「ターコイズフリンジ」④
土曜日。今日も彩月は外出している。
正水はというと、特にやるべき仕事も無かったので暇を持て余すこととなっていた。こんな暑い中よく外へ出る気が起きるものだと思いつつ、日頃の運動不足が祟ったのか、立ったまま視線を下に向けるとつま先が見えないくらいには腹部が窮屈そうにしていたので、重い腰を上げる時が来たかと観念していたところだった。
道ゆく若者がこぞって使用しているブランドのスポーツウェアに身を包み、スマートウォッチを操作してランニングの準備を万全にする。心拍数は九十六だった。
「高いのかな」
紫外線をカットするランニングサングラスを掛ける。帽子は頭部が蒸れることを想定し、避けた。趣味を訊かれれば運動と答えるだろう男がそこにはいた。正水は形から入る男だった。
走るルートはすでに決めてあった。中井駅を通り過ぎ、新江古田までを目指す。練馬まで行くのはもう少し慣れてからでいいだろう。初めから無理をしすぎるのは良くない。
普段着で会社へ出勤する際は、気温の高さに形容し難いほどの不満を常に抱えていたものだが、今は違った。格好を整え、最初からランニングをするという名目さえあれば感じ方は如何様にも変わった。湿度高い曇天の下の方がずっと不快に思っただろう。雄大に広がる空は、青と白の染色作業中だった。
風が全身に当たる感覚が心地よい。車を用いるようになってから、正水は走るという行為をしていなかった。電車通勤であれば遅延などが起こった場合に駆け足で移動をすることも少なくなかったが、その必要もなくなって久しい。
一定の間隔で足に衝撃が加わる。つま先からの着地なのか踵からなのか、そんな些細なことさえ体はぎこちないまま動いた。自信なさげに荒くなっていく呼吸。まだ一キロメートルも走っていない中で、長年寄り添った肉体を情けなく思った。
景色を後ろに飛ばしていると、娘の姿を見かけた。どんなに難しい間違い探しだとしても、彩月のことは瞬時に見つけることが出来るだろう。親としてその能力が衰えることは死ぬまでないと胸を張って誓える。
しかし彩月を見つけたことによる顔の綻びは得られなかった。彩月は一人ではなかった。
正水の脳裏に嫌な記憶がよみがえる。以前、正水は彩月の付き合っていた男子生徒と会ったことがあった。彩月はそのことを知らない。
彩月が中学二年生の頃、初めての彼氏が出来たと騒いでいた。少しばかりの嫉妬を感じたが、喜ばしいことなのだと百合に宥められ落ち着いた。彩月に直接尋ねると、嬉々としてスマートフォンの画面を見せた。要求以上の枚数の写真を見せてくるため、正水の方から切り上げた。彼氏はやんちゃそうな外見をしていた。
ある日、駅近くの喫煙所で偶然彼を見かけた。四人で固まり、全員の手元には煙を上げる光が灯されていた。談笑の大きさにより、正水が肉薄するまで彼らは気がつかなかった。
「こんにちは」
体はそのままに、黒い瞳を滑らせる。横目で正水を確認した後、再び会話を始める。まるで正水など視界に入っていないかのように。
正水は学生服を確認してから質問した。
「君ら、まだ未成年だよね。たぶん娘と同じ学校だと思うんだけど」
慎重に言葉を選んだつもりだった。一瞬の空白が辺りを包む。すると一人の少年が口を開いた。
「たまたま通っただけっす」
淡々と発される音。悪気はないようだったが、彼らの非行が常習化していることは誰の目にも明らかだった。正水は少年の指先に視線を落とす。
「あ、これすか。拾っただけっすよ。火が着いてたんでつい」
正水はその場凌ぎの言葉を許さなかった。こういった不良は頭ごなしに叱るのではなく、フランクな会話に専念し、壁を取り払うことが先決だ。そんな自身の考えに従い、世間話を切り出した。疎ましく思われているのが全員の表情と声色からひしひしと伝わってきた。しかしそれも徐々に変化していく。話のレベルを下げることに注力したのが功を奏した。
「おっさん、なかなか話わかるな」
「サボりくらい別に悪かないっすよね」
平日の昼間、彼らにとっては魅力的な時間だろう。過去の自分がした、なるだけ悪いことを思い出しながら帳尻を合わせる。すると話は異性の話へと移行していった。
「おっさんはさ、彼女、いや結婚相手とどうやって距離詰めたよ。俺の彼女ガード硬くてさ」
「俺も俺も。そろそろさ、ね? いっちょかましたいじゃんか」
Aへと踏み出す時期か。懐古に浸るように正水は記憶を泳いだ。
「コンビニで先に買っといた方がいいかな」
