「髑髏に色を塗る」⑤
睡余に申し訳なさを感じつつ、先に起床した柳は家主に声を掛けた。シャワーは借りたが洋服は昨日のままだ。若干の不快感が皮膚に粘りつく。着心地が悪い。カーテンで遮光されている黄色いペイズリー模様が綿のように膨らみを見せていた。
一度家に帰り、着替えてから大学へ出向く。そうすれば何とか講義の時間には間に合う。単位が気になるわけではなくとも欠席は避けたい。黙って出て行くことも考えたが、鍵を閉めてもらう必要があった為、和子を起こした。
「行かないと」
目を擦り多少寝ぼけてはいるものの、寝起きが悪いようではなかった。やはり手は美しく、寝起きの姿は品を損なわない。
「あら、起きるのは早いのね。いってらっしゃい」
見送りの言葉が嬉しい。頬を緩ませて柳が返す。
「鍵」
「ああ、はいはい」
気怠げに立ち上がると柳と共に玄関扉へ近づく。Tシャツにぶかぶかのスウェットのリラックスした格好がおかしい。柳が扉を開けると、和子は二度目の言葉を吐いた。
「いってらっしゃい」
その言葉は満員電車に何時間乗り続けたって平気な程の活力を柳に与えた。雨上がりの朝日が燦々と輝いている。
「いってきます」
あれから数日が経過した。柳はすぐに次の予定を組んだ。今度は正真正銘のデートだ。お試し期間とはいえ前までとは訳が違う。佳折の助言に従い水族館を指定した。とんとん拍子で進む恋愛に不安を覚える。こんなに幸せが一度に押し寄せていいものなのか。そんな考えはきっと杞憂に過ぎない。物事が上手く運んでいることに違いはないのだ。何も億劫になる必要はない。全力投球すると決めた筈だ。柳はいそいそと支度を済ませ家を出た。
和子の家へ迎えに赴いた。柳の希望だ。逸る気持ちに沿った形だった。和子と共に目的地へ行きたかった。
当の和子はのんびりとしたものだった。テーブルに卓上鏡を立て、眉を描いていた。黒いメイクポーチは大きく口を開け、その凸凹の歯から様々なコスメを吐き出している。
キッチンの前に立つ柳は落ち着きがない。和子の背は変わらず少し動いて止まり、少し動いて止まりを繰り返している。ビューラーで睫毛を上げたまま和子が言った。
「座ってていいのに」
柳は背中越しの鏡に映る和子の顔を見た。
「でも。てか早く行きましょうよ」
「いいじゃない、予約してるものでもないんだし」
和子の速度は変わらない。コーディネートは決まっているが、髪型はまだだ。メイクの完成に加えてもう暫しの時間を要する。急ぐ仕草を見せずに淡々としている。右脇にある白い本体の上から透明なカバーの付いている四角柱の、発色がやや控えめなリップを手に取り、徐に塗り始めた。柳の視線は継続して後方から感じられている。
「女の子のお化粧も待てない男の子はモテないゾ」
和子から鋭い言葉が放たれた。語気は弱かったが、柳は諦めてキッチンから離れることにした。
和子のメイクが終わるまで、柳は部屋を何気なく物色した。
「なんか本とかないんですか」
「え? ああ、そっちの部屋の棚に色々あるわよ」
引き戸の向こうには薄暗い寝室。以前泊まった際は就寝時に戸を少し開けて夜を超えてくれた。朝出る時に和子に声は掛けたが室内はそれほど見ていない。加工された木材の慎ましやかな音がする。中に入ると思った以上に物で溢れていることが分かる。家具は最低限だが、その上や中に置物や中身がぎっしりと存在していた。本棚を覗くと草花に関する本がたくさんあった。世界の風景をまとめたものや世界遺産の本もあった。何か参考書のようなものもある。一番下の段は柳の知らない漫画が並んでいる。随分と黄色く色褪せていた。さらにその下には引き出しのついた別のカラーボックス。重たい取手を手前に引くと長らく触れていないであろうものが見えた。卒業アルバムや家族写真などのアルバムが詰められていた。
