「バウハウス」ってにゃに?
ビジネスに使えるデザインの話
ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。毎日午前7時に更新しています。
今回のバウハウスは、グラフィックデザインの歴史(100年くらい)においては重要な時代であり、存在なので、デザイナーではない方もちょっと知っておくとブランディングに使える知識になることでしょう。
バウハウスとはにゃにか?
バウハウス(Bauhaus)は、1919年から1933年まで運営されたドイツの芸術学校。工芸と美術を組み合わせを試みた学校です。バウハウスは、大量生産の原則を個人の芸術的ビジョンと統一しようとし、美学と日常の機能を組み合わせることを目指すというデザインへのアプローチを取っていました。このアプローチは、イギリスから始まった、産業革命の結果、広まった品質の低い大量生産に対しての技工による美しさを日常に復活させようとしたアーツ・アンド・クラフツ運(1850〜1914年)の流れを汲んだものとして捉えることができます。
バウハウスの時代
バウハウスが設立された1919年は、第一次世界大戦(1914–1918)終了の翌年です。この大戦によって、4つの帝国が崩壊しました。そのうちの一つが、ドイツ帝国でした(あとの3つは、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)。帝国崩壊後は、ワイマール共和国となります。ちなみにワイマール(Weimar)の場所はここ。
その後、1933年になり、ナチス・ドイツが成立します。ゆえにバウハウスは、ほぼワイマール共和国と歴史をともにしているといえます。
バウハウスの設立
バウハウスは、建築家、ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)によってワイマールに1919年に設立されました。この学校は、あらゆる芸術が集約された「総合芸術」を創造することを理念としていました。バウハウス様式は後に、アート、建築、グラフィックデザイン、インテリアデザイン、工業デザイン、タイポグラフィーにおける発展に大きな影響を与えるものとなりました。
バウハウス様式
バウハウス様式は、凝った装飾をせず、長方形や球体などの単純な幾何学的形状を特徴とする傾向があります。建物や家具、フォントなどは角が丸く、時には壁も丸みを帯びているといった特徴があります。
バウハウスとドイツのモダニズム
第一次世界大戦に敗れ、ワイマール共和国が成立すると、ドイツにおいて自由主義精神が復活し、旧体制下で抑圧されていた芸術全般の先鋭的な実験が盛んに行われるようになりました。バウハウスを設立したグロピウス氏は、ロシア革命後の構成主義などの急進的な思想には共感せず、バウハウスは完全に非政治的であると述べて、政治とは距離を置いていました。また、19世紀のイギリスのデザイナー、ウィリアム・モリス(1834-1896)の「形と機能の間に区別があってはならない」と主張も汲み、インターナショナルスタイルとしても知られるバウハウス様式には、装飾がなく、物や建物の機能とそのデザインの調和という特徴が見られます。
インターナショナルスタイル
インターナショナルスタイルは、1920年代から1930年代にかけて発展した主要な建築様式で、モダニズムや近代主義建築と密接な関係があります。1932年に近代美術館の学芸員であるヘンリー=ラッセル・ヒッチコックとフィリップ・ジョンソンが、1920年代の建築作品をもとに定義したのが最初。合理主義建築や近代運動という言葉は、しばしばインターナショナルスタイルを意味する言葉として用いられます。
バウハウスに最も大きな影響を与えたのは、1880年代から始まったモダニズムでした。モダニズムの思想は、第一次世界大戦前のドイツですで静かにひろまっており、バウハウスが提唱してきた、極端に単純化された形態、合理性と機能性、大量生産と個人の芸術的精神の両立といったデザインの革新は、バウハウス設立以前からドイツの一部で浸透し始めていました。
モダニズム
モダニズム(Modernism)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての西洋社会の大きな変革から生まれた哲学的・芸術的運動です。この運動は、都市化、新技術、戦争など、新しく出現した産業世界を反映した、芸術、哲学、社会組織の新しい形態の創造への願望を反映したものであった。芸術家たちは、時代遅れとされる伝統的な芸術の形式から脱却しようとしていました。1934年に詩人エズラ・パウンド(Ezra Pound)が発した「Make it New(新しくする)」という言葉は、この運動の試金石となりました。
バウハウスとロシアのヴフテマス
