「ターコイズフリンジ」③
記憶を反芻していると深い睡魔に襲われた。気づけば時刻は十一時をまわっており、頂上まであと少しというところだった。視界がぼやけている。眠気を覚ます為に目元を擦ろうとすると、目頭と目尻にべたつきを感じた。濡れた形跡があった。
彩月は明日の準備をするべく、棚に並んだ教材を目でなぞった。
倦怠感を司る眉間に親指と人差し指を当てる正水。そうすることで、暫し疲労の供給を断てる気がした。
「お昼にしましょうよ」
部下からの言葉は切り替えの合図となる。
二人はいつも通り会社の屋上庭園へ向かう。面積がそこまで大きいわけではなかったが、景観が良く、晴れの日はここ以外を考えられなかった。
部下の中田は年齢は離れているものの、付き合いの五年になる、正水が信頼を置く数少ない人間だった。「分からないことがあれば聞きなさい」社会人の常套句のようなこの言葉に上手く順応する男だった。積極的に質問をし、適度に自ら考え行動する。ミスのない完璧な仕事ぶりとは言えなかったが、着実な成長を遂げ、最短で上司達の懐に潜り込んだ。
後輩としての才能も充分で、驕られることに抵抗を覚える近年の謙虚が過ぎる若者と違い、食事の場では腹一杯食べた。その清々しい体育会系ぶりはいやらしさを感じさせなかった。
晴天の下、設置されているベンチに腰掛けた正水は持ってきた風呂敷の結びを解き、パステルカラーの弁当箱を露出させる。蓋を開けると、青空の光が食材に命を吹き込んだ。青色に食欲減退の効果があるというのはでたらめらしい。正水は空を見上げ、そんなことを思った。
「いただきます」
両手を合わせて目を瞑る。中田も同じことをした。
鮮やかな黄色の中に散りばめられた白色がアクセントになっている卵焼きを口に運ぶ。すっかり料理人ばりの出来栄えになってしまったと咀嚼をする度に思う。冷凍食品だらけの弁当から始まり、少し小慣れれば茶色一色の男らしい内容になった。彩りやレイアウトを試行錯誤し、今の形に到達するのには若干の時間を要したものだ。
食事は人間を支える柱である。作る工程も、見た目も、味も、内容も。そのどれもが重要な役割を担っており、欠かすことは出来ない。毎朝二人分の弁当と朝食の用意をする。これを習慣づけるのは苦労した。百合には頭が上がらなかった。
中田と午後の外勤を愚痴混じりに談笑していると、社員の一人が近寄ってきた。中田の反応から男が知り合いだと分かる。
「昼混ぜてくれませんか。いつもの奴が残って作業続けるみたいで」
「おい。俺先輩と一緒だぞ。図々しいやつだな、そいつを待てばいいだろ」上司を未だに先輩と呼ぶところもやはり中田の性格を表していた。
「腹が減ってはなんとやらだ」
男は右手にレジ袋を提げており、中には真空に詰められたサラダチキンに切り株状の握り飯が二つ、紙パックのプロテインが見えた。同期の中でも中田とは気が合うのだろうと一目で推測できる内容だった。そういう類の人間なのだ。
「俺は全然構わないぞ。人が多い方が飯ってのは美味くなる」
正水は目を細める中田に対し、笑ってそう答えた。
「流石。話の分かる人は仕事の出来る人だ」男は軽口を吐いた。
人との出会いは貴重であり刺激的だ。誰しもが自分が主人公というこの世界において、新たな登場人物を出現させることは物語に起伏を与え、複雑で色濃いものにする。
「初めまして、一宮(いちみや)です。お、愛妻弁当ですか。いいですね」
一宮の言葉に正水の眉がぴくりと動きをみせた。反応するべきではない場面だったが、不随意運動ならば仕方がない。
「馬鹿。如月さんは奥さんを亡くしてるんだよ」
地雷を踏んだ一宮を中田は小さな声で叱った。
「え。す、すみません」
「いいんだ」
こういう状況は久しぶりだった。いつも変わらないベルトコンベアーのような毎日を送っている正水が忘れている感覚というものだった。まざまざと家族が想起される。
「心配ないさ、もう随分経つ。新鮮なリアクションありがとう」
遺族の自虐的な言い回しは、往々にして他人を困惑させる。一宮はばつが悪そうにしていた。
