イギリスの美術を拡張する「テート」
《週末アート》マガジン
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国立新美術館で開催されている「テート美術館展」
2023年10月2日まで、東京の国立新美術館では、テート美術館展が開催されており、副題には「ターナー、印象派から現代へ」とあります。
この展は、英国・テート美術館のコレクションより「光」をテーマに作品を厳選し、18世紀末から現代までの約200年間におよぶアーティストたちの創作の軌跡に注目するという内容の企画です。
「光の画家」と呼ばれるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーや風景画の名手ジョン・コンスタブルといった英国近代美術史を彩る重要な画家たちの創作、クロード・モネをはじめとする印象派の画家たちによる光の描写の追求、モホイ=ナジ・ラースローの映像作品やバウハウスの写真家たちによる光を使った実験の成果、さらにブリジット・ライリー、ジェームズ・タレル、オラファー・エリアソンらの現代アーティストによる視覚体験に注目したもりだくさんな内容です。
今回取り上げられた近代から現代にかけてのさまざまなアーティストについてはそれぞれ後に取り上げていきたいと思いますが、今回は「テート」とはどんな美術館なのかを掘り下げてみます。
テート美術館
原田マハさんの『楽園のカンヴァス』にも登場する「テート美術館」という名前。まずこの美術館はどのようなところなのでしょうか。
テート(Tate)は、イギリス政府の持つイギリス美術コレクションや近現代美術コレクションを所蔵・管理する組織です。「テート美術館」と書いたももの「テート美術館」(Tate GallleryとかTate museumなど)なるものは存在しておらず、その管理下に美術館が4つあります。2000年までは「テート美術館(Tate Gallery)」は存在していたのですが、改組(かいそ)され現在の組織体制になりました。上記のロゴもそのときにデザインされたものです。
テートの構成
テートの歴史について触れる前にまず、テートが現在どのような構成になっているのかみてみましょう。前述の通り、2000年、テート・ギャラリーが、4つの美術館からなる現在のテートへと姿を変えました。
テート・ブリテン
1500年から現代までのイギリス美術のコレクションを展示する
テート・モダン
同じくロンドンにあり、1900年から現代までのイギリスと世界の近現代美術のコレクションを展示する
テート・リヴァプール
テート・モダンと同じ目的だが規模は小さい(1988年設立)
テート・セント・アイヴス
コーンウォール(1993年設立)
テートは、以上4つの美術館からなる組織です。4館ともテート・コレクションを共有しています。
テート・ブリテン(Tate Britain)
1500年代、テューダー朝以降現代に至るまでの、絵画を中心としたイギリス美術を時代順に展示しています。従来のミルバンク地区の建物を改修して使用しています。テート・ブリテンの最大の特色は、ラファエル前派などヴィクトリア朝時代の名品もさることながら、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー自身から寄贈された彼の初期から晩年までの充実した作品群の展示です。また毎年テートが主催する「ターナー賞」展の会場となっています。1897年開設、2001年再開館。
テート・モダン(Tate Modern)
20世紀以降の国内外の美術・デザインを、時代をシャッフルさせて「人物」「風景」などテーマごとに展示。テート・モダンは当初新築も考えられていましたが、予算と適当な場所がなく計画が難航していたところ、シティからはテムズ川の対岸にあたる、荒廃したサザーク区に建っていた旧バンクサイド発電所の巨大な建物を改修して再利用する案が通り、スイスの建築家ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計により2000年に開館しました。
なお、19世紀以前の国内外の西洋美術はナショナル・ギャラリーが、19世紀以前の西欧以外の美術品はヴィクトリア&アルバート美術館や大英博物館が担当しています。
イギリスの20世紀美術についてはテート・ブリテンとテート・モダンの両方で展示されることになっています。
テート・ブリテンとテート・モダンの両館の間は「Tate to Tate service」と呼ばれる船便が、テムズ川を用いて頻繁にシャトル運行しています。また定期船も両美術館前の船着場を通っています。
テート・リバプール(Tate Liverpool)
ヘンリー・テート卿ゆかりの地、リバプールの港湾にあるアルバート・ドックの古い倉庫建物を再開発し1988年開設。地元住民や専門家に対する教育企画などを行っています。
テート・セント・アイヴス(Tate St Ives)
南部コーンウォール半島のリゾート地でアーティスト村だった港町セント・アイヴスに1993年開設。この地で制作したバーバラ・ヘップワース、ベン・ニコルソンら、この地を訪れたモンドリアンやナウム・ガボらの作品を中心に展示。近隣のバーバラ・ヘップワースのアトリエや彫刻庭園も管理しています。
テート・オンライン
