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世界の国旗と国章(19) カタール

世界の国旗と国章マガジン

今まで紹介してきた国とカタールの位置


カタールの国旗

カタールの旗
See File history below for details. - Law No. (14) of 2012, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=343715による

縦横比:11:28
制定日:1971年7月9日
使用色:
赤茶色、白

カタールの国旗は、縦横比11:28で、白と赤茶色(マルーン)からなり、9つの頂点を持つ縦のジグザグ線で区切られています。現在の独立国の中では唯一長辺の長さが短辺の2倍を超えており、結果的に最も横長の国旗となっています。

白色は、国際的に平和を意味する色。赤茶色は、カタールが過去に(特に19世紀後半に)戦争で流してきた血の色。

9つの頂点のあるギザギザの線は、カタールが1916年のカタール・イギリス条約により、ペルシャ湾岸でイギリスの保護に入った9つ目の首長国となったことを象徴しています

ジグザグ線が省略され、直線で表現されることもあります。バーレーンの国旗とも類似していますが、バーレーンの場合は赤茶色ではなく赤色で、国旗の縦横比も3:5となっています。

歴史

ペルシャ湾岸の諸首長国は19世紀半ばまで赤一色の旗を国旗として使っていましたが、どの国の旗も同じで見分けがつかないという問題を抱えていました。

1868年にイギリスとカタールが条約を結んだ際に、カタールの旗の色はそれまでの赤色から、白と赤を組み合わせた国旗となったとされています。当初は国旗にはっきりした規定はなく、白と赤の間の線もまっすぐだったりギザギザだったりと定まっていませんでした。

赤茶色の部分は元々は赤色でしたが、1936年に現在の色へと変更されました。その理由には諸説あり、バーレーンの国旗との区別をつけるためという説のほか、太陽の強い日差しで染料が日焼けして赤茶色に色褪せてしまったが、国旗を変更する際に「色褪せたこの色も悪くはない」ということになった、という説もあります。

マルーン

16進表記:#800000
RGB :128, 0, 0
CMYK:0, 100, 100, 50
HSV:0°, 100%, 50%
出典:HTML/CSS

マルーン(英: maroon)は、暗い茶色から、紫がかった赤にかけての色。一般的には赤と黒の中間に位置する色。

フランス語のマロン(marron、クリやマロニエの実)に由来しています。英語における色名としての "Maroon" の初出は1789年。

マルーンは、JIS慣用色名。またMaroonはHTML 4.0でも、color属性で色名として指定して表示が可能です。

フランス語、イタリア語などでは、ボルドー(Bordeaux)。これはフランスのボルドーで産出するボルドーワインに由来しています。

マロン由来であるため、日本語では栗色(くりいろ)と訳されることもありますが、JISの規格ではマルーンと栗色は別々の色として定義されています


カタールの国章

https://commons.wikimedia.org/w/index.php?title=File:Emblem_of_Qatar.svg - このSVG 紋章には、次の紋章から取得または適用された要素が含まれています:​, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=142805141による

使用者:カタール国
採用:2022年

カタールの国章は、2022年に改定されたものです。1976年に制定された国章を、国旗のマルーンと白の二色のみで描いたものです。

カタールの国章(1976年 - 2022年)
Tonyjeff, based on national symbol. - symbol adopted in 1978., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3498970による

国章に描かれているシンボルには、この地域に共通するものがあります。

アラブの伝統的な新月刀はサウジアラビアの国章やオマーンの国章にも登場します。海上交易を表すダウ船はクウェートの国章やアラブ首長国連邦の国章にも登場します。椰子の木はサウジアラビアの木でもあります。

カタールの元の国章は1976年に制定されました。二本の交差した白い新月刀(シミター)が描く円の中に、青い海と白い波の線、その上に浮かぶダウ船と二本の椰子の生える島があしらわれています。その周りを大きい帯が円形に囲み、上下を半分に分かつようにぎざぎざの線が描かれ、その上半分は白色、下は茶色になっています(これはカタールの国旗の柄)。上半分の白い部分にはクーフィー体のアラビア文字で「カタール国」(دولة قطر)の名が、下半分の茶色い部分には白いラテン文字で英語の国名(State of Qatar)が書かれていました。

