《週末アート》 ポール・ゴーギャン
《週末アート》マガジン
いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。
ポール・ゴーギャンについて知りたい4つのこと
最後に答えをまとめます。
ポール・ゴーギャン
前回のゴッホにも登場したポール・ゴーギャン(フランス語だと「ゴーガン」のほうが近い)。ゴッホはさんざんな人生でしたが、ゴーギャンはどんな生涯を送ったのでしょうか。ゴーギャンは、ポスト印象派の画家として捉えられています。
ポスト印象派
ポスト印象派 (Post-Impressionism)は、印象派の後に、フランスを中心として主に1880年代から活躍した画家たちを指す呼称です。この区分は、印象派に対する態度によるものなので、様式的な共通性は希薄。
フィンセント・ファン・ゴッホ
ポール・ゴーギャン
ポール・セザンヌ
印象派
印象派(いんしょうは)は、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動。この運動の名前は、クロード・モネの作品『印象・日の出』に由来します。
この絵がパリの風刺新聞『ル・シャリヴァリ(Le Charivari)』で批評家ルイ・ルロワによって、皮肉交じりに展覧会の名前として記事の中で取り上げられたことがきっかけとなり、「印象派」という新語が生まれました。
印象派の絵画の特徴としては、1.小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、2.戸外制作、3.空間と時間による光の質の変化の正確な描写、4.描く対象の日常性、5.人間の知覚に欠かせない要素としての動きの包摂(ほうせつ)、6.斬新な描画アングルなど。
誕生
ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)は、1848年、二月革命の年にパリに生まれました。父クローヴィスは、共和主義者のジャーナリストでした。母アリーヌ・マリア・シャザルの母は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタン(Flora Tristan、1803年 - 1844年)は、フランスの作家、社会主義者、社会改革運動家、フェミニスト)でした。1851年(3歳)、ナポレオン3世のクーデターで、共和主義者であった父クローヴィスは職を失い、一家はパリを離れてペルーに向かいました。しかし、父クローヴィスは航海中に急死。残されたポールとその母と姉は、リマ(ペルーの首都)でポールの叔父を頼って4年間を過ごしました。母アリーヌは、ペルーにてインカ帝国の陶芸品を好んで収集していました。
ポールが7歳の時、一家はフランスに戻り、父方の祖父を頼ってオルレアン(フランス中部に位置する都市)で生活を始めました。ここはゴーギャン家が昔から住んでいた土地であり、スペイン語で育っていたポールは、ここでフランス語を身に付けていきました。
二月革命
1848年のフランス革命(Révolution française de 1848)は、ヨーロッパに起きた1848年の革命の波の1つで、フランスで起こった革命で、2月に始まったことから、日本では二月革命と呼ばれることがあります。
この革命は、それまでのフランス革命や七月革命とは異なり、以前のブルジョワジー主体の市民革命から、プロレタリアート主体の革命へと転化したものでした。この革命には、当初から社会主義者が参加しており(ピエール=ジョゼフ・プルードン、ルイ=オーギュスト・ブランキなどが有名)、フランス三色旗に混じって赤旗も振られました。
フローラ・トリスタン
オルレアン
就職と結婚
ポールは、地元の学校に通った後、ラ・シャペル=サン=メマン(La Chapelle-Saint-Mesmin)のカトリック系寄宿学校に3年間通いました。1861年、13歳の時、パリの海軍予備校に入学しようとしますが、試験に失敗しオルレアンに戻り、リセ・ジャンヌ・ダルクを修了しました。そして、商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡ります。1867年7月7日(19歳)、母が死去しますが、ポールは数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまでそれを知りませんでした。その後、1868年(20歳)に兵役でフランス海軍に入隊し、1870年(22歳)まで2年間勤めました。1871年、23歳の時パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになりました。その後11年間にわたり実業家として成功し、1879年(31歳)には株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていました。
1873年(25歳)、ポールは、デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚。2人の間には、エミール(1874年-1955年)、アリーヌ(1877年-97年)、クローヴィス(1879年-1900年)、ジャン・ルネ(1881年-1961年)、ポール・ロロン(1883年-1961年)の5人の子供が生まれました。
絵の修業
株式仲買人としての仕事を始めた1873年(25歳)頃から、ポールは、余暇に絵を描くようになりました。彼が住むパリ9区には、印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ポールは、画廊を訪れたり、新興の画家たちの作品を購入したりしていた。カミーユ・ピサロ(1830–1903)と知り合い、日曜日には、ピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていました。
ピサロは、ポールを他のさまざまな画家たちにも紹介しました。1876年(28歳)、ポールの作品の一つがサロンに入選します。1877年(29歳)、ポールは、川を渡って都心を離れたパリ15区ヴォージラールに引っ越し、この時、初めて家にアトリエを持ちました。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シェフネッケルも、近くに住んでいました。