その中の一つを手に取る。体を仰け反らせ、リビングの和子の横顔に向かって語りかける。シンプルな装丁を眼前で揺らした。髪を纏めている和子が横目で柳を見る。落ち着きのあるピンクゴールドが艶やかな漆のバレッタ。
「昔の写真?」
「やめて、恥ずかしい」
和子の意を汲まず、柳はアルバムを捲った。写真。東京近辺で撮られた日常を切り取ったかのようなものや、旅行先で撮ったであろう絶景の中でピースサインをしたもの。絶世の美女が幾つもの矩形の中に収められている。何年前かは分からない。しかし流石に若い。奥に埋まっていただけはあって、近年の写真は無かった。若かりし頃の真澄和子は息を呑む程の美しさだった。色の濃い派手な口紅を黒髪と白肌が一層引き立てている。
「いいじゃないですか。とっても綺麗ですよ」
次第に柳の笑顔は消えていった。男が居た。和子と仲睦まじそうに写っている。きっと旦那だった。出来ないことの方が少ないように見える、ハンサムで完璧な男。もしこの男がただの交際相手ではなく件の元夫なら、柳としてはとても許せるものではない。介入する問題ではなくとも、人並みに嫌悪感を覚える。
「この人が」
ぽつりと吐いた言葉を区切る。和子の準備もそろそろ完了を間近に迫らせていた。
葛西臨海水族園。人の数は予想より少なく、かといって閑散としているわけでもなかった。当然人はそれなりに居る。周囲の施設から様々な客層が見受けられる。一日で全てを回ろうと思えば、水族園だけを目当てに来る人間よりもそれ以外の方が多いのは明白だった。平日とはいえ侮れない。チケットを買う時点で見えてくる大きなドーム状の建造物の外観は心を高鳴らせた。マグロの等身大のオブジェも楽しい。
大きな池の水面の乱反射が夏の訪れを祝福していた。ガイドブックを手にエスカレーターを降る。和子の後頭部の装飾品が柳に煌めく。
「あっちにレストランあるらしいから後でそこ寄ろうか」和子が言った。
はじめに見えたのは鮫だった。小ぶりなものからそこそこの大きさの個体が悠々と泳いでいる。流石に荘厳な光景だ。火曜は鮫の餌やりがある日らしく、投入された細々(こまごま)とした餌を貪る姿を見ることが出来た。
和子は声を上げてはしゃいでいた。童心に返って魚に目を奪われている。
「初めてってわけじゃないですよね?」
思わず訊ねた。大学一年、十八歳の柳にとって水族館は数回しか行ったことがなかったが記憶に新しいものであるからだった。
「だって随分と久しぶりだから」
和子は独りになってからも長い。店をやりながら自分の時間を作ることすら難しく、ましてやこういった大衆娯楽に赴くなんてのは以ての外だ。外出がこれほど色味を帯びることに素直に喜びを露わにした。
一階に着くと小さな水槽が立ち並ぶ。うちの一つに一見魚のいない場所があった。海草が目に止まる。擬態していて中の生命に気づかなかった。上の表記にウィーディシードラゴンと書いてある。
「タツノオトシゴかな。柳くんほら、タツだよ竜!」
和子が嬉しそうに言った。柳は苦笑いで応える。人のエゴに塗れた視線など微塵も気に留めていないかのように悠然としている姿は柳の目に美しく映った。軽率にも尊敬の念を抱く。
少し進むと巨大な水槽が飛び込んでくる。円のように取り囲むその中には弾けそうなほどに身の詰まったマグロが余すとこなく犇めいている。圧巻の雄大さだった。
「うわあ」声が漏れる程の力強さ。マグロ自身の泳ぎも、鑑賞を可能にしている大きな水槽や分厚いアクリルガラスも、見る者を一瞬でその空間に魅了させる。
「おいしそう」
柳は右手の和子を見た。
「それ、絶対こういうとこで言っちゃ駄目なやつですよね」
和子は笑った。悪気はないのだ。茶目っ気のある彼女の言い回しが柳の笑いを誘う。和子は駆け出した。視界に入った次のエリアに導かれてのことだ。
「あ、ちょっと。和子さん!」