「娘さんの為に料理を勉強されたんだ。母親代わりでもあるってわけ」何故か自慢げに話す中田。
「そんな大層なもんじゃ。俺が好きなだけだよ」
一宮の手が止まっている。食事に来たのにこれではいけない。正水は新しい話題を提供することにした。
「一宮くん。こうして話せるのもいい機会だし、相談させてくれないか。普段は中田しか相手がいなくてね」
「なんすかそれ、俺じゃ役不足って言いたいんですか」中田が不貞腐れる様はまさに少年のようだった。
「相談ですか」
「ああ、相談」
一宮は己の浅慮に忸怩としながらも頷いた。
「家族の仲というか、距離についてなんだけれども」
かしこまった言い方で正水は話し始める。二人は無言のまま座っていた。
「食べながら聞いてくれ」
中田と一宮は顔を見合わせ、止まっていた手をゆっくりと動かし始めた。
大きな軋轢があるわけではないが、正水は彩月との現状をどうにか打破できないかと模索していた。直接言葉にすれば余計に距離が開いてしまう。テレビドラマでよく見る落とし穴だ。さりげない修復を図るべく些細なことから歩み寄る。しかし、現時点でこれといった結果が得られずにいるのも事実だった。
「娘につんけんされていてね。妻が亡くなってから思春期ってやつが来たのかな。昔はべたべたしてくれたんだけど」
正水は怯えた目をしていた。一度に二人を失くしてしまったのではないか、そんな考えがよぎることがあった。恐ろしく飛躍した考えだと思いつつ、その可能性が日毎に増していく焦燥に駆られている。
「いつの話してるんですか。もう十七、八でしょ? 大体いつも先輩はね」
苦言を呈する中田を右手で制する一宮。
「まさか全部お一人で?」
「いや。料理だけさ。他は自分でやってる。部屋の掃除も洗濯も、俺と分けてるんだよ」
哀愁の漂う物悲しい言葉尻は部下の同情を誘った。
「如月さんお一人になってからなんですか。その、当たりが強くなったのは」
「うん」
「普通は遺る家族を大切にってなりません? それが自然な流れのように思えますけど。何か予兆はあったんですか。きっかけでも」
「一応あったにはあったかもなんだけど、よく分からないんだ」
続けるように目で促す一宮。
「俺の不注意で左肩を火傷した時から、少しずつ娘が離れていく感覚があった」
深刻な問題だということは言うまでもない。中田は明るく言葉を挟んだ。
「俺もアドバイスしたんだけどな。愛してるってことやいつもしっかり見ているってこと、もっと言葉や行動で示すのがいいって」悪気はないようだった。
一宮は中田を空気のように扱い、質問を投げかけた。
「奥さんが亡くなったのはいつで?」
「四年前だ」
「娘さんのその、反抗期は?」
「葬儀から一ヶ月も経っていない頃だよ。二週間くらいかなあ」
一宮は逡巡した。何をするのが得策か。四年も心を閉ざしているとなるとそう簡単な問題ではないのは明らかだ。片親になり現実を受け入れられないのは想像できるが、不可解にも思える期間と言える。正水は火傷といったがそれが起点になるということは、彼自身の不注意ではなく娘の過失が原因なのではないか。それにしても罪悪感が四年の空白をつくるのは規模が大きいと感じた。
「娘さんとのコミュニケーションは積極的に?」
正水は辿々しい様子で答えた。
「あ、ああ。何もしなければ現状は変わらないのは俺でも分かる。だから、なるだけ親身にするようにしてるよ。過剰に思われても仕方ない」
この人は人が良いのだろう、一宮はそう思った。思考停止で部下の言葉を鵜呑みにしているというわけではないが、自分の考えよりは優先していることがわかる。そして相談相手の母数が少ないようにも思えた。一宮は刹那の躊躇を見せ、言い放った。
「貶めるつもりはないけど、もしかしたら中田の助言が仇になってるんじゃないですか」
面食らっている二人をそのままに持論を展開する。
