新古典主義ってにゃに?
《週末アート》マガジン
いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。
新古典主義ってにゃに?
時期:18世紀半–19世紀初頭
地域:イタリア、ローマ→ヨーロッパ全土およびアメリカ合衆国
新古典主義(Neoclassicism)は、18世紀半ばに古代ギリシャ・ローマ芸術・文化の復興を謳ってローマで始まり、ヨーロッパ全土ならびにアメリカ合衆国に広まり、19世紀初頭まで続いた芸術・文化運動です。
それまでの装飾的・官能的なバロックおよびロココの流行に対する反発を背景にして、新古典主義は、より確固とした荘重な様式をもとめて古典、とりわけギリシアの芸術を模範としました。
18世紀前半にイタリアでヘルクラネウムとポンペイの遺跡が発掘されたことをきかっけにして、これらの発掘をきっかけにして、ローマでは古代への関心が高まります。ドイツの歴史家、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann)氏の著書によって、古代ギリシャ賛美がイタリアおよび諸国に大きな影響を与えました。 新古典主義の主要運動は、18世紀の啓蒙時代と同時期に始まり、19世紀前半まで続き、ロマン主義に横並びになって対抗しました。建築では、19世紀、20世紀、そして21世紀まで続きました。
視覚芸術におけるヨーロッパの新古典主義は、当時主流であったロココ様式に対抗して、1760年頃に始まりました。ロココ様式の建築は、優美さや装飾性、非対称性を重視していました。一方、新古典主義建築は、ローマや古代ギリシャの芸術の美徳とされた簡素さや対称性の原則に基づき、16世紀のルネサンス古典主義をより身近なものにしたものでした。
新古典主義は、そのまま古典古代のギリシャを模範としたわけではなく、津利用できそうな範囲で参照し、その他は無視するという「編集」的要素を持ったものでした。新古典主義者たちは、ギリシャの遺跡を微妙に平滑化、規則化し、修正、修復などの意識的にか無意識にか調節をしていました。
18世紀のフランスでナポレオンが台頭し、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになり、新古典主義が加速していきます。ダヴィッドが描いたナポレオンの戴冠式は新古典主義の代表的な作品です。
新古典主義の絵画
新古典主義の主な画家としては、ナポレオン戴冠式などを描いたジャック=ルイ・ダヴィッド、ドミニク・アングル、フランソワ・ジェラール、アントワーヌ=ジャン・グロなどが挙げられます。
ロココ様式の華美で表層的な表現を好むバロック様式へのアンチテーゼとして、新古典主義は、デッサンと形を重視し、理性を通じた普遍的価値の表現を理想としました。 19世紀に入ると、新古典主義より感性的・情熱的で表現者自身の感覚を重視するロマン主義(ロマン派)が台頭し、新古典主義と対峙していきます。
ピカソと新古典主義
パブロ・ピカソは1920年代に、新古典主義を参照・模倣して、人物画を多く描いていました。この時期のピカソの作品は新古典主義時代とカテゴライズされています。
新古典主義の建築
新古典主義建築(Neoclassical Architecture)は、18世紀後期に、啓蒙思想や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式で、ロココ芸術の過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として荘厳さや崇高美を備えた建築を理想とし追求したものでした。新古典主義には、政治的な背景も強く影響していました。新古典主義は、ルイ15世の時代を中心に展開したロココ様式の官能性や通俗性に対して、論理的で厳粛、理性的な啓蒙的表現や思想をもつ、新古典主義におきかえようとする動きの反映でもありました。
フランスが革命により、王政から共和制に移行していきますが、それを古代ギリシャの共和政時代、古代ローマ民主主義との結び付けて捉える動きがありました。しかしナポレオンがフランスで権力の座につくと、こういった古代ギリシャを省みる様式は、ナポレオン賛美のためのものに変質していきました。
普遍性を求めて古典を顧みた姿勢は、のちの合理で普遍性を追求したモダニズムの中にも見られます。
サン=シュルピス教会(1745)
1646年にルイ13世の王妃であるアンヌ・ドートリッシュの命により建築が開始されるも完成は1745年。ファサードは、1732年に設計コンペが行われ、ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニによって設計されました。このファサードが、紆余曲折あり、最終的に水平と垂直のラインが強調されたギリシア神殿を思わせるファサードとなり、これが新古典主義の前触れとして捉えられています。
エトワール凱旋門(1836)
エトワール凱旋門は、1805年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に翌年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まりました。完成したのは1836年。ナポレオン・ボナパルトは1821年にセントヘレナで死去しています。設計したのは、ジャン・フランソワ・テレーズ・シャルグラン(Jean-François-Thérèse Chalgrin)氏。
ブランデンブルク門(1791)
ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)は、ドイツ・ベルリンにある砂岩でできた古典主義様式の門。高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11m。ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により、建築家カール・ゴットハルト・ラングハンス(Carl Gotthard Langhans)氏によって古代ギリシャ風に設計され、1788年から3年間の建設工事を経て、1791年8月6日に完成しました。門の上には、彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウ(Johann Gottfried Schadow)が制作した四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像が乗っています。
音楽
音楽における新古典主義は、第一次・第二次大戦間にロシアのイーゴリ・ストラヴィンスキーやフランス六人組が中心になって採用した音楽全体のスタイルを指した言葉です。フランス六人組とは、ルイ・デュレ、アルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェール、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリック。全員で活動したのは1回のみ。
まとめ
新古典主義に限らず、造形芸術では、何度も古典を振り返るという運動が発生しています。しかしそれぞれ異なるものがあり、新古典主義の場合は、バロックやロココ様式への反発という性格が強くあります。これがちょっと複雑で、王政への反発という意味でもあったのですが、その後、フランスでは、ナポレオン讃美へと変質していきます。そういう複雑な背景はあれど、ローマにおける遺跡発掘をきっかけとして始まった新古典主義は、華美になりすぎず、知的で合理的で、それでいて美しい古代ギリシャの美の思想に普遍性を見出そうとしたものでした。モダニズムにも合理性をもって普遍性を追求する姿勢がありましたが、私見ですが「なんか、もう移り変わるの面倒くさくない? 流行で廃れないものが良くない?」という心持ちがそこにはあったんじゃないかと思います。
それから、おもしろいのが、日本から観ると、すごく古くからあるように見える古代ギリシャ的な建築物は、18世紀のこの新古典主義によるものだということが、まあまあの盲点ではないでしょう。しかし18世紀だって、ずいぶん前じゃんとは感じるものの、それでもそれが「古代ギリシャが良かったなー」という温故知新の産物であるということは、重要な「発見」となるかもしれません。わたしたちは、表現をしようとするさいに、何が美しいのだろう?何がより良いのだろう?と模索するとき、2つの力にふれることになります。その一つは、歴史です。過去の偉人たちにそのテクニックや思想を探し、見つけては畏怖し、模倣します。それだけではなく、「進化圧」のような力にも触れることになります。なぜなら、表現者たちは、目の前にある課題を解決しようとしているからです。そしてこのとき、感じるは、「これは嫌だ」という反発だったりします。ゆえに芸術なり建築の歴史は、白黒が繰り返すようにして、前の時代の否定を繰り返していきます。
人間の営みは、こんなふうにとてもおもしろい。新古典主義を知るとそう感じます。