《建築のデザイン》 “寝殿造”ってにゃに?
『建築のデザイン』マガジン
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寝殿造ってにゃに?
寝殿造(しんでんづくり)とは、平安時代(794-1185)に日本で生まれた建築様式で、主に宮殿や貴族の邸宅に用いられたものです(※1)。894年に遣唐使を廃止し、中国文化から距離を置き、日本の風土と美意識に合った「国風文化」(後述)と呼ばれる文化を開花させていきました。その国風文化を建築で表現したのが、この“寝殿造”です。日本建築の独自性を明確に示すとともに、その後の日本建築の特徴を決定づけるものとなりました。
寝殿造の特徴
壁が少なく扉で開閉できる開放的な構造
靴を脱いで高床式に入る下足(げそく)やすだれ
椅子やベッドを使わず畳に直接座る・寝る
屋根に陶板ではなく檜の皮を張り合わせたものを使用
柱に塗装をしない自然の風合い
寝殿造は、10世紀から11世紀にかけて最盛期を迎えますが、鎌倉時代に武家が権力を握ると、武家造が流行し、室町時代には書院造へ発展し、寝殿造は衰退していきました。
国風文化
国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つで、10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期(平安時代に藤原氏の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治)を中心とする文化であり、12世紀の院政期文化にも広く影響を与えたもの。
寝殿造の構造
寝殿造の建築様式は、大きな敷地内の中央に、主人の住む「寝殿」を置き、家族が住む「対の屋(たいのや)」を東西北の三方に配置し、その間を「渡殿(わたりどの)」や「透渡殿(すきわたどの)」という渡り廊下で結んだ形式が一般的です。寝殿の南側には池や庭園を配置。東西の「対の屋」から南へ延びる「中門廊」という廊下の先には、納涼や遊宴(ゆうえん)のための「釣殿(つりどの)」や「泉殿(いずみどの)」が設置されていました。
築地塀・門
敷地は、築地塀(ついじべい)と呼ばれる土塀(どべい:粘土質の土や泥に、石灰とフノリに加え、菜種油、水、藁などの天然素材だけで作られた伝統的な塀)で囲まれており、東西北の三方にそれぞれ「門」を作り、東西のどちらかが正門となっています。門は、家の格式を表す物だったことから、身分によって構造や規模に規制がありました。門柱の前後に控柱(ひかえばしら)を2本ずつ、左右合わせて4本立てた四脚門(よつあしもん)は、大臣以上などと定められていました。
寝殿
寝殿は、中心となる正殿(せいでん:宮殿、神社、神宮などの中心となる建物で 諸儀式が執り行われる場所。 本殿(ほんでん)ともいう)の意味で、敷地の中央に南に向けて建てられます。寝殿は、主人夫妻の居住スペースとして利用していました。なかには、夫婦それぞれの場所を確保するために寝殿を東西に分けることもありました。
対の屋
対の屋(たいのや)は、寝殿の東西に設けられた副屋で、それぞれ「東の対」や「西の対」と呼び、寝殿の北側に「北の対」を建てる場合もありました。主に、主人の子どもたちが住む部屋として使われていました。
庭園・池・釣殿・泉殿・作泉
平安時代の貴族にとって庭園(ていえん)は、娯楽のひとつでした。そのため、寝殿の南側には、庭園や池が整備され、美しい景観を楽しめる造りになっていました。ようになっていました。また、東の対と西の対から延びた中門廊(ちゅうもんろう)の先には、釣りや花見、管絃(かんげん:「かげん」ともいう。雅楽の唐楽のうち、純粋な器楽合奏の形態のもの)などを楽しむ場所として「釣殿(つりどの)」や「泉殿(いずみどの)」を設置。