無意識だった。初めて口にした下の名を聞いて和子が振り返る。半目でいたずらな笑みを浮かべていた。柳は決まりが悪くなって目を背けた。
屋外に出ると水の音が聞こえてきた。荒く波を立たせている騒がしい音だ。
「可愛い」
欄干に寄りかかり、上半身を乗り出す和子。眼下で伸び伸びと泳ぐペンギンが見える。音の正体はわんぱくな彼らの仕業だ。端の岩場付近まで行くとこちらに気づいた一匹が和子を向いて鰭を上下させていた。数匹がそれを見て同じような仕草でやってきたが二匹が間抜けにも転んでしまい、その様子を二人で笑った。こけた末の入水はなんだか情けなく、少し滑稽だった。
海藻がメインとしている水槽もあった。海洋恐怖症ではないが、やけに縦に大きい水槽などを見るとその迫力に押し潰されそうになる。大きい海藻が揺れる様は巨人の呼吸だ。
歩きながら和子が話し始めた。
「何年前か忘れちゃったけど前に違う水族館に行った時、あたし大嫌いなんだけど、オオグソクムシって言うの? あれが居るとこは大変だったわ」
柳は先程似たようなものを見た気がしたが黙っておくことにした。
「私はどうしても駄目みたいで。目を逸らしたりするんだけど、また見たりして、それからぎゃーとか言って騒ぐんだけど」
和子はずっと笑っている。時々つっかえながらも伝えようと躍起になって話す。柳はその頃の和子を想像した。きっと可愛らしい反応をしていたのだろうな、そう思った。
やがて順路を終え二階に戻り物販を見てからレストランへ行くことにした。和子は膨大なオリジナルのグッズを前に興奮している。逸品を探すことに余念がない。柳の声掛けは何度か無視された。
「これ買おうかしら」
目と口を横に、にんまりとした表情で振り返る和子の胸には、タツノオトシゴのぬいぐるみが抱き締められていた。
「そんなのあるんだ」
「可愛いわよねっ」
ぬいぐるみと見つめ合う和子。
「素敵な名前の付け方。日本語ってやっぱり綺麗」
「そうですね」取り敢えず柳は相槌を打った。
和子は柳を指差した。
「竜の落とし子。うふ」
そんなに大それたものならどれだけいいか。少し困惑したが、楽しそうなので良しとした。気分は悪くない。
背を向けて再び商品を漁る和子。幾つか手に取って見ていると背中に柔らかな感触があった。何か先端のようなもので突かれている。
「和子さん」
「何?」
柳はもう一度名前を呼んだ。継続して和子の背中には感触がある。観念して後ろを振り返ると同時に柳が言った。
「これオオグソクムシ」
反射的に和子が悲鳴を上げる。
「きゃ!」
柳の手にあったのは目玉商品であるクロマグロのぬいぐるみだった。腹を抑えて笑う。
「そんなにですか」
「趣味が悪いわよ、柳くん」和子は苦言を呈した。自身も頬の筋肉が緩んでしまっていて、説得力は無かった。二人して静かに笑い合った。
駅までを歩く。袋を片手に柳は高揚した気分を持ち帰る。しかしまだ残っていることがある。もう片方の寂しい左手を見た。中を見て回る時に和子の手を握るつもりだったが、計画は呆気なく崩れた。帰り道の数分が勝負だった。
「いい思い出になったかしら」
和子が突然切り出した。柳が和子を見る。
「え?」
「さ、これで恋人ごっこは終わり」
衝撃の言葉を吐いた。柳は硬直した。たかだか一回のデートで何を言っているのか分からなかった。手応えというものも確かにあった筈だった。
ばつの悪そうな和子が口を開く。
「やっぱり無理よ、こんな年齢差」
周りの視線がずっと気になっていた。親子の纏う雰囲気ではなく、離れた年齢の女性に敬語の青年。それでいて二人きりで親密な振る舞いでいる。男の方は特にだ。不可思議に思う人間がいてもおかしくはない。柳が本気であればある程、将来の不安やそれに伴う世間体の重しが和子を苦しめる。
