《建築のデザイン》 “書院造”ってにゃに?
建築のデザインの話、始めます
書院造ってにゃに?
書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代(1336–1573年)から近世初頭にかけて成立した住宅の様式です。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院(しょいん:書斎を兼ねた居間)を建物の中心にした武家住宅です。そのため「武家造(ぶけづくり)」とも呼ばれています。その後の和風住宅は、現代にいたるまで書院造の強い影響を受けています。
室町時代、武士は、書院造の屋敷に住むようになります。書院造には、床の間、違棚(ちがいだな)などの座敷飾りが備わったいました。徳川家康が、京都に築いた二条城二の丸御殿は、書院造の建物として有名なもののひとつです。大名たちは豪勢な書院造の建物を築いて自分たちの権威をを示しました。
武士の台頭が書院造の始まり
平安時代(794–1192年)の後半、武士勢力の強くなっていき、公家の権威は失墜していきます。武家勢力が拡大し、長期にわたり武家の文化が発展していきました。それにともない、住宅の形式も武家様式に変化していきます。
平安時代は、公家たちが住まいは、神殿と儀式を中心とした寝殿造(しんでんづくり)が住宅形式の中心でした。平安後期から鎌倉時代になると、武家たちも住まいを寝殿造にしはじめました。しかし、武家は、儀式以上に交渉や対面を活動のメインにした生活をおくっていました。そのため接客場所がとても重要です。そのため、接客場所を中心にした住宅形式になっていきました。それが、書院造です。このようにして、室町時代から武士の屋敷が書院造になっていきました。
書院
寝殿造では、十分でなかった間仕切りが書院造では大いに発達します。書院造では、引き違い(2枚以上の戸を2本以上の溝やレールにはめ、滑らせて開閉するようになっているもの)の建具によって分けられた部屋(座敷)が連なった造りになっています。へや(座敷)には畳を敷き詰められ、部屋の床には高低差が付けられました。そして一段高い主室を上段(ときには上々段)と呼び、低い室を下段と呼びました。この高低差がそのまま階級差を表すものとなった造りです。
主室には、書院、押し板、棚、納戸構が設けられ、それらの壁には障屏画(しょうへいが)が描かれ、上段に座す高位者を荘厳に見えるようにしました。主室には必ず書院(しょいん)があります。書院とは 本来書斎の意で、畳を敷いた二畳程度の小スペースに書見(しょけん:書物を読む)ための造りつけの机を置きその正面には南に向けて明かり採りの窓「書院窓」をもうけ、そのかたわらには、書物や硯を置く棚も設けられました。のちに、この書院は、物飾りのスペースであった押し板と一体化して座敷の床の間となり、書院窓も書見という目的から離れて床の間の明かり採りとなり、付書院(つけしょいん)と呼ばれるようになります。連なる各室を仕切るのは、襖(ふすま)で、ここにもしばしば障屏画が描かれました。寝殿造では、円柱であった柱がここでは面取り角柱となり、その面取りも時代とともに小さくなっていきました。外回りでは、舞良戸(まいらど:引き違いの板戸)を用い、それと一緒に明かり障子が設けられました。連なった室の南側には、畳を敷いた廊下である入り側が設けられ、さらにその外側には濡れ縁である「落ち縁」が設けられました。安土桃山時代(1573-1603年)頃には、雨戸も発明され、半戸外であった入り側も室内空間に取り込まれるようになっていきます。寝殿造の中門廊は簡略化されて中門(ちゅうもん)となり、南庭に突き出たテラスや車寄せ、玄関へと変化していきました。
これら書院造の特徴である座敷、床の間、付書院、棚、角柱、襖、障子、雨戸、縁側、玄関は、現代和風住宅の特徴としてすべて引き継がれています。
障屏画
障壁画(しょうへきが)は、日本の建築物における壁貼付絵。
上座や下座の始まりは書院造から