その言葉で正水は自分の浅はかさを恥じた。同時に、近年の子供は進んでいるのだという実態を目の当たりにし、衝撃を受けた。そしてなにより正水を殴ったのは、その後に続く言葉だった。
「彩月ちゃんで卒業は羨ましいわ」
「お前殺すぞ」
笑い声がぼやけて溶けていく。正水は驚愕を悟られないよう顔の緊張に努めた。今、少年が発した名前は偶然にも一人娘と同じものだった。
こちらの気など知らず、彼らは暴力性の高さと低俗な知能の披露を止めはしなかった。それどころか、拍車がかかったように勢いを増していく。本能のまま。理性というブレーキを持たぬ獣(けだもの)が正水の目に映った。罪の暴露大会に居た堪れなくなった。
その少年は、娘を任せるには相応しくなかった。
現在、彩月と一緒に居る顔にも見覚えがあった。前に一度自宅で見かけた顔だ。一人目と別れたという事実に喜びつつ、新しい男を警戒した。
娘は見る目がない。あの時の激情が昨日のことのように正水を駆り立てる。その速度に沿うよう喉は開き、声を上げた。
「彩月!」
並んで歩いている二つの背中が前進を止め、振り返る。彩月は嫌悪感を剥き出しにした顔で応え、横の青年はゆっくりと会釈をしている。
「お父さん」
娘の声がひどく寒々しく感じた。正水は未だに慣れていない。
彩月は大きなため息を吐いた。隠す気はさらさらないようだった。
「どうも。山本です。えっと、初めましてではないんですけど」
有志は正水の記憶力に疑いを持ちながらも、真摯な挨拶を心がけた。正水が自分を快く思っていないことは分かっていた。彩月の家で向けられた明らかな敵意。色濃く残るその矛先は、愛娘を守るために向けられていた。それ故に有志がストレスを感じることはなく、その親心に愛おしさすら覚えていたのだった。
そんなことはつゆ知らず、正水は有志の観察を始めた。何気ない会話をもとに彩月の彼氏の人柄や傾向を調べる。
「もちろん覚えてるよ。前は一瞬しか顔を合わせなかったからね。友達と言っていたけど、おそらく彼氏さん、で間違いないかな」
「あ、はい。彩月さんとお付き合いさせていただいてます」
有志は背筋を正し、普段の悪い姿勢が伝わらないように返事をする。
「かしこまりすぎ」彩月はくすりと笑顔を見せた後、いつもの表情へと戻り、正水にその視線を向けた。
「別にいいから、話合わせなくて。もういい? 行こ有志」
一刻も早くこの場から立ち去りたい。言葉にせずとも、彩月の拒絶はあからさまに二人へ伝わった。正水はポーカーフェイスを気取ったが、有志の前では無意味な誤魔化しに過ぎなかった。
「せっかくだしもう少しいいじゃないか。立ち話が嫌なら、近くのお店に入ろう」
本来、二人きりの時間を邪魔されるだけでも彩月にとっては腹立たしいことだった。その相手が正水であることは、殆ど最悪に近かった。
「そうだよ。お父さんと話せる機会なんてあんまり無いって」
彩月は有志を睨んだ。余計な口出しを容認するわけにはいかなかった。常日頃、父の愚痴を吐く相手となっているうちの片割れである有志が、強引に仲を取り持とうとするのは目に見えていた。有志は葉子と同じく、いつも彩月の暴走を諌め、正水との関係を憂いていた。
「有志くんを紹介してくれよ。父さんくらいいい男かどうか知っておく必要があるしな」
冗談で場を和ませたつもりだった。彩月が無反応でも、せめて有志が笑ってくれれば御の字だと。しかし当の有志の表情は芳しくなかった。横の彩月を気にしている。予想より大きな地雷を踏んだことに正水は後から気がついた。
彩月を注視していると、左の肩に目が吸い寄せられた。小さな虫が止まっていた。娘の苦手とするそれが視界に入るや否や、正水の体は反射的に対象を追い払うことを選択した。勢いよく右手の先が彩月の左肩に触れる。
「痛っ」
力みが入ってしまった。運命の分かれ目というものがあるとするなら、それは今だったかもしれなかった。
「は。何」
赤の他人に対し毒を放つ彩月。今の娘に触れるべきではなかった。正水は判断を誤った。
「あ、いや、虫がな」
彩月が弁明を聞き入れる寛容さを持ち合わせてはいないことは火を見るより明らかだ。途切れ途切れの言葉は動揺を浮き彫りにする。平静を装うのは難しかった。
「へえ、態度の悪い娘には暴力振るうんだ。それであたしが言いなりになるとでも思った? 普通にうざいんだけど」
彩月は正水に背中を向けた。
「彩月」
再び焦燥に従うように手を伸ばす。有志の前と言えども、なりふりを構っていられる心境ではなかった。
「触らないで!」
