『ジョジョ』にも『スパイファミリー』にも出てくる画家、ピート・モンドリアンの本質
「週末アート」マガジン
週末なのでアートの話。今回は、ちょいちょい日本のアニメでオマージュされるピート・モンドリアンという抽象画の画家を紹介します。
漫画『ジョジョ』とピート・モンドリアン
2018年に開催された『ジョジョ展』にて販売されたオリジナルグッズのひとつがスマホケースで、このデザインにピート・モンドリアンの『コンポジション』がモチーフに使われています。
アニメ『スパイファミリー』とピート・モンドリアン
現在(2022年6月)、放映中のアニメ『スパイファミリー』のエンディングにも、モンドリアンの『コンポジション』がモチーフに使われています。
さて、ピート・モンドリアンとはどんなアーティストなのか?また『コンポジション』とそれ以外にどんな作品を作成していたのか、見ていきましょう。
ピート・モンドリアン
ピート・モンドリアン(Piet Mondrian)(1872年3月7日 - 1944年2月1日)は、19世紀末から20世紀のオランダ出身の画家、芸術理論家。具象画から抽象画へと芸術の方向性を変え、単純な幾何学的要素に集約されるに至り、ワシリー・カンディンスキー、カジミール・マレーヴィチらと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされています。
モンドリアン氏の作品は、非常にユートピア的であり、普遍的な価値と美学を探求したものでした。モンドリアン氏は、1914年にこう宣言しています。
しかし、同時に彼の芸術は常に自然に根ざしたものでもありました。
テオ・ファン・ドエスブルク(Theo van Doesburg)と共同で設立した「デ・ステイル(the De Stijl)芸術運動(雑誌も創刊)に参加し、非具象画を発展させ、ネオプラスティシズム(Neoplasticism)と名付けています。これは、彼が「普遍的な美」を創造するために必要だと考えた新しい「純粋造形芸術」でしたた。この「普遍的な美」を表現するために、モンドリアンは最終的に3原色(赤、青、黄)、3原色値(色の明るさ)で黒、白、灰)、2原方向(水平、垂直)に形式語彙を限定していきます。1911年、オランダからパリに到着したモンドリアンは、大きな変化の時を迎えます。彼はキュビスムの実験に出会い、パリの前衛芸術の中に身を置くことを意図して、自分の名前(Mondriaan)のオランダ語の綴りから「a」を取り除き、Mondrianとしました。
モンドリアン氏の作品は、20世紀美術の多大な影響を与えました。その影響は、抽象絵画や、カラーフィールドペインティング、抽象表現主義、ミニマリズムなどなど多くのスタイル、芸術運動、デザイン、建築、ファッションにまで及びました。デザイン史家のスティーブン・ベイリー(Stephen Bayley)氏は次のように述べています。「モンドリアンは、モダニズムを意味するようになった。彼の名前と作品は、ハイ・モダニズムの理想を集約している。私は “象徴的(iconic) ”という言葉が好きではないので、彼はモダニズムが目指したものすべてのトーテム(totemic)になった、と言っておこう」。
イヴ・サンローランとモンドリアン
「モンドリアン・ドレス」、「モンドリアン・ルック」は、イヴ・サンローランが、1965年に発表したミニドレス(モンドリアン氏はすでに1944年に死去している)。モンドリアンの『コンポジション』に着想を得てデザインされています。モンドリアン氏は普遍的な美を求めて、形態の単純化して、この表現に到達しましたが、サンローラン氏は、極限まで装飾的な要素をそぎ落とすことで、絵画の造形原理を衣服に移そうとしました。
来歴と作品
オランダ時代(1872–1911)
モンドリアン氏は、オランダのユトレヒト州アメルスフォールトで両親の2番目の子供として1872年に生まれました。
