《建築のデザイン》 すきやばし次郎の“数寄屋”ってにゃに? 数寄屋造とは?
『建築のデザイン』マガジン
デザインがメインのnoteですが、建築系は、こちらのマガジンにまとめていきます。
日本の建築様式
日本の建築様式の歴史は、近代に入り、西洋化されるまでは、古代建築の寝殿造(しんでんづくり)から中世に入って書院造(しょいんづくり)となり、それから数寄屋造(すきやづくり)というものなっていくというのが大まかな流れになります。それぞれについては別の記事で詳しく書きました。
そして今回は、数寄屋造の話になります。
すきやばし次郎の「すきやばし」って?
世界的にも有名なすきやばし次郎という鮨屋があります。たとえば、『二郎は鮨の夢をみる(Jiro Dreams of Sush)』という映画があります。監督は、アメリカ合衆国のデヴィッド・ゲルブ氏。
他の海外のグルメ映画にもけっこう出てきていました(映画名は失念)。さて、そのすきやばし次郎の「すきやばし」って何でしょうか。ご存じの方も多いかもですが、東京の一部の地名です。「数寄屋橋」と書きます。文字通り橋の名前が由来で、この数寄屋橋という橋は、江戸時代の1629年に架けられました。
架けられた場所は、江戸城の外堀で、現在なら皇居の外堀です。現在(2022年)は、ソニービル跡地の銀座ソニーパークのある場所が数寄屋橋に相当します。なので、この場所の交差点は「数寄屋橋交差点」です。
この橋の名前は、「数寄屋」という日本の建築様式、数寄屋造(すきやづくり)から来ています。その数寄屋造とはどんなものだったのでしょうか。
数寄屋造
数寄屋造(すきやづくり)とは、数寄屋(茶室)の意匠や概念を取り入れた建築の様式です。「数寄屋」とは、茶室を意味する言葉なんです。なぜ、こんな「数寄屋」という言葉が茶室を意味するのか。もともとは、「数寄(すき)」という言葉が、「好き」の当て字でした。「好き」じゃ日本の奥ゆかしきを良しとする文化において直接的過ぎたのでしょう。そして、数寄は、「専門業とはせずに何らかの芸事に打ち込む様」を表す言葉として使われ、それが「芸道に熱心な人物」を意味する数寄者(すきしゃ・すきもの)という言葉にもなっていきました。「ものずき」の好きもこのニュアンスです。桃山時代になり、茶の湯が流行し、室町時代には連歌(れんが)という詩を指す意味にもなった「数寄」が、時代が変わると茶の湯」を意味する言葉になっていきます。そして茶室を「数寄屋」と呼ぶようになって定着しました。これが「数寄」屋が茶室を意味するようになった経緯です。
武家屋敷だった書院造
時代劇でも垣間見ることがありますが、書院造は交渉事を行う武士の生活様式を反映したものでした。人と会うための場所をもともとは書室であった書院にあて、それが人に会う場所として装飾し、なんなら格上格下を明確する造りになっていきます。結果、良く言えば豪華で荘厳な造りに、悪く言えば過美なものになっていきます。
茶道が生まれる
安土桃山時代になり、千利休により茶道が普及します。お茶を入れて振る舞うそれが質素な茶室に方丈(世界の縮図)を観る哲学になっていきます。茶の湯である茶道は、千利休によって「数寄屋」と呼ばれました。過美から反転、狭く質素ななかに洗練された美学を産み見つける文化になっていきます。この文化が書院造に反映されて、数寄屋造になっていきました。ゆえに数寄屋造は書院造に含まれるものと捉え、「数寄屋風書院」と呼ぶこともあります。
数寄屋造の特徴
数寄屋造の特徴は、書院造との違いを見ていくと明確なっていきます。
長押
長押(なげし)は、柱を水平方向につなぐものです。
長押は書院造の特徴のひとつですが、これが書院造では角のある柱だったものが角がなく、木そのものの姿がみえる単純に磨かれた丸い柱を使ったものに変わっていきいます。その他にも、素朴に見えるが洗練された多用な素材を使うのが数寄屋造です。
床(の間)が質素になる
書院造では豪華な床(の間)が数寄屋造では小さく質素な造りになり、そして自由度が高くなり、造りや素材が多用になっています。
庇(ひさし)が深くなる
庇(ひさし)とは、窓や出入口、家屋の縁側などの上に取り付けられるでっぱり部分。これが深くなると屋内はより、暗く、静謐になります。
戸袋
数寄屋造りになると新しい雨戸が考案されます。襖(ふすま)を単に重ねるだけでなく、戸袋と呼ばれる箱に入れて重ねることで、室内の採光量が倍増し、庭の景色を一望できるようになりました。現在の雨戸にも採用されているこの仕様は、数寄屋造になって考案されたものでした。
書院造は数寄屋造になって長らえた
時代が移り変わり、武士が中心の世界ではなくなっていきます。そうすると威厳を見せつける書院造の必要性は減ってついには消滅していきます。しかし、「質素ななかに洗練された思想を指し示す」数寄屋造へのニーズは消滅しませんでした。明治にはいると数寄屋造はモダニズム建築として再評価されていきます。考えてみると、自然素材を尊重し、静かに心落ち着く空間を住居に取り入れる……現代においても望むべき思想です。実際、1934年に建築家の吉田五十八氏は、現代の材料を用いて数寄屋造りの設計をすることを奨励しています。吉田五十八氏は、木の自然な特徴を示すことが重要であるが、目を引くようなものを使うのは間違いであり、それは様式の精神に反すると述べています(※1)。
現代に残る数寄屋造
現代でも、数寄屋造の特徴が見て取れる建物がいくつかります。
桂離宮(京都)
桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設で江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設されたものです。
修学院離宮
修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は、京都市左京区修学院の比叡山麓にある皇室関連施設。17世紀中頃に後水尾上皇の指示で造営された離宮です。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物から構成されています。
まとめ
数寄屋造とは、室町時代から始まった書院造の様式を踏襲しながらも、より自然に寄り添い、その分質素になりながらも、自然そのままではなく、如何に洗練させるか、という茶道で発展した思想を反映した日本の建築様式です。ゆえに、現代でもこの建築様式は生きています。自由度が増えるものの、それでも自然に寄り添い、自然を感じることができる住まいの追求が、数寄屋造の中にはあります。雨の音、木や土の気配、温度、光と影。諸行無常の陰と命の光を同時に感じる空間。それが数寄屋造の哲学であり、目指すものです。
参照
※1
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