クーフィー体

ウスマーン写本に見られるクーフィー体(スーラ7章:86-87)。
匿名 - Mandel, Gabriele: Das Arabische Alphabet - Geschichte, Stile und kalligraphische Meisterschulen. Wiesbaden: Matrix, 2004., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1124167による

クーフィー体(阿: خط كوفي‎、英: Kufic)は、アラビア文字の書体で、ナバテア文字より発展したアラビア文字の最古の書法です。その名称はイラクの都市クーファにちなみ、アッバース朝が当時クーファを首都としていたことからその名がつきました。イスラム教が生まれた時点ですでにアラビア半島全域において用いられ、クルアーンの最初の写本はクーフィー体により記されました。英語の「Kufic」の音からクフィック体と呼ばれることもあります。


カタールについて

正式名称(日本語):カタール国
正式名称(英語):State of Qatar

場所

Addicted04 - このW3C-unspecified ベクター画像はInkscapeで作成されました ., CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20178624による

公用語

アラビア語


首都

ドーハ (英語:Doha

しげ旅『ドーハ旅🇶🇦世界一退屈とも言われるW杯開催国カタール【アジア#20】2024年5月17日〜21日』(YouTube)


概要

カタール国、通称カタールは、西アジアに位置する国家。中東のアラビア半島北東部に位置するカタール半島を領土とし、南はサウジアラビアと国境を接し、残りの領土はペルシャ湾に囲まれています。ペルシャ湾の入り江であるバーレーン湾が、カタールとバーレーンを隔てています。首都は国民の8割以上が住むドーハで、国土の大部分は平坦な低地の砂漠で構成されています。

1868年にムハンマド・ビン・サーニーがイギリスと条約を結び、独立国としての地位を認められて以来、カタールはサーニー家による世襲君主制国家として統治されてきました。オスマン帝国の支配を経て、20世紀初頭にはイギリスの保護領となり、1971年に独立しました。

現在の首長はタミーム・ビン・ハマドで、カタール憲法に基づき、行政・立法のほぼすべての権限を持ち、司法も支配しています。首相と内閣は首長が任命します。一部選挙で選ばれた諮問評議会は、立法を阻止することができ、大臣を解任する能力も限られています。

2017年初頭、カタールの総人口は260万人で、そのうち31万3000人がカタール国民、230万人がエクスパット(海外の本社や親会社、関係会社などに所属し、転勤などの理由で日本に派遣されている駐在員)です。

公式の宗教はイスラム教。所得面では、一人当たりのGDP(PPP)が世界第4位、一人当たりのGNI(アトラス方式)が世界第11位。カタールの人間開発指数は42位で、アラブ世界では3番目に高い。世界第3位の天然ガス埋蔵量と石油埋蔵量を背景に、高所得者層が多い経済国です。カタールは世界有数の液化天然ガス輸出国であり、一人当たりの二酸化炭素排出量は世界一(*1)。

21世紀には、カタールはその資源とメディアグループであるアルジャジーラ・メディア・ネットワークを世界的に拡大し、アラブの春にはいくつかの反政府勢力を財政的に支援したと伝えられており、アラブ世界のミドルパワーとして台頭しています。

カタールの人権記録は、結社の自由、表現の自由、報道の自由といった市民の自由に対する制限や、国内のプロジェクトのための強制労働に相当する数千人の移民労働者の扱いなど、学者や非政府組織から総じて低いとみなされています。

2022年FIFAワールドカップは、賛否両論ある中でカタールに決定し、アラブ諸国初、中東初の開催地となりました。カタールは2006年アジア競技大会を開催し、2030年アジア競技大会も開催する予定です。