正水と有志。その怒号に、二人は身を硬直させる。昼間の明るさが白々しく辺りを照らしている。深い溝は地割れの如くさらにその裂け目を広げ、修復不可能なまでに父娘を別離させた。
その場を離れる彩月の後を有志が追う。辛うじて狼狽を回避したのは正水にとって不幸中の幸いだった。高鳴る動悸と、冷え切った汗により下がっていく体温だけが取り残された。家も、駅も、娘も。随分と遠く感じた。
「おい、待てよ」
早歩きは速度を落とすことなく有志の制止を振り切る。そのいかり肩を見ずとも、彼女がとさかに来ている中で、まともに話を聞く気がないのは重々承知していた。
「彩月」
体に触れることなく彩月の前に立ち塞がる。彩月は目線を変えずに有志の胸元を見つめている。
「何?」
「とりあえずさ、一旦話そ。見晴らしのいいとこ移動するか」
二人は電車に乗り、板橋区にある浮間公園へやってきた。木製の柵へと腰を下ろす。池の水面に反射する日の光の揺らめきが心に安らぎを与える。彩月は少しばかり正気に戻り、自分の行動を省みた。
正水の顔が彩月の脳裏で、書きなぐった黒塗りになる。何故だか体が熱い。服が張り付かずとも、皮膚の内側が落ち着かない様子で炎を燃やしている。意識の混濁が迫り来るようだった。有志の籠もった声が瀬戸際で彩月を繋ぎ止めていた。
「どうしてそんなにお父さんを邪険に扱うんだ」
折に触れて事情を聞いていた有志が初めてした表情だった。精悍な顔立ちが際立って見えた。
「前にも言ったでしょ。反抗期よ、反抗期」
「いや違うね」彩月が試みた二つ返事のピリオドは機能しなかった。
「悪いけど、今回は見過ごせない。現場に立ち会っちゃったからね」
有志としてもこれを看過するわけにはいかなかった。ここで、彩月の抱える問題を詳らかにしておくべきだと考えた。その必要性の非常に高い場面であることは確かだった。
ただの反抗期の域を遥かに超えているのかと聞かれれば難しいだろう。程度には個人差があり、より激しく肉親を拒絶する人間もいるだろう。だがしかし、有志は彩月が正水と親密だった頃を知っている。こんな状況へと変わっていったのは母親である百合が死んでからだ。相談に乗った日々、正水のことを散々耳にした。
彩月は地面の青々とした芝生の方に顔を伏せている。
「気が咎めない?」
さっきのように声を荒げた彩月だって珍しい。しおらしくしているのはその反動かもしれない。
「今更」
人は自分の非を認めようとはしない。成長すればするほど、子供から大人に近づくにつれ、消えるどころかその意固地さは増していく。
認めない。その一点において以前から如実だったのは、彩月が百合の死を受け入れていないことだった。
「引くに引けなくなってるんだろ。俺の前でくらい正直になってもいいんだぞ」
「違うし」
「お父さんのあの顔見たか? もう耐えられないだろうよ」
彩月は鼻で笑った。
「あいつのことはいつも言ってるでしょ。てか顔なんて見てないし。そもそもあんまり思い出せないかも。目を合わせること殆どないから」
彩月に嘘はなかった。父親への拒否反応の一種として、目を見ずに話すことを選んだ彩月。今では正水の顔を鮮明に浮かべることは難しい。母親である百合は別だった。
肩で大きく息をし、こめかみを指先で掻く有志。
「あのさ。お父さんを火傷させちゃった時のこと、覚えてる?」
切り出した話題に彩月は顔を顰める。
「泣いてばっかだったよな、彩月」
自らの不手際が招いた忌まわしき事故。初めはその後ろめたさから、正水とうまく話すことが出来なかった。そうして、気づけば父親との接し方が分からなくなっていった。
正水を避けるようになり、自宅は居心地が悪くなった。とうとう中学の間、中身のある会話を交わすことはなく、そのまま高校へと進学した。彩月はきっかけを欲した。
正水は娘への交流を幾度となく図った。家事全般に際し、意思の疎通を重ねることが優先された。たとえそれが連絡事項のようになろうとも。
前のめりで言葉を投げかける。朝ご飯を食べずに登校することが多くなった彩月。体調を案じたが、学校への道中で食べているらしかった。夜は食卓を囲む。休日は部屋に篭っているため、唯一娘をゆっくりと眺められる時間だった。一日にあったことを質問する。正水が答えを得られたことは数えるほどだ。洗濯物を干そうとした時、娘の衣類が無いことに気づいた。彩月は正水と分けて洗濯をするようになった。食器も少し時間を空けようものなら、正水のものだけがシンクに残っていた。