テートのウェブサイト。来館できない世界中の人々に対し活動や所蔵品、研究成果を紹介するほか、インターネットアートなどの紹介や企画も行っています。テート五番目のギャラリーと位置づけられています。1998年開設。
テートの歴史
砂糖精製、特に角砂糖の特許買収・製造で財を成したサー・ヘンリー・テートが、自身のイギリス同時代絵画のコレクションを1889年にナショナル・ギャラリーに寄贈しようとしたことが発端でした。
しかしナショナル・ギャラリーは、場所の余裕がないとテート氏の寄贈を却下してしまいます。これにより、イギリス国内で「同時代絵画を展覧する美術館を開館せよ」という議論が起こりました。特に当時、フランスが同時代の作品を展示する国立の美術館リュクサンブール美術館を開設し、国内外の芸術愛好家を集めていたことがイギリス人を刺激していました。紆余曲折の末、国立のイギリス美術展示館を新たに建設することが決定します。
ヘンリー・テートの集めた絵画や素描、彫刻などのコレクションとナショナル・ギャラリー所蔵のイギリス絵画をもとに、ナショナルギャラリーの分館「ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート」がロンドン南部、ミルバンク地区のテムズ川畔に1897年開設されました。1955年からはナショナルギャラリーの分館ではなく、独自の組織「テート・ギャラリー」となりました。
当初はナショナル・ギャラリーに収蔵しきれないイギリスの美術作品(1790年以降に生まれた作家によるもの)を収蔵展示することが設立の主目的でしたが、ゲインズバラ、ホガース、ターナー、ラファエル前派などの各時代のイギリス絵画の名品を徐々に揃えていきました。
20世紀初頭には何度も増築が行われ、テューダー朝(1485-1603)以降の歴史的な作品も収集範囲に加わりました。1916年、アイルランドの美術商、コレクター、ギャラリー・ディレクター、サー・ヒュー・レーン(Sir Hugh Percy Lane)の収集した海外作品の遺贈を受け入れたことをきっかけに、外国の近代美術・現代美術も収集・展示し始めましたが、所蔵作品の増加によって、展示場所と収蔵庫の不足に悩まされることになっていきました。
また、テート・ギャラリーはニューヨーク近代美術館、パリのポンピドゥー・センターなど、世界的な現代美術館にかなう規模ではなかったため、ロンドンに近現代美術の新しい美術館が待望されていました。
1980年代以降テート・ギャラリーはリバプールとセント・アイヴスに分館を開館する一方、ナショナル・ギャラリーやヴィクトリア&アルバート美術館も含めた国立の他の美術館と、再編や役割分担について検討しました。
その結果、テート・ギャラリーの新館をロンドンに作り、ミルバンクの本館をイギリス美術のギャラリーに、新館を近現代美術のギャラリーにする方針が決められました。こうして2000年に新館「テート・モダン」が完成、翌2001年にミルバンクのテート・ギャラリーが「テート・ブリテン」として再開館し、現在に至っています。
2000年をもって、テート・ギャラリーおよびその分館は、テートの名を冠する4つの国立美術館の連合体である「テート」へと改組(かいそ)されました。
テートのコレクションは4つの館が共有する一体のものであり、定期的に各館でのコレクションの移動が行われています。
ターナー賞(Turner Prize)
ターナー賞は、イギリス人もしくはイギリス在住の美術家に対して毎年贈られる賞です。19世紀イギリスのロマン主義の画家ターナーの名にちなむ。 1991から2016年までは50歳以下の美術家を対象としていましたが、アーティストは年齢に関わらず作品のブレークスルーを経験するという理由から、現在は年齢制限がありません。
国立の美術館テートが組織する賞で、毎年春に、顕著な活躍をしているイギリスの美術家の中から4人がノミネートされます。ノミネート者の作品が展示されるターナー賞展は、毎年晩秋から冬にかけてロンドンのテート・ブリテンで(2007年は欧州文化首都を記念してリバプールのテート・リバプールで、2011年はゲーツヘッドのバルティック現代美術センターで)開催され、会期中にターナー賞受賞者の発表および授賞式典が行われます。
ターナー賞の歴史
ターナー賞は1984年に開始されたがさほど世間の関心を集めず、1990年にスポンサーの撤退でいったん中止されました。テートの館長であるニコラス・セロタ卿(Nicholas Serota)が1991年にノミネート者の年齢制限やテレビ局との協力など大きく見直しを行って以来、ターナー賞は刺激的な若い作家が多数受賞するイベントとなり、世界の美術業界だけでなく普通のイギリス国民にも注目される美術賞となってきています。2000年代に入りコンセプチュアル・アーティストが受賞する傾向がありますが、作品の媒体は限られておらず、画家や彫刻家もこれまでに受賞しています。
2004年以来、賞金は4万ポンドとなっていましたが、2008年は2万5000ポンド。毎回異なったスポンサー企業がついていますが、1990年代からはテレビ局のチャンネル4やジンで有名なゴードンズが常連となっています。授賞式はチャンネル4で中継され、ミュージシャンや俳優、文化人などの有名人が多数出席し各メディアで大きく報じられます。賞も有名人から授与されます。
ターナー賞についての議論
