
《週末アート》 エロい&暗い スペインの画家、フランシスコ・ゴヤ
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スペインのロマン主義の画家、フランシスコ・ゴヤ

By Vicent López Portaña - Museo Nacional del Prado, Galería online, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17628217
フランシスコ・ゴヤ(Francisco Goya, 1746-1828)は、スペイン出身のロマン主義の画家・版画家。
1746年 ゴヤ氏はアラゴンのフエンデトドスで中流階級の家庭に生まれました。
1760年 14歳からホセ・ルサン・イ・マルティネス(José Luzán)に絵画を学び、マドリードに移ってアントン・ラファエル・メングス(Anton Raphael Mengs)に師事する。
1773年(27歳) ホセファ・バユー氏と結婚。二人の生活は妊娠と流産の繰り返しで、成人まで生き延びた子供は一人の息子だけでした。ゴヤ氏は1786年(40歳)にスペイン王室の宮廷画家となり、そのキャリアの初期には、スペインの貴族や王族の肖像画や、王宮のためにデザインしたロココ調のタペストリー漫画が特徴的です。
1793年(47歳)のとき、大病を患い、耳が聞こえなくなり、その後、彼の作品は次第に暗く悲観的なものとなっていきました。その後のイーゼル画や壁画、版画、素描は、個人的、社会的、政治的なレベルで暗い見通しを反映しているように見え、彼の社会的上昇とは対照的です。
1795年(49歳) スペイン第一書記、マヌエル・ゴドイ(Manuel Godoy)がフランスと不利な条約を結んだ年に王立アカデミーの院長に任命されました。
1799年(53歳) ゴヤ氏はスペイン宮廷画家の最高位であるプリメール・ピントール・デ・カマラ(宮廷画家の第一人者)となりました。1790年代後半、ゴドイ氏に依頼され、当時としては極めて大胆な裸婦像であり、明らかにバロック時代のスペイン・ポルトガル王フィリップ4世の宮廷画家、ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)の影響を受けている『裸のマハ(La maja desnuda)』を完成させます。1800年から01年にかけては、同じくベラスケスの影響を受けた『スペイン王カルロス4世とその家族』を描いています。

ディエゴ・ベラスケス - http://www.wga.hu/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38008による

By Diego Velázquez - The Prado in Google Earth: Home - 7th level of zoom, JPEG compression quality: Photoshop 8., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22600614
1807年(61歳) ナポレオンがフランス軍を率いてスペインとの半島戦争に突入。ゴヤ氏もこの戦争から大きな影響を受けます。
『マドリード、1808年5月3日』(El tres de mayo de 1808 en Madrid)

フランシスコ・デ・ゴヤ - The Prado in Google Earth: Home - 7th level of zoom, JPEG compression quality: Photoshop 8., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22615690による
『マドリード、1808年5月3日』は、ゴヤ氏が1814年(68歳)のときに描いた作品で2つの連作のうちの1つです。『プリンシペ・ピオの丘での虐殺』(Los fusilamientos de la montaña del Príncipe Pío)という名でも知られています。
この作品は、連作のうちのもうひとつ『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』 (El dos de mayo de 1808 en Madrid) の後、1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけてマドリード市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって400人以上の逮捕された反乱者たちが銃殺刑に処された場面を描いたものです。背後の暗闇に王宮が浮び上がる中で、明るく照らされた一人の男に処刑隊の銃弾が向けられた瞬間が描かれています。両手を大きく広げた白い服の男性の右手には殉教者の証である聖痕が見えmす。処刑を命じられたフランス兵は、誰一人として市民を直視することができず、全員が目を伏せています。ゴヤ氏がこの絵を描けたのは、数年後、スペイン国王が玉座にもどってからのことでした。

By Francisco de Goya - Museo del Prado, Madrid, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6342190
1819年(73歳)から1823年(77歳)にかけての「黒い絵」(Black Paintings)は、自宅の漆喰壁に油彩で描かれたもので、このときゴヤ氏は、スペインの政治や社会の動きに幻滅し、ほぼ孤立した状態で暮らしていました。1824年(78歳)、ゴヤはスペインを離れ、フランスのボルドーに移り住みました。そこには、年下のメイドで恋人のレオカディア・ワイスがいました。そこで彼は『ラ・タウロマキア』シリーズやその他多くの大作を完成させました。
脳卒中で右半身不随となり、視力も衰え、画材も手に入らず、1828年4月16日に82歳で亡くなり、埋葬されました。その後、遺体はマドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ本葬場に再び埋葬されます。

By Francisco de Goya - National Gallery of Art., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24008671
初めて“実在の女性の”陰毛も描かれた裸婦画

フランシスコ・デ・ゴヤ - The Nude Maja. On-line gallery. プラド美術館 (2012)., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26923による
97×190cm。1797年(51歳)から1800年(54歳)の間に描かれました。後にゴヤは、多少ポーズを変えて衣服を着せた『着衣のマハ』も描いています。『着衣のマハ』に比べると裸婦画は繊細な光や色彩の表現が特徴的。