プロテスタントの厳格な教育を受けて育ったモンドリアン氏は、1892年(20歳)にアムステルダムの美術アカデミーに入学し、教師の資格を得ます。初等教育の教師としてキャリアをスタートしましたが、同時期から絵画も描き始めています。この時期のモンドリアン氏の作品は、自然主義的、印象主義的なものが多く、主に風景画で構成されています。風車や田園、川など、故郷の牧歌的な風景を、最初はハーグ派のオランダ印象派の手法で、その後、さまざまなスタイルや技法で描き、自分なりのスタイルを模索していたことがうかがえます。これらの絵画は、具象画であり、点描画やフォーヴィスムの鮮やかな色彩など、さまざまな芸術運動からの影響が伺えます。
モンドリアン氏は、1905年から1908年にかけて、水面に映る樹木や家屋がはっきりしない薄暗い光景を描いた一連のキャンバスで、抽象性を示す初期の絵画を制作しています。しかしこれらの絵画は依然として自然にしっかりと根ざしており、モンドリアン氏の後の業績を知っているからこそ、この作品に将来の抽象化の根源を探ることができます。
モンドリアン氏の作品は、彼の精神的、哲学的研究と密接に関係していました。1908年、ヘレナ・ブラヴァツキーが19世紀末に起こした神智学運動に関心を持ち、1909年には神智学協会のオランダ支部に入会した。ブラヴァツキーは、経験的な方法よりももっと深い自然についての知識を得ることができると信じており、モンドリアンの生涯の作品の多くは、その精神的な知識の探求に触発されたものででした。1918年(46歳)、彼はブラヴァツキーの著書を引用して「私はすべてを『秘密の教典(the Secret Doctrine)』から得た」と書いています。1921年(49歳)、モンドリアン氏は、シュタイナーへの手紙の中で、彼の新古典主義が「すべての真の人智学と神智学の信者のための予見可能な未来の芸術」であると主張しました。彼はその後も熱心な神智学者であり続けましたが、自身の芸術の流れである新形態主義が普遍的な霊性の一部となるとも考えていました。
モンドリアン氏は、1911年にアムステルダムで開催されたキュビスムのモデルネ・クンストクリング展に深い影響を受けました。彼の単純化の探求は、『ジンジャーポットのある静物』の2つのバージョンにみることができます。1911年のバージョンはキュビスムであり、1912年のバージョンでは、オブジェクトは三角形と長方形で丸い形に還元されています。
パリ時代(1911-1914)
1911年、モンドリアン氏は、パリに移住し、オランダからの出発とパリの前衛芸術の中での統合を強調するために「モンドリアン」から「a」を落として名前を変えました(前述)。パリ滞在中、パブロ・ピカソ氏とジョルジュ・ブラック氏のキュビスムにモンドリアン氏はすぐに影響を受けます。『海(The Sea)』(1912年)や、この年に描かれた樹木の様々な習作は、まだある程度の表現を含んでいるもの、ますます幾何学的な形と連動する平面に支配されるようになっていきました。モンドリアン氏は、キュビズムの影響を自分の作品に取り入れることに夢中になるものの、キュビズムを目的地としてではなく、芸術の旅の「寄港地」として捉えていたようです。
オランダ時代(2)(1914–1918)
1913年(41歳)、モンドリアン氏は、芸術と神智学(いまさらですが、「しんちがく」とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神と結びついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするもの)の研究を融合させた理論に着手し、具象絵画から決別していきます。1914年(42歳)、オランダを訪れていたモンドリアン氏は、第一次世界大戦が始まり、その間、オランダに留まらざるを得なくなります。この間、彼はラレンの芸術家コロニーに滞在し、そこでバート・ヴァン・デル・レックやテオ・ファン・ドースブルクと出会います。ヴァン・デア・レックは、原色のみを用いた作品を発表し、モンドリアンに大きな影響を与えました。