「以前は仲が良かったんでしょう? なら愛されてないって思うこともないし、より愛情を注ぐ必要があるとは思えません。娘さんに冷遇されたことを直接言及したことはあるんですか? 原因究明に努めましたか? まるきり見当違いの努力をしてる可能性は?」
そのあまりの剣幕に正水は体を後ろにのけ反らせた。一宮の語気が強いわけではない。ただ、畳み掛けるような物言いが正水にはこたえた。
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
中田は正水の代弁をするように尋ねた。
「まずは分析ですよ」
普段聞けない意見は正水に変革を齎した。反駁するほどの自信が自分に持てなかったからかもしれなかった。
今日は早く帰路に就くことが出来た為、正水は最寄駅である中井で彩月の帰りを待ち伏せた。
雑踏が耳を埋めだす時間帯。閑静な街並みを好む正水は、その風景を眺めるべく駅の入口で待つことにした。ホームの混雑が予想される中で、改札前に居るわけにはいかなかった。
彩月は部活に入っていないようなものだったが、いつも帰りが遅いことは把握していた。コーヒーを嗜んで時間を潰すという贅沢なやり方で、人生を遅く生きている。正水は彩月行きつけのカフェテリアに申し訳なく思っていたし、せっかくの青春時代の過ごし方として勿体ないと感じてもいた。
電車から降りた群衆は小さな隙間に吸い込まれていく。改札を目指し、階段とエスカレーターの二択で迷い、蜘蛛の子を散らすように足を速め外へ進行する。入り乱れるまだら模様の中に娘を見つけた時、父の顔は綻んだ。
片手を上げ彩月へ合図を送る正水。その様子が視界に入ると彩月は目を細め、肩を大きく上げて落とした。
「丁度いい時間帯だったから一緒に帰ろうかと思って」
少し言葉に引っかかりがあった。昼のことが頭から離れず、熟考が顔から読み取れるほどだった。
彩月は無言のまま、父が停めているであろう近くの駐車場へ歩き出した。正水もはぐれないようにそそくさと足を速めた。
「今日は学校どうだった? もうすぐ夏休みだな。今年は久々にどこか行こうか」正水はいつも通りの話術で接近を試みる。一宮の言っていたことは家に到着してから実行に移せばいい。焦りは禁物だと自分に言い聞かせた。四年の冷戦状態、今さら怖いものなどない筈だった。
ポケットから取り出したスマートキーを押し、白のアルファードを解錠する。ライトの明滅が映えるには、空はまだ日が高かった。
ドアを開け、運転席へと座る。彩月が車内に乗り込む姿をルームミラーで確認すると大きく息を吸い、エンジンをかけた。
「まだまだ暑くなるな。汗をかかない彩月が羨ましいよ。母さんにばっかり似て、俺に似てるところなんてほとんど無いんじゃないか」
芳香剤などは置いていない正水だったが、涼しげな匂いが鼻先に触れた。
「いい匂いだな。香水だっけか。あれか、俺が前にプレゼントしたやつか。汗と混じって変に臭くなることもないから得だろ。たまに乗る満員電車の臭気ったらないぞ」
車内は冷房が効いている。加えて清涼感のある匂いが漂えば、沈黙を際立たせるのは明白だった。そんな空気を吹き飛ばすべく、楽しげに声を弾ませて話しかける。
「気持ち悪い」
針のように小さな声だった。正水に聞き返す勇気はなかった。
結局、家に着いた後も事が進展することはなく、言葉を交わさぬまま夜が明けた。
数日が経ち、夏休みに入った。
彩月は家を開けることが多くなっていた。特に親戚との用事はなく、手芸部の活動だって無いようなもの。長期間を自宅で過ごす。そんなことは考えられなかった。人との交流を絶ってしまうことがどうしようもなく恐ろしく感じた。
ともすれば、自発的に行動するしか道はない。友人に手当たり次第連絡を入れ、予定を組んだ。埋まっていくスケジュール表が、剥き出しの自分に衣服を着せてくれるような安心感と充足感を与えた。
あれから正水は事あるごとに詮索をしてきた。悩みの有無や近況、人間関係について。以前にも増して脈絡なく質問をする正水を彩月は訝しんだ。