直接の標榜をしたこともあった。懇願は彩月の動きを止め、猶予を与えた。他愛もない話が嬉しかった。正水はここぞとばかりに溜まった話題を吐き出した。半ば質問攻めのようになっていた。近況を知るべく、友人についてを訊くことにした。以前の彼氏には良い印象が無かったため不安があった。しかし、いきなりそのような話はデリカシーに欠けるので外堀から埋める必要があった。
「高校の友達とはどんな感じだ?」
「別に、普通だよ」
「普通って。休みは遊んだりもしてるだろ。帰りだってちょっとだけ遅くなってるし、部活とか入ったのか? 同じ志の仲間は大切だぞ。一緒に苦難を乗り越えた人間ってのは一生ものの宝だからな」
「そうだね」
「親友とかも出来たんじゃないか? にっちゃん」
彩月は戦慄した。その時正水は、知り得る筈もない呼び名を口にした。それは彩月と葉子の二人だけしか知らないものだった。
葉子と知り合ってからはすぐに仲を深めた。正反対な部分の多かった二人だが感性は近く、同じ時間を共有する同性として最も適していた。
特別な間柄には特別な呼称が必要だと葉子は言った。彩月に変える気はなかったが、葉子の持論を否定もしなかった。
「じゃあ、にっちゃん!」
葉子は妙ちきりんな言い方で彩月を呼んだ。
「にっちゃん? どうして」
よく聞いてくれました。そんな、いたずらな表情で葉子は得意げに説明し始めた。
「如月彩月。名前に月が二個あるでしょ? 月が二つ。につき。だから、にっちゃん」
彼女が通信販売の店員なら商品を買ってしまうだろうな。そう相手に思わせるほど溢れた自信とにこやかに主張を伝えるその様は愛らしかった。
「なんか、そのまんまなんだけど、あんまし聞かない言い方だよね」
「さっちゃんだと今までいたでしょ?」
「そうだけどさ。『さつき』なら五だから、合わせて六でむっちゃんとか」
「駄目。むつきちゃんだって結構いるよ。それに、にっちゃんのが個性が際立ってる。可愛くない?」
「にっちゃんも兄ちゃんみたいじゃない」
「いや、可愛い。音もさ、自然と口が横になるし、笑ってるみたいになる。ほら、に」
葉子は可笑しな話を繰り広げた。小馬鹿にあしらいながらも、彩月は上がる口角を抑えられなかった。
二人はその特殊性を高めるために、普段、知人の前でこの呼び方をすることは避けた。二人きりの空間、もしくはスマートフォンのメッセージ上だけで「にっちゃん」はやり取りされた。
「寝る」
彩月は正水に背中を向け、リビングを出た。
「え」
あまりの突然さに正水は言葉を失った。何か用事を思い出したのか。訳がわからなかったが、ひとまず階下から就寝前の歯磨きの催促をしてから自分も寝室に戻ることにした。
この日から、彩月はより一層の拒絶を示すこととなる。
彩月は沸々と湧き上がる感情に直面する。有志に対し、隠したままでいることに疲れたのだ。
「あいつ、あたしのケータイ見てたの」
今まで彩月が有志に話していた内容。それは日々の些細な正水の行動だった。彩月を逆撫でする、ずれたコミュニケーション。距離の詰め方が嫌悪を加速させる。そういった中で、一番の理由であることについては話していなかった。
「親友の葉子だけが使ってるあたしの名前の呼び方。それをあいつは知ってたのよ」
唇を噛む彩月。
「それだけで?」有志はつい口走った。
小さな積み重ねも原因として機能したのだろうが、少しばかり拍子抜けしたのも事実だった。しかし再度考える。思春期の女子高生に対し、プライバシーを欠く行為を働くのは悪手だ。冷え切った状態でのそれは致命的ともいえる。
「そう。それだけのことをしたの。いつも気持ちの悪いことしかしてこない。家で見られるのすら嫌なの、あたしは」
時間は人を嫌いになる理由たりえる。彩月はいつしか習慣化した感情にも違和感を抱かなくなっていた。
「愛情だろ。毎回お父さんは彩月に歩み寄ってるって感じがしてるけどな。その、呼び方ってのはどこかで耳にしたのを使っただけじゃないか?」
「それは絶対にない」
彩月の声に一切の濁りはなかった。
「歪んでるのよ」
淡々と軽蔑を口にする。正水に対して期待というものをしていない。希望を持つことなく失望の上塗りを繰り返す。元々あった色の正体など自分でも分からなくなるほどに。
「決めつけるなよ。お父さんの気持ちを考えてみたことはあるのか。そうだ、彩月は本を読むだろ。ならそういう創作物から勉強すればいいんだ。何か理由が見つかるかもしれない。ただ一方向から見て拒絶するのは誰だって出来る」
言葉数を増す有志の説得。それでいて熱を帯びぬよう冷静に提案する。