ポールは、1879年(31歳)の第4回印象派展に息子エミールの彫像を出品し、1881年と1882年(35歳)の印象派展には、絵を出展しましたが、不評でした。1882年、パリの株式市場が大暴落し、絵画市場も収縮してしまいます。ポールから絵を買い入れていた画商ポール・デュラン=リュエルも恐慌の影響を受け、絵の買付けをやめてしまいました。ポールの株式仲買人としての収入は急減し、彼は、その後の2年間、徐々に絵画を本業とすることを考えるようになっていきました。ピサロや、時にはポール・セザンヌと一緒に絵を描いて過ごすこともありました。1883年10月(35歳)、彼は、ピサロに、画業で暮らしていきたいという決心を伝え、助けを求める手紙を送っています。翌1884年1月、ゴーギャンは、家族とともに、生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図るもうまく行かず、その年のうちに、妻メットは、デンマークのコペンハーゲンに戻ってしまいます。ポールも、その年の11月に、作品を手にコペンハーゲンに向かいました。ポールは、コペンハーゲンで防水布の外交販売を始めましたが、言葉の壁にも阻まれ失敗。そのため妻メットが外交官候補生へのフランス語の授業を持って、家計を支える状態となりました。ポールは、メットの求めを受けて、1885年(37歳)、家族を残してパリに移りました。
パリそしてポン=タヴァンへ(1885年–1886年)(37–38歳)
ポールは、1885年6月(37歳)、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻りました。その他の子は、コペンハーゲンのメットの元に残り、メットの稼ぎと家族・知人の助けで生活することとなりました。ポールは、画家として生計を立てようと思うも現実は厳しく、困窮して、雑多な雇われ仕事を余儀なくされました。息子クローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校に行くことになりました。パリ最初の1年に制作した作品は非常に少ない。1886年5月の第8回(最終回)印象派展に19点の絵画と1点の木のレリーフを出展していますが、ほとんどがルーアンやコペンハーゲン時代の作品であり、唯一『水浴の女たち』が新たなモチーフを生み出した程度で、新味のあるものはほとんどありませんでした。
フランスの画家、フェリックス・ブラックモンは、ゴーギャンの作品を1点購入しています。この時の印象派展で前衛画家の旗手として台頭したのが、新印象派と呼ばれるジョルジュ・スーラでしたが、ポールは、スーラの点描主義を侮蔑しています。この年、ポールは、ピサロと仲違いし、ピサロは、その後ポールに対して敵対的な態度をとるようになりました。
ポールは、1886年夏(38歳)、ブルターニュ地方(フランス北西部にある地域)のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らしはじめました。最初は、生活費が安いという理由で移ったのでしたが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらしました。シャルル・ラヴァルもその1人であり、彼は、後にパナマやマルティニーク島への旅をともにすることとなります。
この年の夏、ゴーギャンは、第8回印象派展で見たピサロやエドガー・ドガの手法をまねてヌードのパステル画を描いています。また、『ブルターニュの羊飼い』のように、人物が表れるものの主に風景を描いた作品を多く制作しています。『水浴するブルターニュの少年』は、彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマですが、デザインや純色(じゅんしょく:各色相において、最も彩度が高い色)の大胆な使用において、明らかにドガを模倣しています。
イギリスのイラストレーター、ランドルフ・コールデコットがブルターニュを描いた作品も、ポン=タヴァンの画家たちの想像力を刺激し、ポールは、ブルターニュの少女のスケッチで、意識的にコールデコットの作品を模倣しています。
ポールは、後にこの時のスケッチをパリのアトリエで油絵に仕上げています。コールデコットの素朴さを取り入れることで、初期の印象派風の作品からポールの作風は脱皮したものとなっていきました。
ポールは、パナマやマルティニーク島から帰ったあとも、ポン=タヴァンを訪れており、エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァル、エミール・シュフネッケル、その他多くの画家と交流しています。このグループは、純色の大胆な使用と、象徴的な主題の選択が特徴であり、後にポン=タヴァン派と呼ばれるようになりました。ポールは、印象派に至る伝統的なヨーロッパの絵画が余りに写実を重視し、象徴的な深みを欠いていることに反発していました。これに対し、アフリカやアジアの美術は、神話的な象徴性と活力に満ちあふれているようにポールには見えました。折しも、当時のヨーロッパでは、ジャポニズムに代表されるように、他文化への関心が高まっていました。
ポールの作品は、フォークアートと日本の浮世絵の影響を受けながら、クロワゾニスムに向かっていきました。
フォークアート
フォークアート(folk art)は、土地固有の文化から生まれたアートで、農業、商工業他の労働者によって生み出されるアート。純粋な美を追求する美術と対照的に、フォークアートは主に実用的で装飾的。フォークアートの特徴は、様式が単純で、経験的なプロポーションあるいは視線の規則を超えている点にあります。
クロワゾニスム