「和子さんが俺を振る理由が年齢じゃなくなったら諦めます。でもそうじゃないから食い下がってるんです」
言葉を詰まらせる。図星だった。和子の拒絶は弱い。孤独を感じ侘しさを胸に抱いていた和子にとってここ二ヶ月強の時間はそれらを忘れることの出来たものだった。一人の女として幸せを感じた。だからこそ責任は社会の普遍的な見解として首を絞めた。自惚れでなければ、恐らく彼は添い遂げる気でさえいる。それはあまりに危険で若い浅はかな考えだ。
「俺、結婚だって」
そう言う柳の言葉を遮る和子。
「別れることを前提に付き合う人もいるかもしれない。けどそれとこれとはまるきり違うわ」
是正する必要がある。今ならまだ間に合う。相手も、自分も。
「ずっと和子さんと居たいんです。最後まで」最後。最期。強い言葉は重く、適切でないかもしれない。それでも柳は目を背けずに和子に正面から訴えた。
「仮にそうだとしても、死別する可能性があるってことよ! あなたがまだまだ人生楽しいって時期に!」
和子の怒号だった。柳が初めて耳にする語気の強さ。愛する人の気迫に背筋が伸びる。返答に体力を要する。
「いや、人生百年時代、百歳で和子さんが亡くなっても俺だって七十後半ですよ。充分過ぎるくらいの時期だ」
「そんな長生きしないわよ!」顔を真っ赤にして和子が猛った。
柳も僅かに口を塞ぐ。生まれた時代が少しずれただけで立ちはだかる壁の大きさに憤りを覚える。人と巡り合う確率はとても低いもので、恋愛感情が絡めば尚更だ。それを邪魔するのが年齢や他人の目という見えないものや不確かなものとは納得出来る筈もない。前者はまだしも後者はいくらでも変えられる。認識を行動で変化させることは歴史が証明してきている。この奇跡の邂逅を無駄にしていいなら、初めから神は二人を出会わせなかった。
「それでも俺は、和子さんといる今が一番楽しいし、一番幸せだし」間髪入れずに思いを伝える。「一番欲しいです」
残酷な明言だった。板挟みになる辛さというものに直面した。駅に到着する。そのまま和子は電車へ乗り込むべく早足で改札を抜けた。別れ際、柳へ一言を置いていった。
「諦めて」
和子への気持ちを伝え認めてもらうというこの日の柳の目標はついぞ叶わなかった。
調布にある大型マンションの一室に赤羽は居た。
呆れた表情で台所に立っている。水垢に、汁物の撥ねた跡、そして若干の異臭。ため息と共に左の首元を掻く。
「お前なあ。洗い物するのはいいけど、シンクの掃除までしてくれたら完璧なのによ」
背後の人物に話しかける。何の期待もしていない声色だ。
「働いただけ褒めてよ」
赤羽と交際している富田という女が図々しく言い放つ。長い黒髪を揺らしている。
「褒めるかよ。コンロの油汚れ取れって言ってんじゃないんだから簡単だろ」
咎める赤羽に対し富田は強引な手段で便宜を図った。
「ん」
口付けをする。背中越しに話していた赤羽は、真横から急に現れた富田に不意を突かれた。富田の両腕が赤羽の首に回り、長く舌を絡め唾液を交換する。手慣れた作業だ。
「そんなんで許すと思ったら大間違いだぞ」富田の強行から解放された赤羽が淡々と言った。
「許せや」
あからさまに不満げな態度を取る富田。彼女の奔放さは手に余る。ずっとそうして付き合ってきた。
「てめっ」赤羽は女に覆い被さった。腰や脇を次々にくすぐる。甲高い笑い声が響いた。反撃の手を緩めず執拗に攻め立てる。
するとスマートフォンが鳴った。赤羽の動きが止まる。富田から離れ、近くの棚の上に手を伸ばす。着信の相手は友人である土方柳からだった。電話先の声は心なしか元気がなかった。柳は会いたいとの旨を伝えてきた。赤羽はそれを快く承諾した。
「飲み? まあ、別に構わねえけど」
ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。