1916年にヴァン・デル・レック氏と会った後、モンドリアン氏は「多かれ少なかれキュビズムであり、したがって多かれ少なかれ絵画的だった私の手法は、彼の正確な手法の影響を受けるようになった」と書いています。ヴァン・ドエスブルクとともに「デ・ステイル」グループの雑誌『デ・ステイル(スタイル)』を設立し、新植物と呼ぶ自説を定義した小論を初めて掲載しました。
1917年から1918年にかけて、『絵画における新しい造形』(De Nieuwe Beelding in de schilderkunst)を12回に分けて出版します。これは、モンドリアン氏の芸術理論を文章で表現する最初の大きな試みでした。しかし、モンドリアン氏のこの理論の最も優れた表現は、1914年にH. P. ブレマーに書いた手紙です。
その後20年間、モンドリアンは、古典的、プラトン的、ユークリッド的な世界観を取り入れながら、今では象徴的な、原色で満たされた正方形や長方形を形作る水平と垂直の黒い線にただ集中する、彼特有のスタイルを体系的に発展させていきました。
パリ時代(2)(1918-1938)
1918年(46歳)に第一次世界大戦が終わると、モンドリアン氏はフランスに戻り、1938年(66歳)まで20年間留まりました。戦後のパリで芸術的革新の文化に浸ったモンドリアン氏は、純粋抽象画の作品を発展させていきました。モンドリアン氏は、1919年末(47歳)からグリッド・ベースの絵画を制作し始め、1920年(48歳)には彼の名を世に知らしめることになるスタイルが出現し始めました。
初期の作品では、長方形の形態を区切る線は比較的細く、黒ではなく灰色でした。また、線は、絵の端に近づくにつれて細くなり、突然止まることはないものでした。形そのものは、後の作品よりも小さく、数も多く、原色、黒、灰色で塗りつぶされ、ほとんどすべての形に色がつけられ、ごく一部が白く残されています。
1920年後半から1921年にかけて、モンドリアンの絵画は、決定的に成熟した形態に到達していきます。黒い太い線で区切られた形は、より大きく、より少なくなり、より多くの形が白く残されるようになりました。しかし、さらにモンドリアン氏の表現はパリ滞在中も進化を続けていきました。1921年の作品では、その多くの黒い線がキャンバスの端から任意の距離で止まっていますが、長方形の形の間の区分けはそのまま残っていました。長方形の中の多くは彩色されていました。しかし徐々にモンドリアン氏は、はすべての線をキャンバスの端まで伸ばすようになり、色のついた形はどんどん少なくなり、代わりに白が好まれるようになっていきました。こうした傾向は、1920年代半ばからモンドリアン氏が定期的に制作するようになった『ロゼンジ(lozenge)』に特に顕著に表れています。「ロゼンジ」とは、正方形のキャンバスを45度傾けて菱形にした絵画です。その代表的な作品が『Schilderij No.1: Lozenge With Two Lines and Blue』(1926年)。モンドリアンのキャンバスの中で最もミニマルな作品のひとつで、2本の黒い垂直線と小さな青い三角形の形だけで構成されています。線はキャンバスの端まで伸びており、あたかも大きな作品の断片であるかのような印象を与えています。
美術館においてガラスに覆われていたり、経年によって傷んだキャンバスによって、見づらいところがあるものの、この作品をよく観察すると、モンドリアン氏の手法が見えてきます。この『ロゼンジ』は、完全に平らな色面だけで構成されているわけではなく、微妙な筆致が随所に見られます。黒い線はもっとも平坦で奥行きはないのですが、彩色されたとろには、目に見えるブラシストロークがあり、それがすべてが一方向に走っています。もっとも興味深いのは、白い部分のところにある異なる方向に走るブラシストロークが何層にも重ねて塗られているところです。そのため、白いフォルムの奥行き感が増し、線や色を圧倒しているように見えます。
1926年(54歳)、マルセル・デュシャン、マン・レイとともにニューヨークの独立芸術家協会を設立したアメリカ合衆国のアーティスト、キャサリン・ドライヤー(Katherine Dreier)は、パリのモンドリアン氏のスタジオを訪れ、彼のダイヤモンドコンポジション『絵画I(Painting I)』を手に入れました。彼女はカタログの中で、