クロワゾニスム(Cloisonnism)とは、批評家エドゥアール・デュジャルダンが、ベルナールやゴーギャンによる、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴とする描き方に対して付けた名前であり、中世のクロワゾネ(七宝)の装飾技法から来ています。クロワゾニスムの真髄と言われる1889年のポール・ゴーギャンの『黄色いキリスト』では、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されています。そこでは、古典的な遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の重要な原則が捨て去られています。さらに、彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ綜合主義に向かっていく。
綜合主義
綜合主義(そうごうしゅぎ)は、1880年代末頃、ポール・ゴーギャン、エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァル、ルイ・アンクタンらによって提唱された芸術運動。フランス語のSynthétisme(サンテティスム)の訳語。色彩を分割しようとする印象主義への反発として現れた、ポスト印象主義の一潮流といえ、2次元性を強調した平坦な色面などが特徴。
マルティニーク島(1887年)(39歳)
1887年(39歳)、ポールは、パナマを訪れた後、6月から11月までの約半年、友人のシャルル・ラヴァルとともに、マルティニークのサン・ピエールに滞在しました。
ポールは、パナマ滞在中に破産し、当時のフランス法に従い、ラヴァルとともに、国の費用で本国に戻ることになりました。しかし、2人は、マルティニークのサン・ピエール港で船を降りてしまいます。この下船が計画的なものだったのか、突発的なものだったのかについては、研究者の間で意見が分かれています。はじめ、2人は原住民の小屋に住んで人間観察を楽しんでいましたが、夏になると暑く、雨漏りなどに苛まれます。ポールは、赤痢(下痢・発熱・血便・腹痛などをともなう大腸感染症)とマラリア(熱帯から亜熱帯に広く分布するマラリア原虫による感染症)にも苦しんみました。マルティニークにいる間、彼は12点前後の作品を制作しました。
ゴッホとの共同生活(1888年)(40歳)
ゴーギャンのマルティニークでの作品は、絵具商アルセーヌ・ポワティエの店に展示されました。ポワティエと取引のあったグーピル商会のテオドルス・ファン・ゴッホ(テオ)とその兄で画家のフィンセント・ファン・ゴッホは、その絵を見て感銘を受けました。テオは、ゴーギャンの絵を900フランで購入してグーピル商会に展示し、富裕な顧客に紹介しました。同時に、フィンセントとゴーギャンも親しくなり、手紙で芸術論を熱く交わしました。グーピル商会との取引は、テオが1891年1月に亡くなった後も続きました。
1888年(40歳)、ポールは、金欠とフィンセント・ファン・ゴッホからのしつこいラブコールによって、南仏アルルに移っていたフィンセントの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送りました。しかし、2人の芸術観はまったく噛み合わず、関係は間もなく悪化、ポール・ゴーギャンはアルルを去ります。アルルを去ることとした。12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生しました(くわしくは『《週末アート》 フィンセント・ファン・ゴッホの花火のような生涯』の記事を参照。)ゴーギャンの後年の回想によると、この時ファン・ゴッホは剃刀を持って自身に向かってきたため、怒鳴って追い返すと、同日夜にファン・ゴッホは左の耳たぶを切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したという。翌日、ファン・ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンは同地を去りました。ふたりは、その後二度と会うことはありませんでしたが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは1890年にベルギー、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしています。
最初のタヒチ(1891–1893)
1890年(42年)までには、ポール・ゴーギャンは次の旅行先としてタヒチを思い描いていました。1891年2月(42歳)にパリのオテル・ドゥルオーで行った売立て(一定量の品物を決まった期日に売ること。 多くの場合、せり売りや入札の方法がとられる)が成功し、旅行資金ができます。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼されたオクターヴ・ミルボーが好意的な批評を書いたことによるものでした。コペンハーゲンに妻子のもとを訪れてから(これが会う最後となる!)、その年の4月1日、タヒチに向けて出航しました。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出でした。とはいえ、ポールはこれまで集めた写真や素描や版画を携えていきました。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごしました。レジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパペアリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てました。ここで、『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)』や『イア・オラナ・マリア』といった作品を描きました。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっています。
ゴーギャンの傑作の多くは、この時期以降に生み出されています。最初にタヒチ住民をモデルとした肖像画は、ポリネシア風のモチーフを取り入れた『ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)』と考えられています。