今日は新大久保のファミリーレストランで葉子と勉強会を開いていた。課題は一人でやるより複数人で取り組む方が効率的で、集中も長く続くからだった。
嗅覚と聴覚に程よく情報が入り続けるのは、空間にある種の一体感を感じさせた。料理は最低限に、教材を広げている。時刻を確認し、彩月は画面が下になるようスマートフォンを伏せて右端に置いた。
「それがご機嫌ナナメの理由?」
目線を物理の教科書に落としたまま、葉子が尋ねた。こめかみにシャープペンシルのノックキャップを当てている。
「香水なんか付けてないのに、制汗剤だっつーの。てか香水贈る父親もキモいでしょ」
強い言葉で毒づく彩月。
「相変わらず手厳しいなあ」葉子は慣れた様子で彩月を窘める。
「一日でも早く卒業したいわ。有志と同棲出来たらいいけど、一人でだって家出てやる」
「にっちゃんの生活力だと心配だけど」
「いざとなったらどうとでもなるのよ」
大抵、彩月が愚痴を吐く時は答えを出すことはせず、葉子は聞き役に徹していた。決定的な事項は知り得ることではなかったが、高校で初めて出会った頃から彩月は父親のことを嫌っていた。これ以上は彼女が絶縁しかねない為、定期的なガス抜きに手を貸していたのだった。
彩月にとっての地雷を、父親は悉く踏んでいるようだった。些細なこともあれば、誇大に捉えているものもある。葉子は父親の懸命さが空回りしてることを気の毒に思っていた。
「有志とは大違い。お母さんのセンス疑う」
問題を切りのいいところまで解き、ドリンクバーに口をつける。中身はいつもばらばらで、今日はカルピスソーダを選んでいた。青春に味をつけるならこんなだろうな、と彩月は時々そんな陳腐なことを考えた。
「確かにタイプは全然違うね」
彩月はため息を吐いた。隣の芝が青く見えることの多い彩月は、外れることのない色眼鏡をかけていた。
「うちのお父さんがさ、『いい景色を見せてくれる男と結婚しろ』って言うの」
脈絡もなく葉子が話し始めた。常日頃、観察力の優れている彼女の父親が言いそうなことだった。
「へえ。素敵なお父さん」
彩月は率直な思いを口にする。
「家で筋トレばっかしてる筋トレバカだよ。固い床や鏡しか見てない癖に。でもね、この感性はちょっと尊敬かな」
肉親を誇らしげに語る葉子。時間を共にすることの多い彩月がいつも見ている穏やかな表情だ。自分が父親のことを話すときはこんな顔をしているだろうか。ふとそう思った。以前はそうであったとしても、今は違う。共通点の少ない葉子との差異をまたしても見つけてしまった。心臓を葉子のものとすげ替えることが出来るなら、きっと迷わないかもしれない。彩月はノートの罫線が少し歪んでいるように見えることに気がついた。
「羨ましい」
「出た。特技ないものねだり」
「そんなんじゃ」
彩月のへの字に曲がった口が微かに動いていた。精神を肉体が邪魔しているのか。脳から送られる電気信号を葛藤が押し殺しているのか。猫を模した配膳ロボットが近づいてくる。料理は運べても空気は読めないらしかった。
「あたしは好きだよ、にっちゃんのパパ」
葉子が光り輝けば輝くほど、自分の影が大きくなっていくような惨めさが際立った。彩月は狭隘な自分に嫌気が差した。
「それでも、信じられないの」
彩月の中で、正水はすでに遠く離れた存在にあった。この四年という時間で、日を追うごとに彼への不信が募り、嫌悪に変わり、他人という繭を形成した。
正水への疑念は、彩月の奥底に深く根差し、染みたままでいる。
「偏愛っやつなのかな、パパさんは」
葉子が呟く。
「偏愛」
オウム返しで口にする。仮にも、赤く温かみのある文字のついたその熟語を反芻し、噛み締める。
彩月は視線を落とし、手元の文字を黒く塗り潰した。握る手に力の入りやすい傾向のある彩月。うっすらとその下の文字が浮き出ているように見える。主張は控えめになったが、初めに書かれた強い筆圧の跡が消えることは無い。
強く消しゴムを擦ると、紙の破ける音がした。
ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。