今日(こんにち)まで続く引き金になっていたとは思いもよらなかった。
 彩月が入浴前、一度スマートフォンをリビングに忘れたことがあった。表向きに置かれた画面から、正水は葉子から彩月へのメッセージを目にした。立て続けに送られてくる内容に目を通すと、見慣れない呼び方があった。初めは送信相手を間違えているのだと思ったがそうではなかった。仲睦まじい様子が文面から伝わると、正水はその欣快を胸に抱き、和んだ心を自室へ持ち帰った。
「言ってくれれば」
 言い訳がましい言葉が自然と自分の口から発されたことに正水は驚いた。弁解が通用せずとも、釈明を諦めてはならない。
「言ってくれれば、何。謝った? 笑わせないで」
「誤解だ。父さん、わざわざ彩月のケータイを触ったり調べたりなんかしないよ。ただ、前に一度画面が表になってたことがあって、その時に目に入ったんだ。学校ではそう呼ばれてるのかと思ってた。安易に使ったのがそこまで嫌だったなんて知らなかった。ごめんな」
 彩月は頭を掻きむしった。
「何それ。意味わかんない」
 正水の悲痛な訴えは真実を意味していた。それは彩月にとって耐え難い濁流となって身を包んだ。
 重ねれば重ねるほど、言葉は価値を失くすと彩月は思っていた。正水は行動で示すべきだと盲目的に信じ、邁進した。それは一方的だった。
 平行線は四年の歳月をくず箱に入れる。根底の酷似していた二人。しかし、行動の手前にあるべきが言葉なのだ。接触し関与するという行動をとった正水と、拒絶という行動をとった彩月。言わないから伝わらない。伝わらないから変わらない。早合点は非生産的な愚行である。そのことに疑いの余地はない。
 一歩。彩月は正水に近づき、膝をついた。ゆっくりと腕を上げ、両手で正水の首に触れる。熱が掌を伝う。
「父さんに悪いとこがあれば直す。ずっと前からそう決めていた。彩月が本当のことを話してくれたなら嬉しい」絞るように声を出す正水。
 彩月の指先に力が入る。獣のように荒くなる呼吸。自分が今、とてつもなく恐ろしいことをしている自覚があった。正水は抵抗することなく座っている。呻き声のようなものが口から漏れ出ていた。爛れた左肩は健在だ。
 瞳に涙を浮かべ朦朧としていく視界に苛立つ。有志や葉子が居たら八つ当たりだと非難するだろう。入り乱れる激情に従い、肉体はさらなる力みを増す。後戻りをしようにも、前後が分からない。上下や左右でさえ。
 瞬息、彩月は眼前の光景にはっとした。フラッシュバックされる正水の姿。有志が言っていたことを思い出す。彩月は理解した。なぜ記憶の中の正水の顔があやふやなのか。
 母の顔は鮮明に残っている。それは、よく抱きしめられていたからだ。父に抱きしめられた記憶は殆どない。しかしそのかわり、肩車やおんぶをされていた。そのことははっきりと思い出すことができる。父の後頭部からする、温かな陽だまりのような匂いが好きだった。母と自分を先導したり、壊れたおもちゃを直してくれたりした。頼りになる後ろ姿は、いつだって自分に安心を与えていた。
 正面からの印象が強い母と背面からの印象の強い父。それを都合よく改竄し、無意識の中、自己正当化の材料として便宜的に使っていた。故に、父の顔は忘却された。
 目を見開く彩月。首を絞める手から力が抜けていく。やがて、正水の背中にしがみ付いた。
「気持ち悪い」
 彩月は自身の気持ちを吐露した。聖域の中で殺されていた感情が息を吹き返した。
「一番、自分が気持ち悪い。心の中にあるものの名前が分からない。ずっとそのままにしてた。いつか気づくだろうとも思ってたし、気づかなくても何とかなるって思ってた。誰かに言われて初めてこんなに。ほんと、恥ずかしい」
 正水の背中に啜り泣く声が降り掛かる。深海の暗闇を水泡が埋め尽くし、画面が切り替わるように外へと飛び出す。水面の向こうに求めていた、酸素が満ちた光の下へ臨場した。やっとだった。正水は静かに目を閉じた。
「ごめんなさい」
 嗚咽の混じった、声にならない真空の慟哭が彩月に訪れる。須臾の時間は二人にとって何よりも濃密に流れ、四年の空白への答え合わせとなった。
「こっちこそ。俺もほんと鈍いなあ。やっと、二人で歩いていけそうだな」
 正水はテレビの傍に置かれたフォトフレームの中で、憧れた三角形が眩しく反射しているのを見た。
 二人の影を平等に伸ばしていた月光は、より高くに位置した月によって、その影の数を減らした。

 少しだけ広すぎる青空の上に点在する雲が翌朝の二人を祝福していた。
 正水は運動の継続に情熱を燃やしているようで、さっそく朝からランニングへと出発する。彩月もいつだか買った服を久しぶりに出し、髪を後ろで高く結んで玄関に向かう。靴を履いている正水にぶつかるように肩へ手を置く。
「おっと」
「何してんの、早く。靴紐結ぶのに手こずってんの?」
 正水は反論するべく彩月の足元を見る。彩月は階段から降りてきた時点ですでに靴を履いていた。
「あっ、時短したな。家ん中で靴履くのは反則だろ」
 彩月は靴の裏を指差す。
「新品だからいいんです」
 そして正水を軽く蹴った。その足癖の悪さに、正水は笑いながらも感心した。
「お先」
 彩月が勢いよく玄関を開けると人影があった。反射的に立ち止まる。正水が声をかけた。
「やあ、来てくれたんだ。さ、三人で走ろう」
 口ぶりから察するに正水は事態を把握していた。どちらが誘ったのか彩月には分からなかったが、ごく普通に話せるだけの仲になっていたことに驚いた。一体いつの間に。彩月は公園で逃げるように有志と別れた手前、スマートフォンを遠ざけていた。何か連絡が入っていたのだろうか。思わず目を泳がせる。
「よ」
 有志は何食わぬ顔で屹立していた。表面にうっすらと汗を滲ませる喉仏から色気を感じる。
「どしたの。いくよ」
 忘れるところだった。後ろめたさはもう必要ないと、他でもない彼が教えてくれたのだった。
「うん」
 彩月から、青息吐息が出ることはもうなかった。




ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。