「現実なんてそんなもんよ。難しい本なんて読めないし、分からないわ。あたしの苦しみはあたしだけのもの」
まるで最後の砦を守るのに必死なようだった。あと一押し。有志はなんだかそんな気がした。彩月を動かすにはあとほんの少しの力が必要だった。
「他人を諦めるな」
有志は体を反転させ、池に眼差しを向ける。鋭い刃も、大量の水になら遠慮なく放ることが出来る。
「目を背けたり逃げるのは確かめた後でも出来る。それに、難しくたっていい。難易度で可能性の芽を摘むのは勿体ない。芸術に決まりや水準をつくるほど息苦しいことはないって」
逃げる、という強い言葉を用いることに躊躇いはあったが、敢えて有志は目を瞑った。良心は一銭にもならないと判断した。
晦渋な説明が痛々しく彩月に突き刺さった。心の内を見透かされているような有志の熱弁に、火傷してしまいそうな危険性を感じずにはいられなかった。清濁併せ呑む性格の彼に甘えていたのかもしれない。
「嫌いになりきる理由がないなら嫌いになるべきじゃない。それが俺のモットー」
有志には彩月が一方的な視点に拘泥しているように見えていた。まるで父を嫌うという強い感情を、崩壊へと向かう自我の支えとしているように。母を亡くした喪失感と父に怪我を負わせた上で日々仕事をさせていることへの罪悪感から唯一逃れる術(すべ)らしかった。
「じゃあさ、ちょっと俺のターン。途中に口は挟まず最後まで聞いて。いい?」
彩月は黙って頷いた。元より反論する気力など残っていなかった。
「彩月はお父さんが大好きだっただろ? それがどうしてこんなことになる。ふらふらの自分が怖くてお父さんにきつく当たるのは筋違いだ。家族の問題だし、俺だって過度に干渉したくなかったよ。けどもうはっきり言う。彩月、辛いんだろ。お母さんのことも、お父さんのことも。お父さんと面と向かって接すれば、今の現状に納得せざるを得ない。家族の人数を把握するのが怖いんだ。気を張ってれば、何とかやっていけてる気がするよな。さっき目を合わせないって言ったけどさ、顔を思い出せないのも、記憶に蓋をしているからじゃないのか」
図星だった。彩月は時々自分で思うことがあった。世界に対し、無理に粗探しをしている。そうすることで、欠点に陶酔し、相対的に感覚を麻痺させる。救いようがないのは自分だった。彩月は自分を疑ったことなどなかった。己を操縦しているのはあくまで己であり、一番の味方もまた己なのだと。
しかし、長いこと有志や葉子から宥められていることも自覚していた。それには何か理由があるはずだった。この二人が、盲目的になることはない人間だと彩月は知っている。
「そろそろ、襟を正す頃合いじゃないか」
有志は運転が上手かった。
「はあ。よくわかんないけど、やっぱり有志は完璧超人だね。一般人が抱える問題なんて無縁でしょ。全部見抜いちゃいそう」
観念したように彩月は裸を晒した。他人の意見を認めたのは久しぶりのことだった。真実かどうかは自分でも分からないままなのだが。
「スーパーマンかなんかだと思ってる?」
有志は砕けた表情をした。ようやく空気中から固さが消え、酸素の味を思い出す。
「違うの」
彩月が尋ねる。肩を竦め、西洋人のような所作をとる有志。
「自分の弱さを見せることに抵抗があるだけ。取り繕うのが上手いんだよ。だから良い面しか印象に残さない。臆病者」
謙遜と傲慢の入り混じった見解を鼻で笑う彩月。自己評価が低いのか高いのか分からなかったからだった。
「道端や電車の中で男性が倒れてるとしよう」
大きく伸びをしてから、突然意気揚々と話し始める。連続して鳴る骨の音が幕間の時間の疲れを表しているようであり、有志の演説の前奏のようにも聞こえた。
「大抵の人は『男だし大丈夫だろう』と思い、気にも留めない。けどそれは違う。『大の男が倒れるほどの事態』なんだ」
彩月は目線を上に向け、脳内で想像しながらその光景を鑑みる。
「分かる? 固定観念はよくないし、誰だって内側の脆さってものはある。人間、体のつくりは一緒なんだ、怪我もするし病気にも罹る。ごく当たり前のことなんだけどね。忘れちゃうんだ、子供から遠ざかるほど」
道徳の授業を受けていた。こんな、実年齢以上の差を感じることに以前は感心をしていた。しかし今、有志への劣等感のようなものが上回った。肯定で自分を癒してくれる騎士はいなくなったのだ。
「ふーん」
「とにかく。彩月は気まずくて話せなかった時間が長くなればなるほど自分の気持ちの正体が分からなくなっていっただけだよ。それに偶然よくないことが重なって、曲解してたんだ」