ヴフテマス(Vkhutemas:国立高等美術工芸工房の略称)は、1920年から1930年の間にモスクワで設立された芸術工芸学校です。ブフテマスは、バウハウスの1年後に設立され、その意図、組織、範囲において、バウハウスととても似ています。両校とも伝統工芸と近代技術の融合を目指した国家主導の取り組みでした。ブフテマスはバウハウスよりも大規模な学校でしたが、ソ連国外ではあまり宣伝されず、西側ではあまり馴染みがありません。
イスラエルにあるバウハウス財団
イスラエルのテルアビブには、バウハウス財団があり、財団が運営するバウハウスミュージアムがあります。所有者は、アメリカの大富豪で実業家、美術品収集家、慈善家であるロナルド・ローダー(Ronald Lauder)。
バウハウスの短い歴史
ワイマール時代(1919–1925年)
バウハウス設立にともないグロピウスは、画家のライオネル・ファイニンガーや、すでにウィーンで美術教育に携わっていたヨハネス・イッテンなどを教員として招集します。初期の教育内容には、表現主義的要素が強くありましたが、次第に合理性・機能性を重視した内容へ転換していきます。その中で、グロピウスは1923年に「芸術と技術 —新しい統一」というテーマを掲げ、バウハウスの教育方針がより明確化していきます。一方で、ワイマール共和国の不安定な政情や、バウハウスに不満を持つ右翼政党などからの攻撃により、共和国内での反バウハウスな動きが強くなっていきました。それにより、1925年にワイマールのバウハウスは解散してしまいます。
デッサウ時代 (1925–1932年)
ワイマールを追われたバウハウスは、ワイマールの北東に位置するデッサウ市が受け入れを決定してくれたため、1925年にデッサウで市立学校として再開します。翌1926年にはグロピウスの設計による新校舎が完成。教育方針もより明確化され、各工房での実験や研究開発も盛んになり、バウハウスは全盛期を迎えます。1925年以降、バウハウスにおける芸術・デザインの革新的な理論を、各号それぞれの教員がまとめた『バウハウス叢書(そうしょ)』全14巻を刊行しました。1928年にはグロピウスに代わって、ハンネス・マイヤーが学長に就任。機能性・経済性を徹底したマイヤーの方針により、バウハウスは国際的にも評価が高まりました。しかし、徹底した方針から政治色を強めたマイヤーは、1930年に解任されることになり、後任にはミース・ファン・デル・ローエが就任します。ミース就任後はナチスが大きく権力を強めた時代であり、ナチスから敵視されていたバウハウスは1932年、デッサウでの存続が出来なくなり、1933年に閉校します。
バウハウス関連の人物たち
ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)
ドイツ系アメリカ人の建築家でバウハウスの創設者。アルヴァ・アアルト、ルードヴィヒ・ミース・ファンデルローエ、ル・コルビジェ、フランク・ロイドライトとともに、近代建築の先駆者の一人として広く知られています。
オスカー・シュレンマー(Oskar Schlemmer)
ドイツの画家、彫刻家、デザイナー、バウハウス派に関わる振付家。
ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer)
スイス・バーゼル出身の建築家、都市計画家、建築についての教育者。
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)
「近代建築の三大巨匠」のひとり。(あと二人は、フランク・ロイド・ライトとル・コルビュジエ)“Less is more.”(より少ないことは、より豊かなこと)や“God is in the detail”(神は細部に宿る)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献した建築家。
パウル・クレー(Paul Klee)
20世紀のスイスの画家、美術理論家。ワシリー・カンディンスキーらとともに「青騎士 (ブラウエ・ライター)」を結成し、バウハウスで教鞭をとっていました。その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものでした。
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)
ロシア出身の画家であり、美術理論家。抽象絵画の創始者。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得しています。
「バウハウス」という書体
バウハウス書体のデザインは、ヘルベルト・バイエル(Herbert Bayer)が、1925年に発表した実験的な書体。バウハウスの思想を反映したデザインです。
まとめ
アーツ・アンド・クラフツの流れをくみ、モダニズムと近い思想であり、合理的、幾何学的、シンプルで機能的なデザインと思想を世に送り出したが、バウハウス。インターナショナルスタイルとも呼ばれています。のちにスイスデザインにも大きく影響を及ぼしていきます。みんな大好きな書体、Futuraもバウハウスの影響を受けた書体です。