と述べています(※1)。
時代が進むにつれて、モンドリアンの絵画は形よりも線が優先されるようになっていきます。1930年代には、より細い線や二重線を頻繁に使うようになり、たとえあったとしても、いくつかの小さな彩色された形態で中断されるようになりました。二重線は、特にモンドリアンを興奮させ、絵画に新たなダイナミズムを与えると考えたからである。彼の作品における二重線の導入は、彼の友人であり同時代のマーロウ・モスの作品に影響されたものだと考えられています。
ロンドンおよびニューヨーク時代(1938-1944)
1938年9月(66歳)、モンドリアン氏は、パリで(第二次世界大戦直前の)ファシズムの侵攻に見舞われたため、ロンドンに移住しました。1940年(68歳)にナチス・ドイツによりオランダが侵攻され、パリが陥落すると、ロンドンからニューヨークのマンハッタンに移り、死ぬまでここに留まることになりました。モンドリアン氏の後期の作品には、パリやロンドンで制作を始め、数ヶ月から数年後にマンハッタンで完成させたキャンバスがかなりあります。この時期の完成作品は、1920年代以降のどの作品よりも線が多く、視覚的に忙しく、まるで地図上のような配置で重なり合って配置されています。手がふやけて、泣いたり、具合が悪くなったりするほど長い時間、一人で絵を描き続けたそうです。
モンドリアン氏は、『黄色い4本の線のある菱形のコンポジション』(1933年)を制作しましたが、これは黒い線ではなく、色のついた太い線を革新的に使ったシンプルな絵画でした。
この一枚の絵の後、この手法は表立って現れていませんでしたが、マンハッタンに到着すると、彼はこの手法を大胆に取り入れるようになりました。『コンポジション』(1938)、『コンコルド広場』(1943)など、この新しい方向性を示すいくつかの作品では、パリから未完成の黒線画を持ち帰り、ニューヨークで、長い黒線の間や黒線からキャンバスの端まで走る、異なる色の短い垂直線を加えて完成させています。
1940年9月23日(68歳)、モンドリアン氏は、リバプールを出発したキュナード・ホワイトスターラインの船RMSサマリア号(1920)でヨーロッパからニューヨークへ向かいました。
マンハッタン近代美術館(MoMA)にあるモンドリアン氏の絵画『ブロードウェイ・ブギウギ』(1942-43)は、抽象幾何学絵画の一派に大きな影響を与えました。この作品は、キャンバスから飛び出した明るい色の四角形がいくつも揺らいで見え、見る者をそのネオンの光の中に引き込んでいきます。この絵と未完成の『ヴィクトリー・ブギウギ』(1942-1944)でモンドリアン氏は、かつての実線を、さまざまな色の紙テープの小片を一部使って作った、隣り合う小さな色の長方形から作られる線に置き換えています。
境界のない色の四角は、その中に小さな四角形を含み、デザインを際立たせています。1920年代から30年代にかけてのモンドリアン氏の作品には、科学的ともいえる緊迫感が漂っていましたが、これらの作品は、作品のインスピレーションとなった、陽気な音楽や制作された都市を反映し、明るく生き生きとしています。これらの作品では、形が線の役割を奪い、モンドリアン氏の抽象表現において新たな扉を開いたことが伺えます。ブギウギの絵画には、明らかに進化というより革命的な変化があり、1913年に具象美術を放棄して以来、モンドリアン氏の作品において最も深い発展を遂げたことを表しています。
ウォール・ワークス