有志がここまで真剣さを維持した。最長記録である。それが無駄になるかどうか。一寸先は黒塗りの常闇かもしれなかった。
「邪推よ」
「分からず屋」
会話の往来する間隔が短くなっていく。
「代弁してるつもり? 自己満足でしょ。知った気にならないで。有志みたいにみんなが単純だと思ったら大間違い」
子供のように反発する彩月。
「そういう決めつけを卒業しろって言ってんだ」
お互い感情的になっていた。気づけば二人の視線は重なっている。
「性別も年齢も違う他人なの。ましてや楽観的でもない。嫌いな人間に嫌いって言って何が悪いの。責められること?」
湖面が小さく波を立てている。産毛に触れる風が勢いを増していた。
「それって本心? 自信のない言い分なら初めから持たない方がいい。自分で自分に納得出来てるなら、持ってもいいけどさ」
「あたしだってそんな風に生きられたらどれだけいいかっ」
その瞬間、彩月は口を噤んだ。脳にある無数の検問を通り過ぎてしまった。検閲が必要だった。
全身の筋肉が独立する。脳が支配権を失いつつあった。思考は暴れ、瞳孔が揺れる。四面楚歌が世界を支配した。
「へ、屁理屈で揚げ足を取るのはやめて」
絞り出した先にある震えた声が情けなく感じた。口を開くごとに鎧や装甲が剥がれ落ちていく。
「彩月が張って気持ちのいい意地なら俺だって何も言わねえよ」
平行になった眉、入口を僅かに狭める目、それらの間で作られる凹凸。口の下にも同様のものが出来ている。不満や怒りで占めている彩月の顔と正反対をした有志の表情は、憐れみのようなものを含んでいた。彩月は彼氏から初めて向けられた強い感情に動揺を隠せなかった。
「だから口を出すんじゃねえか」
有志に撤退の二文字は存在しないように思えた。彩月はその場を離れることを選択する。これ以上の押し問答は無意味だった。
「彩月!」
背中に浴びせられる声をよそに、俯きながら距離をつくる。
軋轢と向き合わねばならない。彩月は深呼吸をし、膿を出し切る決意をした。もう茶を濁すことは出来ない。無知蒙昧な自分へ別れを告げるべきなのだろうと。
帰宅してからはすぐにベッドに入った。正水の確認はしていない。いずれにせよ無視を貫くつもりだった。明日、出かけてみよう。彩月は今出来る精一杯の能動で改善に踏み出すことにした。
翌日。正水は通路ですれ違った一宮に声を掛けられた。
「あれ、どうしたんですか如月さん」
一宮は正水の顔に喫驚していた。お世辞にも体調が良いとは言えない顔色をしていたからだ。昨日の今日で一体何があったのか。直属の部下でないにしろ、知り合った日から互いを見つけることが多くなり、日頃から挨拶程度は交わしていた二人。昨日はこんなではなかったと記憶している。
正水は昼を一緒にしてくれないかと一宮に頼み込んだ。
「早まりましたね、如月さん」
起きた出来事を包み隠さず伝えた正水。咄嗟に父親という年季の違いを見せようとしてしまったことが仇になった。一宮は正水が説明をしている間、常に憐れみを浮かべたまま静聴に努めていた。覆水盆に返らず。嫌なことわざが正水の頭によぎった。
「起きてしまったことは仕方がない。以前よりさらに慎重に動きましょう。一挙一動に注意を払って、分析が偏見にならないように善処するべきです」
地道に関係を修復するべく機会を見計らっていた矢先、暗礁に乗り上げてしまった。
「結局は塞翁が馬。なるようになりますし、人生なんて平坦が一番ですよ。時間が解決してくれないなら、ゆっくりゆっくり快方を図りましょう。若い時期が大切なのは分かります。四年という時間も決して短くない。けれど、焦って絶縁なんてことになったら、それこそゲームオーバーです」
きつい言葉に面食らう正水。初めから自分は敬虔な人間だと誤解していたのかもしれない。そんな綺麗なものではなく、ただの愚か者だったのだ。
「あんなことをしなければ」
正水は自らのあまりにも粗忽な行動に臍を噛んだ。
町外れにある書店。老舗といって差し支えなく、雰囲気は厳かでいて気品溢れる不思議な店構え。灰色の空とよく調和している。彩月は自然と向かうその足に逆らわないまま扉を開いた。
甲高い鈴の音(ね)が店内に谺する。木製の床や壁はすぐに跳ね返った音の余韻を掻き消した。
「うわ、すご」
好みの分かれる埃っぽい匂いが充満している。所狭しと並んでいる本の数々。色褪せた背表紙ばかりで鮮やかな原色などは一つも見られなかった。決して広くはない空間の正面に、店主らしき男性が卓に肘をついて座している。彩月以外に客の姿は見当たらなかった。