釣殿は、池に臨んでつくられた建物で、周囲を吹放ち(ふきはなち:柱のみで壁のない空間)にした瀟洒なつくりで、納涼・供宴に用いられる空間です。
泉殿は、邸宅内にわき出る泉の上に設けられた建物。 四方に壁がなく、水をくむほか、観月・納涼などに用いる空間です。
この他にも、「作泉(つくりいずみ)」と呼ばれる人工泉や滝を作り、釣殿に船着き場を作って船遊びをする貴族もいたそうです。
車宿・待所
平安時代の貴族は、牛車で移動するのが一般的でした。そのため、正門を入った南側には、牛車と牛の車庫となる車宿(くるまやど)が建てられていました。
侍所
また、寝殿や対の屋から少し離れたところに、貴族に仕える家司(けいし:家政をつかさどった職)の執務室として侍所(さむらいどころ)が配置されています。
寝殿造の内側
寝殿造の建物の屋外と屋内を仕切っているのは、遣戸(やりど)と呼ばれる引き戸や、妻戸(つまど)呼ばれる両開きの扉、そして蔀(しとみ)と呼ばれる雨戸のようなものです。
遣戸
遣戸(やりど)は、鴨居(かもい)と敷居の溝に沿って開閉する引き戸の板戸。室町時代に入って書院造にも多用されました。
妻戸
出入口に設けた両開きの板製の扉。
蔀
蔀(しとみ)は、格子を取り付けた板戸。
寝殿や対の屋の内部は、床が板張りで、部屋と廊下の間は、障子や御簾(みす/ぎょれん)などを垂らして仕切っており、間仕切りはほとんどありませんでした。
壁の代わりに格子(蔀:しとみ)をはめることで、昼間は開け、夜間は閉め、開放性と(夜の)プライベートな空間形成を可能にしていました。
格子(蔀)
格子(こうし)とは、細い角材を板に組み込んで作られたもの。一枚格子と二枚格子の2種類があります。一枚格子は、部屋の内側に付けられ、外側に御簾が付きます。二枚格子は逆に、御簾が内側です。格子は、下部が取り外せるようになっており、人の出入りができるようになっています。
母屋・庇
寝殿でメインの部屋となるのが母屋(もや)です。天蓋ベッドのような帳台(ちょうだい)や厨子棚(ずしだな)が置かれた、主人のための生活空間です。
この母屋の周りに設けられたスペースを庇(ひさし)と呼びます。
塗籠
塗籠(ぬりごめ)は、母屋の東西いずれかに設置され、先祖から伝わる宝物などを収納していました。塗籠は、寝殿造の中でも神聖な空間と考えられていましたが、平安時代後期になると、そのような意識が薄れていき、普通の物置として利用されるようになりました。塗籠への出入りは、母屋側に設置された妻戸からのみとなっていました。
渡殿
渡殿(わたりどの)とは、寝殿と対の屋の間にある渡り廊下。寝殿の東西にある渡殿は、建具がなかったことから、透渡殿(すきわたりどの)と呼ばれました。
「殿」という言葉
殿様の殿。もともとは、「殿」は元来地名などに付いて、その地にある邸宅の尊称として用いられていました。転じてそこに住む人のことを表すようになりました。
平安時代の庶民の住居
寝殿造の時代の庶民が住んでいた建物は、長屋(町屋)と竪穴式住居の2種類でした。平安京に住む庶民たちは、持ち家を持っておらず、その多くが部屋を仕切った長屋に住んでいました。中は狭く、半分は土間、もう半分は床を張るという内装でした。地方の田舎では、まだ竪穴式住居で暮らしていました。竪穴式住居とは、竪穴に屋根を被せた形状の住居です。
まとめ
現存する寝殿造は、あまりありませんが、再現される平安時代の情景に、ちらちらと寝殿造を観る機会はあります。その詳細にふれることで、現代にも残る寝殿造の名残を見つけやすくなるかもしれません。それにしても、竪穴式住居って石器時代を彷彿させますが、けっこうずっと残っていたもので、地方と都では、庶民の生活でも大きく異なっていたことが、伺えいます。
参照
※1