今日の宴席では、床の間の位置によって「上座(かみざ)」、「下座(しもざ)」などと座席位置が決められることがありますが、これも床の間との位置関係が身分序列の確認をうながした書院造の伝統からきたものです。
武士の階級差を表した書院造
戦国時代から江戸時代にかけて、書院造は、大名(有力武士)たちが、自分たちの権威を示すために贅を凝らすようになっていきました。誰もが分かるような格式を表す様式を取り入れたことで、儀式の場へと変わっていきます。特に、江戸時代に明確な格差をあらわしました。主人の座る上段の間の隣に、2部屋も3部屋もつなげて造ることで、主人の権威を誇示しながら儀式も執り行なう様式へと変化していきました。格差を表すために、上段の間と下段の間に段差を付け、框(かまち)で仕切られるのが特徴です。その段差は、格下の段に行くにしたがって、1段ずつ下がっていきます。主人は、奥の床の間を背にして座り、また主人よりも格上の来客であれば、そこに来客が座ります。床の間がある部屋を、上段の間として使い、次の中段の間では、主人より格下の客が座ります。それよりも格下の者は下段の間からの接見となっていました。段差をもって、格差を明確にする作りになっています。床の段差による格差だけではなく、天井もまた、格差を表す様式が取り入れられていました。上段の間と下段の間に段差を作り、垂れ壁や欄間(らんま)で一線を画しています。このようにして、武家社会に確立した封建制度(国王・領主・家臣の間の主従関係に基づく統治制度)は、書院造の造りにはっきりと反映されていきました。
框
框(かまち)とは、床の高さが変わるところに横にわたす化粧材のことです。床の間の床高さを座敷より上げるときに全面に付ける水平化粧部材「床框」、玄関の上がり口に横に通した化粧材である「上がり框(玄関框)」、縁側の「縁框」などがあります。
床の間
床の間(とこのま)とは、日本の住宅のうち格式を高めた客間などに設けられる一定の空間。正しくは「床(とこ)」で、「床の間」は俗称。ハレの空間である客間の一角に造られ、床柱、床框などで構成されています。掛け軸や活けた花などを飾る場所でもあります。
垂れ壁
欄間
欄間(らんま)とは、日本の建築様式にみられる建具の一種。採光、通風、装飾といった目的のために天井と鴨居との間に設けられる開口部材を指します
鴨居
鴨居(かもい)とは、和室の襖や障子などの建具を立て込むために引き戸状開口部の上枠として取り付けられる横木。
江戸初期の書院造「二条城二の丸御殿」
江戸時代の書院造として今でも観ることができる最大の建造物は、京都にある「二条城二の丸御殿」です。二条城は、徳川家康が1603年に築城した江戸時代初期の建造物。国宝であり、かつ世界遺産でもあります。天守閣は1750年に落雷により焼失しましたが、将軍の居住エリアであった二の丸御殿は、ほぼ完全な形でいまも残っています。二条城は、あらゆる建築技法と襖絵や杉戸絵、床の間や長押の上などの張付壁に描かれた絵などの障壁画が、徳川家の権威を示す造りになっています。
現存する最古の書院造
現存する最古の書院造建築は、1485年に建てられた銀閣寺の東求堂です。江戸時代初期になると書院造は最盛期を迎え、武家の屋敷を越えて広がっていきました。 この時期の書院造は、先の二条城二の丸御殿や西本願寺の書院などにその特徴が現れています。
西本願寺の白書院は、主室に続く部屋、框、欄間、障壁画などの特徴がよく現れています。
まとめ
現代では和風住宅も減ってきていますが、それでも日本家屋のいろいろなところに室町時代に生まれたこの書院造の特徴が残っています。そればかり、日本のビジネスの世界の宴の席に重要視される上座、下座という文化も、発展した書院造の階級差を明確にした造りの名残だったりします。武家の文化が現代の住宅の設えに残っているなんて、なかなかおもしろいです。
参照
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