「いらっしゃい」
彩月は無言の会釈で応える。
雰囲気は満点で、余計な広告や販売促進の文言が無い。この方が読書家には刺さるのだろうか。手抜きに見えて訴求力の高そうな商いだった。寂れた外観は、訪れる個人に対し強くアプローチする隠れ蓑といえた。
ここならば目当ての品に巡り合える。彩月はそんな確信をもった。
右から左。左から右。視線で本のタイトルを撫でていく。少しでも関心を引くものがあれば、手に取り裏面のあらすじを見る。純愛や推理、SFに怪談。有り体の作風が並ぶ中で、奇天烈なものに手を止めたりもしたが、やがて元あった場所に優しく戻した。ごく僅かに置かれている経済小説や自己啓発書には目もくれなかった。
「何かお探しで」
黙って彩月の動向を見守っていた店主もしびれを切らしたようだった。静観に飽きたのだろう。若い女性の訪問は珍しくないが、最後に学生を見たのは随分前のことだった。
埒が明かなかったので、彩月は大人しくその問いかけに答えた。
「決まってはないんですけど」
特定の本があるわけではない。自分が探しているジャンルというものも明確ではない。家族ものの感動物語を欲しているのか。はたまた家庭の抱える闇を描いた衝撃作か。父親の苦悩を呈示する知識本か。
そんな思案に頭を悩ませていると店主からの返答が返ってきた。それは返答と呼ぶには些か判断の難しいものだった。
「ふーん。お嬢ちゃんべっぴんだね」
店主は見たところ還暦はとうに過ぎている。水分の不足している焦茶色の肌が一つの安心感を生んでいた。
その繊細な声色は、ここ最近彩月が耳にしたものと大きく異なっていた。嫌悪する人間の声に、愛する人間の強い声。同じ男性の声でも、角の無い丸さを感じた。堤防の必要性は無かった。
「ありがとうございます。ここ、良い雰囲気ですね」
社交辞令でない本心を述べた。
「そうだろう。美人さんがやってくるくらいにはセンスの良い場所なんだよ」
目元に放射状の皺を作りながら微笑みかける。自身の店に厚い信頼を置いていることが分かる。
「褒めますね」
「事実さ。普段は死にかけの同類しか目にしないもんでね」
自虐にどう反応していいか困った。彩月は希薄な相槌を打つことしか出来なかった。
「若い子は一目で溢れる活力が分かるのがいい。青春してるかいお嬢ちゃん。してそうだけど」
その単語を聞いて、年頃の女子高生が真っ先に連想するのは恋愛以外になかった。有志の顔が浮かんだ。
「まあ、彼氏はいますよ」
少しだけ上機嫌を乗せた返事をする。店主はにっこりと口元の横線を伸ばした。
「どこまで続くか、なんて野暮なことは言わんよ。生涯の相手だと思って大切にするといい」
警戒心は無くなっていた。自然と店主の方へ近づく彩月。
「はーい。おじさん、恋バナ好きなの」
「嫌いなもんか。どんな男なんだ。年寄りの暇つぶしに付き合ってくれや」
彩月は微笑み、その期待に応えた。
蝉の音が防音性の低い壁越しに小さく聞こえる。土瀝青の上で陽炎が揺れる。生活している人の数に拘らず、湿度の低い熱気が平等に降り注ぐ。充満したそれらから逃れることの許された避暑地。ただの屋内とは一線を画す特別を、彩月はここに見出していた。
「賢いの。地頭が良いっていうの? 達観してて、クラスの男子とは大違い。包容力もあって、背も高いし顔もかっこいい。頭はまあまあだけど。それと空手やっててね、そこそこ強いんだ。道着姿も様になってる。中々の優良物件だし、高校卒業したら同棲する予定なんだー」
機関銃の如く放たれる惚気。情景が走る。記憶の中の有志が笑う。手を引かれ、広い背についていく。急停止した有志にぶつかり、彩月の額が有志のうなじに当たって夏の匂いを散らせる。映写機から脳裏に映し出される思い出は、場面転換を繰り返し、圧縮した幸せとなって走馬灯のように抽出された。
彩月は無意識に前のめりになっていることに気づいた。話している内に笑顔になっていたらしい。現在、自分は山本有志という男に対し、半ば喧嘩のように苛立っていたというのに。
「別れるかも」
変面のように顔を切り替える彩月に驚く店主。
「え? どうして」
「喧嘩しちゃった。それも多分大きめの」
喧嘩。瑣末な事に思えるが、彩月の真剣な表情に店主は同じ温度で応えた。
「そっか。そりゃ大変だな」
彩月には、このまま何もしなければ関係が途切れてしまうほどの事態に思えてきた。