カタールの歴史

カタールでは、紀元前3000年から紀元前2000年ごろの遺物が見つかっています。また、ペルシャ湾での真珠採取の産地として古代から知られてきました。

オスマン帝国の進出

1825年にカタール王家サーニー家(Āl-Thānī)の創始者サーニー・ビン・ムハンマドがビダウ(البدع al-Bida‘、現在のドーハ)を治めるカタールのハーキムに選ばれました。バーレーンのハリーファ家(Āl-Khalīfa)が1868年まで北カタールを治めていました。その年、カタール貴族の依頼によりイギリスの仲介でバーレーンの主張を取り下げさせましたが、オスマン帝国がカタールを占領してしまいました。

帝国の撤退と英国の支配

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国が撤退したあとはイギリスの実効支配の下、3代目カタール首長(アミール)・アブドゥッラー・ビン・ジャースィム・アール=サーニーをシェイクとした自治権を認めました。

イギリスとカタール間の1916年の条約は、イギリスとその他のペルシャ湾諸国の条約と同じく、イギリスの承認なく自国領の変更は認めず、諸外国との外交関係も一切認めないというものでした。その代わりイギリスは海上からの侵攻に対しては保護を与え、陸上からの攻撃に対しては支援を与えるという内容でした。

1934年の条約はさらにイギリスからの保護を強化したものでした。赤線協定に基づいてアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)からイラク石油会社(IPC)に石油利権が譲渡されると、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「Petroleum Development (Qatar) Ltd(PDQ)」に対し、カタールでの75年間の石油掘削権を承認。1940年には高品質の石油が、カタール半島西岸で発見されました。第二次世界大戦のため1949年まで石油輸出は行われませんでいた。

オイルマネーによる繁栄

4代目首長であるアリー・ビン・アブドゥッラー・アール=サーニーのもとで、1950年代から1960年代にかけて、この石油がカタールに繁栄と社会進化をもたらし、近代化の始まりとなりました。

独立

1960年に5代目首長アフマドが就任。1968年に発表されたイギリスのスエズ運河以東撤退宣言に伴い、イギリスの保護領トルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン。トルーシャル・コーストTrucial Coast:休戦海岸とも。のちにアラブ首長国連邦(UAE)となる勢力)は、1971年の独立を目指してアラブ首長国連邦(Federation of Arab Emirates:FAE)を結成しました。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難しいと考えており、カタールやバーレーンもその一員としてFAEに含まれていましたが、すでにカタールとバーレーンは石油生産の好調で単独独立が可能な状態になっていました。他首長国との利権問題もあってカタールとバーレーンは近隣国のサウジアラビアやアラブ首長国連邦の一部になることを断り、カタールは1971年9月3日に単独で独立しました。同年9月11日にアラブ連盟に、21日に国際連合に加盟しました。

湾岸戦争

1972年、父であるアフマド首長の外遊中に、ハリーファが無血クーデターを起こして政権を奪取(6代目首長)。1988年にはソビエト連邦および中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結びましだ。OPEC(石油輸出国機構)の初期からの加盟国ですが、天然ガスの生産に注力することを理由として、2019年1月1日をもって脱退しました。また、湾岸協力会議の原加盟国。1990年の湾岸戦争では、反イラクの立場をとりました。

無血クーデター

1995年に首長であるハマドが、父であるハリーファの外遊中に無血クーデターを起こして政権を奪取(7代目首長)。ハマドは、政権を奪取して以降、天然資源のみに頼った経済体制を危惧して、観光産業の育成などに着手しています。かつてはハリーファの閉鎖的な政策の影響で宿泊施設すらほとんどなく、「世界一退屈な都市」とまで言われた首都ドーハにもさまざまな娯楽施設などが建設され、賑わいを見せています。また、衛星テレビ局アルジャジーラが、彼のポケットマネー(1億5000万USドル)で設立されました。1996年から湾岸諸国の中で唯一イスラエルの通商代表部が置かれていましたが、2009年に閉鎖されました。


メモ

クーフィー体にもっとフォーカスしたい。


参照

*1 Wikipedia (日本語)


*2

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/azerbaijan/index.html

*3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD




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