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つらづらつら

久しぶりのぎこちない随筆である。
夏にひと記事も書き上げない僕はなにか失格・・であるしまた、虫の写真を撮りに野山を駆け巡ることもしなければ、(したい)、という衝動に駆られることもなかった。そういった抗えぬ事実にさえ俯瞰した立場を取ってしまう僕は一体、空蝉はとうとう抜け殻になってしまったのか、なんの焦燥も感じずに事実を述べるロボ蝉へと成り果てたか。

どうにも僕はキャパシティというやつが極端に狭い。まず複数のことを並行して行うことが困難だし、楽な方に偏りがちになる。そんな”反省”なんてことをビールを片手に今夏はしてしまったのだが、したところでアルコールのまやかしに明日は明日なんて言葉に靡いて寝てしまう始末で、そんなこんなの、こんなだったりする。

ああ、楽しく生きるとはこんなに難しいモノか。
いや己がそうさせていることには違いない。

『常識からの脱却』

という”行為(変化)への不安”がいつまでたってもまとわりつき、一歩が踏み出せないのである。そんな中でも頭の中では「嫌われる勇気」の一節がぐるぐると巡るのだが、アドラーは我が不甲斐なさを前にして不可抗力たる白旗を掲げる。(あくまで僕の心のアドラーの話である)
果たして僕のキャリアパスの終着駅はどこの海を流れていることやら。南の雄大な海にぷかり浮かんで、片手にトロピカルジュースを携えながらサングラス越しに僕を見つめているならば、もうひとつふたつ小さくてもよいから花火を撃ちあげて、道しるべを与えてほしいものである。スイカ神もその海にぷかり浮かんで、夏の日差しにやけながら日々満喫しているに違いない。最近めっきり顔を出さなくなった裏切り者め!

僕の楽しいと思うことは確実にいくつかあって、その永続性の果てには”生きがいのまっとう”という素敵なゴールが存在している。そのことは強く肯定することができる。
しかし常識に浸かった僕の脳みそはそれをわざわざ遠回りさせ、ラクダのままくたりくたりと見知らぬ砂漠のなか彷徨いあるいているのである。

人の悩みはすべて人間関係の中にあるという。しかし貢献という大いなる根本的幸福もまた、人間関係の中にしか存在しない。そのパラドックス的事実はどれだけ僕という社会不適合者へ葛藤を授けることか。
ツァラトゥストラ、僕はいったいどんな過程で超人たる幼子に進化すればいい?

秋の夜長はそれらを暴き立てようと猛威を振るう。果たしてお前は本当に楽しんで本を読んでいるのか、Mリーグを見ているのか、お酒を飲んでいるのか、仕事をしているのか。
人生に意味などないという問いはあまりにも宇宙的に広大過ぎて、問われていることにさえ気づくことができない。けれどふと、空を見上げるといつかの星と、いつもの月が神々しく風に瞬いている。

感動だけで生きていけたらいいのに。
初夏に初めて吹いた薫風だとか、北風に吹き付けられながらも見上げた星の美しさとか、音を発したあの不思議な流星群の一時とか、その瞬間瞬間がずっと続けばいいのに。僕は確かにそのときだけは生きることを肯定できた。生きていてよかったと思えたのだ。その永続には確証がある。
となるとなかなか素敵な人生ではないか。

吐き出し、と整理!
ではまた!








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