「大学生なんだ。いっぱい遊べる時期だろうし、女の子も寄ってくるだろうなあ」
「そんな簡単に別の子に移っちまうような奴なのかい」
「違うけど」
「じゃあ心配いらんだろう。時間が解決してくれるさ」
「何もしなくても?」
すると店主は哲学じみたことを言った。
「時間は何かを起こすもんさ。必ずな」
分け隔てなく接するその様は、仄かに胡乱を漂わせていたが、それすらも心地よかった。年功序列という時代遅れな言葉を受け入れてしまいそうになる貫禄や説得力があった。
感傷に浸るように目を伏せると、木目に沿って蟻が這っているのが見えた。
「きゃっ」
彩月は虫が嫌いだった。虫の知らせという言葉も好きではなかった。ネガティブな意味合いで用いられていることに異論はないが、人の察知できぬことが分かるほど彼らが上等とも思えなかったからだ。
感じた不快が目覚ましのように機能し、彩月を覚醒させた。いつの間にか目的を忘れていた。ふと、葉子との会話を思い出す。
「テーマというか、偏愛と聞いて思いつく本ってありますか」
「偏愛? 変態じゃなくて」
彩月は返事をせずに真っ直ぐ見つめた。茶化しに付き合うよりも優先すべきことだったからだ。
頭を捻らせる店主。思い立ったように立ち上がり、カウンターから出てくる。ぶつぶつと口を開閉させ、手を宙に遊ばせながら棚を物色する。お目当ての一冊を見つけると優しく手に取った。
「これなんかどうだろう。偏愛の解釈は人それぞれだと思うけど、少なくとも君の理解できない愛の形を描いてる作品かな。どう受け取るかは君次第だ。文学に正当化の強制は無い。自由でいいんだから」
有志のようなことを言う。わざわざ釘を刺す必要などないのに。彩月は少しだけむっとした。
「ロリータ」
店主から受け取り、タイトルを読み上げる。彩月とて耳にしたことのある単語。理解し難く、薄気味が悪い。
家に持ち帰るのにやや抵抗を感じずにはいられなかった。
帰宅してから本と向き合う。簡素な白茶の装丁がいかにも小難しそうに見えた。古く刊行されたらしく、経年劣化に寄るものなのかは分からない。それを和らげるようなピンクの帯すらも押し付けがましかった。
パソコンで検索をかけると「稀代の問題作」という触れ込みでの紹介が散見された。
ロシアで生まれたアメリカの作家。彼が紡いだ反社会的とも解釈される性愛の物語は、五つもの国で発売禁止処分を受けた。しかしその内容の本質は俗物的で猥褻な部分とは別にある。事実、この本の刊行の為に署名運動まで起きたという。にわかには信じ難いことだった。
「発禁だって」
本を開くとその文字の小ささに怖気付いた。今まで読みやすいものを厳選していた彩月にはハードルが高い。
大学教授である主人公が十ニ歳の少女に恋をする。疫病により亡くした少年時代の恋人の影をその少女に見出してしまったのだ。彼女に近づく為に、未亡人である母親と利己的に結婚。ロリータとは少女ドロレス・ヘイズの俗称だった。
それは特別な意味を孕むもの。後年、様々な言葉に姿を変えて浸透していき、今では広く認知されている。
父が口にした呼び方を思い出す。少女が感じたえも言えぬ恐怖と嫌悪は自分と重ねられるものだ。しかし主人公が何を考えていたのか。初めから犯罪的な思考の末に少女を所有したのではなく、あくまで純粋な愛情というものが根底にあった。さらにその彼女は無二の魅力を持っていたのだから抜け出せない。ロリータという呼び名。物語が進むにつれ、苛立ちを隠そうともせず主人公を罵る彼女だが、最初のうちは母親が用いていたものである以上何なく受け入れていた。その点が彩月とは異なる。
世間から揶揄され忌避される言葉の裏側を見せられている気がした。白眉の宿命をまざまざと感じた。
退店間際、古本屋の店主が言っていた。
「人ってのは生きてりゃいろんな感情に揉まれるし、たくさんのものの見方に疲れたりする。そんでもって、相反する二つを同時に持つことになってもそれを不思議と思わなくなる。自然に慣れちまって解明に乗り出す気力を失うんだ。結果、追求を放棄した醜い自分だけが残る」
悩み相談を日常をとしているのだろう。店主は道に迷った子供を諭すように丁寧に言葉を並べた。
そして最後に、やはり彩月の知らない作家のことを話した。
「君は大丈夫。過度な心配は無用さ。幸福について説いているショーペンハウアーでさえ、彼は厭世主義者というのだから驚きだよ」
ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。