くだらない話5
昔の知り合いに偶然出会った時、度々困ることがある。
それは、相手の呼び名を思い出せないことだ。
相手のフルネームは覚えている。
顔もちゃんと覚えている。
その人と共有できる思い出やエピソードもなんとなくは覚えている。
でも何故かその人の呼び方だけが思い出せないのだ。
名前にちゃん、または君付けだったか。
苗字で呼び捨てだったか。
それとも何かあだ名であったか。
その人と会話していた場面を思い浮かべても、名前を呼ぶところだけが、テープの早送りみたいにとぅるるるっと聞き取れない音になってしまい、ものすごく歯痒い気持ちになる。
これに似た感覚は、日々の生活の中にも意外とあったりする。
自分の住んでいる街の駅は、現在、絶賛高架化計画進行中であり、どこもかしこも消えて無くなる家や店ばかりだ。
その跡地の前を通るたびに、以前の自分が見ていた景色を思い出すことが日課となっているが、その時、人の呼び名を忘れてしまったときと同じような感覚に毎回陥る。
ずっと仕事へ行くまでに通っていた、この道のここは、いつから更地になっていたのだろう。
確か1週間前までは何かの建物があったはず。
たぶん家だった。
しかし、どんな色で、どんな大きさで、どんな玄関で、どんな質感の壁で、なんていう表札が飾られていたか。
それをはっきりと明確に思い出すことが出来ないのだ。
街の変化に関しては、特に困るほどでは無いが、いつもその道を通るたびに、これまで見慣れていたはずの景色を思い出せないことに気付くのは、あまり良い気分では無い。
もちろん、呼び名が思い出せないような人は、恐らく、というか確実に、自分の人生においてあまり重要な相手ではないのだろう。
どんな外観だったか思い出せないような家や店も、自分の生活にはそれほど関係がなく、存在が消えてしまっても支障はないのだ。
それでも、記憶を呼び起こせないでいると、その人の名前を呼んでいた時の自分やその道を歩いていた時の自分が、まるでスッといなくなってしまったかのように感じられて、なんとなくモヤモヤと切ない気持ちになってしまう。
この現象は恐らく多くの人が経験しているはずだから、何か名前があるはずだと思う。
けれど、この文章を書き終える時には、その現象の名前を調べることも忘れてしまっているのだろう。
日々を生きることは、自然と自分にとって不必要な自分自身を忘れていくことなのかも知れないな。
と思いつつ、ビール2缶とレモンサワー1缶で酔っ払っている自分は、こんな文章を書いたことすら忘れているのだろう。
以上です。
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