フランシスコ・デ・ゴヤ - La maja vestida. On-line gallery. プラド美術館., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26924による
西洋美術で、初めて実在の女性の陰毛を描いた作品といわれています。そのため、当時のカソリックの支配力が強いスペインではわいせつであるということで問題になりました。ゴヤ氏は、何度か裁判所で「この絵が誰の依頼によって描かれたか」を明らかにするように求められましたが、答えませんでした。しかし『裸のマハ』『着衣のマハ』の2点ともに、首相であったマヌエル・デ・ゴドイ氏の邸宅から見つかっています。裁判の後、絵は100年弱の間、プラド美術館の地下にしまわれていましたが、1901年になって公開されました。
『カルロス4世の家族』

フランシスコ・デ・ゴヤ - Museo del Prado, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4351389による
280 cm × 336 cm。1789年(43歳)以来、ゴヤ氏はカルロス4世の宮廷画家でした。その地位にあったため、またそれ以前にも国王の肖像画を描く機会がしばしばありましたたが、それまでは常に王を単独で描いており、集団の中のひとりとして描くことはありませんでした。1800年(54歳)の春、ゴヤ氏は王室の全員を収めた大きな肖像画を制作するよう命じられました。1800年5月、王室がアランフエス宮殿でひとシーズンを過ごしているあいだ、ゴヤはこの作品に着手しました。5月から7月に、彼は王室メンバー各人の自然な姿を捉えた肖像画を描いていきました。王妃の求めにより、画家は彼らを一人ひとり別々に描いたので、長く退屈な時間をかけて全員が一緒にポーズをとることはなくて済んでいます。
この絵は、かつてヴァン・ローが描いた『フェリペ5世の家族』(縦4メートル、横5メートルを超える大きさ)のような、もっと大きな画面の作品を期待していた王室一家には、受けがよくなかったと言われています(※1)。

ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー - http://www.museodelprado.es/imagen/alta_resolucion/P02283.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11857075による
しかし、評価が低かったということではありませんでした。カルロス4世はこの作品を「みんな一緒の (de todos juntos)」肖像画と上品に呼んでいました。ゴヤ氏が誠実に本質を捉えて描いた多くの人物と同様に、生き生きとした容貌と、威厳があり華やかな雰囲気は、他の画家にはなかなか描けないものでした。実際、彼の肖像画を同時代の他の画家たちの作品と比較すると、ゴヤ氏が彼らを著しく好意的に描きいていることがわかります。風刺ではないか、という捉え方もありますが、どうもそういうわけでもなさそうです。
黒い絵(Black Paintings)
『黒い絵』は、フランシスコ・ゴヤ氏が、おそらく1819年から1823年にかけて描いた14点の絵画群に付けられた名前です。これらの作品は、ゴヤの狂気への恐れと荒涼とした人間観が反映された、強烈で心を奪うようなテーマを描いています。1819年(72歳)になったゴヤ氏は、マドリード郊外の「キンタ・デル・ソルド(聾唖者の別荘)」と呼ばれる2階建ての家に引っ越しました。前の所有者がろう者だったことから名付けられていましたが、ゴヤも46歳のときに患った原因不明の病気で、当時はほとんど耳が聞こえなくなっていました。絵画はもともと家の壁に壁画として描かれていましたが、後に所有者のフレデリック・エミール・デルランジェ男爵によって壁を「切り離し」、キャンバスに貼り付けられました。
この絵は依頼されたものではなく、また自宅から出る予定もありませんでした。ゴヤ氏はこの作品を一般に公開するつもりはなかったようです。
“黒い絵”の一つ『我が子を食らうサトゥルヌス』

By Francisco de Goya - [1], Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4221233
ローマ神話に登場するサトゥルヌス(ギリシア神話のクロノスに相当)が将来、自分の子に殺されるという予言を恐れて、5人の子を次々に呑み込んでいったという伝承をモチーフにしています。自己の破滅に対する恐怖から狂気に取り憑かれ、伝承のように丸呑みするのではなく自分の子を頭からかじり、食い殺す凶行に及ぶ様子がリアリティをもって描かれています。
この絵は後世に修正(黒く塗りつぶされた)されており、オリジナルではサトゥルヌスの陰茎が勃起していました。
本作より以前には17世紀にオランダの画家ルーベンスが同じ伝承をモチーフとする『我が子を食らうサトゥルヌス』を描いています。

ピーテル・パウル・ルーベンス - http://www.museodelprado.es/coleccion/galeria-on-line/galeria-on-line/obra/saturno-devorando-a-un-hijo-1/, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1723595による
まとめ
書きそびれたんですが、ゴヤ氏は宮廷画家として安定した日々を送っていたところにナポレオン・ボナパルトによるスペイン侵略以降、しっちゃかめっちゃかなってしまいます。結果、宮廷画家から反体制的な意志を反映した画家になっていきます。しかしナポレオンの侵略の結果、異端審問などを廃止し、憲法を制定するなど、スペインの政治は好転していきます。しかしナポレオンの失脚後、スペインの王政が復活し、政治が悪化し、ゴヤ自身もフランシス7世によって弾圧されてしいます。その結果、フランスのボルドーに亡命しています。この怒涛の変化によって、ゴヤ氏は自分が仕えていたものへの信頼もなくし、何を拠り所にすべきかわからなくなり、引きこもっていきました。
フランシスコ・ゴヤ、彼はスペインの画家として有名でありながら、晩年近くでナポレオンやスペインの政治に翻弄され、誰に見せるつもりもない暗い部分を黒い絵として描きました。光と影、ナポレオンによるヨーロッパの変革、初のヘアヌード……。人としてもとても興味深い存在です。
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