ターナー賞をめぐっては論争が非常に多くあります。ノミネート作品の話題やノミネート作品をきっかけにした政治討論など、現代美術の話題がイギリス市民の話題に上るようになるなどターナー賞は美術を身近なものにしています。一方で美術のゴシップ化や政治問題化、美術家の芸能人化などが批判されることもあります。
展覧会に出品される作品をめぐる観客やマスコミからの批判も過去に多くありました。ターナー賞にノミネートされたダミアン・ハースト(Damien Hirst)のホルマリン漬けのサメの作品、トレーシー・エミン(Tracey Emin)のコンドームやタバコや日用品が散乱しただらしない自分のベッドを再現した『マイ・ベッド』などがとくに非難を浴びました。
また別の方向から非難を浴びることもあります。政府筋:例えば文化・メディア・スポーツ省政務次官だったキム・ハウエルズ(Kim Scott Howells)が2002年にターナー賞を非難、出席したゲスト:マドンナによる悪態、審査員(リン・バーバーが新聞に寄稿した記事)による批判などがその一例。
さらに毎年、各種アーティストによるターナー賞に対する抗議活動も行われています。1990年代初頭、イギリスのビル・ドラモンドとジミー・コーティの2人からなるハウス・ユニットKLFによる「Kファウンデーション」による攻撃や1999年にビリー・チャイルディッシュとチャールズ・トムソンが創始した国際的な芸術運動「スタッキズム(Stuckism)」などのデモや抗議活動のほか、派手なターナー賞に対抗して異なる美的価値から別の賞を行うグループもあります。
ウルフ・オリンズ社(Wolff Olins)
テートのロゴを制作したのは、製品・企業ブランディング企業、ウルフ・オリンズ社(Wolff Olins)。イギリス・ロンドンに本社があります。ウォルフ・オリンズは世界的なブランド・コンサルタント会社であり、コーポレート・アイデンティティのパイオニア。1965年にロンドンで設立され、現在も本社を置くほか、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスにもオフィスを構えています。約150人のデザイナー、戦略家、技術者、環境スペシャリスト、プログラム・マネージャーを抱え、2001年からはオムニコムグループの一員となっています。
ウルフ・オリンズ社の仕事
その他の仕事はこちらを参照ください。
ヘルツォーク&ド・ムーロン
テート・モダンの旧バンクサイド発電所の巨大な建物を再利用した設計はスイスの建築ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるもの。
ヘルツォーク&ド・ムーロン(Herzog & de Meuron、略称HdM)は、スイスのバーゼル出身のジャック・ヘルツォーク(Jacques Herzog)とピエール・ド・ムーロン(Pierre de Meuron)の2人による建築家ユニット。この2人は、スイス連邦工科大学チューリヒ校で共に建築を学び、卒業後の1978年から共同の建築設計事務所を開いて共に働いています。
2001年にはプリツカー賞を、2007年には世界文化賞建築部門を受賞。
地元バーゼル中心に活動していた1980年代から1990年代まで、彼らの初期の作品はモダニズムの還元主義的作品を思わせる、ミニマル・アートの芸術家ドナルド・ジャッドの彫刻作品のような簡素な造形でした。しかし、建物表面を無数の石で覆ったり、金属の表面に切れ目を入れてねじるなど見え方を工夫したり、ガラス面に様々な時代の写真や絵画をプリントしたりと、建築の表層の部分での試行を重ねて日々刻々異なる表情を建築や周辺一帯に与え、注目を浴びます。最も大きな脚光を浴びたプロジェクトは、ロンドンの巨大な発電所建物を美術館に改装するテート・モダン計画で、以降受賞や注文が相次いでいます。
2000年代に入ってからの東京・プラダ青山店やバルセロナ・フォーラム、ミュンヘンのサッカー場アリアンツ・アレナ、そして2008年完成の北京国家体育場(北京オリンピックメインスタジアム)では、初期のミニマルな作風から様相が一変しています。表層に対するこだわりや物質性の優先は変わっていないが、簡素な箱型の造形から、これまで中に隠れていた建物を支える柱などの構造が複雑化し外部に現れ、表層をプリズムのように一様に覆ってしまうようになった。プラダ青山店では建物表面をガラスが覆い、蜜蜂の巣のような内部構造が透けて見え、北京国家体育場では籐を編んだような複雑な柱が建物を一面に覆っていますが、表層の印象によって巨大なボリュームによる圧迫感は和らげられています。
まとめ
テートの歴史をさらっとみることでイギリスがヨーロッパにおいて美術で遅れを取るまいとした動機を国民も国も持ち、それを実行してきたことが伺えます。これの背景にはイギリスにおけるターナーの存在と関わりもあります。ターナーが現れるまで、イギリスの芸術界は他のヨーロッパ諸国に遅れを取っていました。そんななかでターナーが綺羅星の如く登場し、ヨーロッパの芸術界におけるイギリスの地位を向上させました。
このように芸術のレベルや普及ということが国力においても重要だとする意識は、思うにヨーロッパやアメリカでは強くあるように思います。
おしくも冒頭で紹介したテートの作品を紹介した展示は明日10月2日で終わります。もっと早く書けばよかったですね。これからはできるだけ展示に先駆けるように努めたいと思います。
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