1919年、47歳のモンドリアン氏は、オランダから自由なパリへ2度目にして最後の旅に出ると、2年前から描いていた新形態主義の原則をますます表現するために、自分のスタジオ環境を改善することに着手しました。スタジオの構造的な欠陥をすばやくそして安価に隠すために、彼は大きな長方形のプラカードをそれぞれ単色か中間色で覆っていきました。それから小さな色紙の正方形や長方形を組み合わせて、壁にアクセントをつけていきます。そうした環境の中で、ペインティングに没頭する日々が始まりました。モンドリアン氏は再び壁に向かい、色のついた切り絵を再配置し、その数を増やし、色と空間の力学を変化させ、新たな緊張と均衡を作り出していきました。やがて、絵を描く期間と、壁に貼った小さな紙を実験的に並べ替える期間を交互に繰り返す創作スケジュールが確立され、そのプロセスが次の絵画の期間に直接反映されるようになっていきました。戦時中の1938年と1940年には、パリからロンドンのハムステッドに移り、大西洋を渡ってマンハッタンに移っても、このパターンを生涯続けました。
1943年秋、71歳になったモンドリアン氏は、マンハッタンで2番目かつ最後のスタジオとなる東59丁目15番地に引っ越し、長年かけて学んだ、彼の慎ましい生き方にもっとも適合し、彼の芸術に最も刺激を与える環境を再現することに取り掛かりました。高い壁には、イーゼルに使ったのと同じオフホワイトを塗り、廃棄されたオレンジやリンゴの木箱をつかって、椅子やテーブル、収納ケースを丁寧に自ら作って使いました。白い金属製のスツールの天板は、鮮やかな原色の赤で光沢をつけました。この最後のスタジオを訪れた人々は、キャンバスは1、2枚しかないのですが、モンドリアン氏が、壁に貼り付け、貼り直した色紙でできた8枚の大きなコンポジションが、常に変化しており、それが、運動と静寂、刺激と安らぎが逆説的かつ同時に存在する環境を構成していることに驚きました。モンドリアン氏は、「自分が住んだ中で最高の空間だ」と語っています。しかし1944年2月に亡くなったため、彼がそこにいたのはわずか数カ月でした。
モンドリアン氏の死後、マンハッタンでの友人でありスポンサーでもあった画家のハリー・ホルツマン(Harry Holtzman)氏と、同じく友人の画家フリッツ・グラーナー(Fritz Glarner)氏は、スタジオを6週間にわたって一般公開する前に、スタジオをフィルムとスチール写真で入念に記録しました。ホルツマン氏は、スタジオを解体する前に、壁の構成を正確にトレースし、現存するオリジナルの切り抜きをそれぞれに貼り付け、壁をそっくり再現しました。これらの作品は「ウォール・ワークス」と呼ばれるようになりました。
モンドリアンの死
モンドリアン氏は、1944年2月1日に肺炎で亡くなり、ニューヨークのブルックリンにあるサイプレス・ヒルズ墓地に埋葬されました。
まとめ
1万字に及ぶ長文に加えて、英語資料をベースにしたための変な翻訳部分もあったりなのに、ここまで読んでくださってありがとうございます。しかしそれに見合うほど、モンドリアン氏のシンプルな抽象画に何が含まれているのか、彼が何をしようとしていたのか、ということへの理解はすごく深まったのではないでしょうか。私自身、あらためてモンドリアン氏について調べてみて、「そうだったのか」と知った部分が多くありました。まとめるなら、こう言えると思います。
ピート・モンドリアンは、神智学を動機の一つとして、普遍性を描く手法の生涯をかけて追求し、それをピカソとブラックらのキュビズム、バート・ヴァン・デル・レックの原色作品を経て、見つけ、世界を三原色、明度、そして垂直と水平に集約しました。しかしそこからまた先に垂直と水平を目に見えないものへ昇華するとともに、二つの大戦から(終わっていないものの)開放された世界の広がりをニューヨークで体感し、その内的な世界の広がりをブギウギなどの作品で具現化した表現者でした。
これが、わたしが、ピート・モンドリアンから学んだものです。シンプルでキャッチーがゆえに、いろいろなところでモチーフとして使われるモンドリアン氏の作品の奥にあったものは、知識として消化してわたし自身の世界が広がったように感じました。そんな思いをもし共有できたら、すごく光栄です。
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参照
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