彼は、この作品を、パトロンでシュフネッケルの友人ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレイに送りました。ポールは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ神に魅了されていきます。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作しました。その最初が『アレオイの種』(1892年)であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表しています。
ポールがパリの友人の画家モンフレーに送った絵は全部で9点であり、これらは、コペンハーゲンで亡きフィンセント・ファン・ゴッホ(1890年に死去)の作品と一緒に展示されました。しかし売れたのはわずか2点で、ファン・ゴッホの作品と比べても不評だったものの、好評だったとの報告を聞いてゴーギャンは意を強くし、手元の70点ほどを携えて帰国しようと考えました。いずれにせよ滞在資金は尽きており、国費で帰国するほかありませんでした。その上健康も害しており、当地の医者に心臓病だとの診断を受けていました(梅毒の初期症状であったとの見方もある)。ポール・ゴーギャンは後に、『ノアノア』という紀行文を書いています。当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていましたが、現在では空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されています。この本で、彼はテハーマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしています。1892年夏の時点で彼女はゴーギャンの子を妊娠していましたが、その後どうなったかの記録はなく、流産したとされています。
ポリネシア
ポリネシア(Polynesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つです。太平洋で、概ねミッドウェー諸島(北西ハワイ諸島内)、アオテアロア(ニュージーランドのマオリ語名)、ラパ・ヌイ(イースター島)を結んだ三角形(ポリネシアン・トライアングル)の中にある諸島の総称で、2017年の人口は約700万人。ポリネシアはギリシャ語のポリ(πολύς 多くの)ネソス(νῆσος 島)から、「多くの島々」の意味です。ポリネシアという用語は1832年、フランスの海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィル(Jules Dumont d'Urville)が、メラネシアやミクロネシアとは違うこの地域の民族的・地理的分類のために使い始めたものでした。
フランスへの帰国(1893–1895)
1893年8月(45歳)、ポール・ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』、『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)』などの作品の制作を続けました。
1894年11月(46歳)にポール・デュラン=リュエルの画廊で開かれた展覧会はある程度の成功し、展示された40のうち11点が相当の高値で売れました。ポール・ゴーギャンは、画家がよく訪れるパリ、モンパルナス地区の外れにアパルトマンを借り、毎週「サロン」と称して集まりを開きました。この頃インド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲っており、『ジャワ女アンナ』のモデルとしています。
11月の展覧会の成功にもかかわらず、ポール・ゴーギャンはデュラン=リュエルとの取引を失っており、その理由は不明です。これによって、ゴーギャンはアメリカ市場への売り込みの機会を失います。1894年(45歳)初めには、紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みました。その年の夏には、フランス、ポン=タヴァンを再訪。翌1895年(46歳)、パリで作品の売立てを行いますが失敗に終わりました。同年3月、画商アンブロワーズ・ヴォラールが自分の画廊でゴーギャンの作品を展示しましたが、この時は2人は取引関係の合意には至りませんでした。また、同年4月に開会した国民美術協会のサロンに、冬の間に陶芸家エルネスト・シャプレの協力を得て焼き上げていた陶製彫像『オヴィリ』を提出しました。この作品はサロンに却下されたという説と、シャプレの後押しによってかろうじて入選したという説があります。
この頃には、妻メットとの破局は決定的になっていました。2人が会うことはなく、金銭問題をめぐって争い続けました。ポール・ゴーギャンは、叔父イシドアから1万3000フランの遺産を相続したものの、当初妻に一銭も渡そうとしませんでした。最終的に、メットには1500フランが分与されたものの、その後はシュフネッケルを通じてしか連絡をとろうとしませんでした。
2度目のタヒチ(1895–1901)
ポール・ゴーギャンは、1895年6月28日(47歳)、再びタヒチに向けて出発します。一つの原因は、『メルキュール・ド・フランス』1895年6月号に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレールがそろって自身を批判する記事を書いたため。パリの美術界で孤立したポール・ゴーギャンは、タヒチに逃げ場を求めるほかありませんでした。
同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどをパペーテ周辺の画家コミュニティで暮らしました。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになりました。パペーテの東10マイルにある富裕なプナッアウイア地区に家を建て、広大なアトリエを構えました。好きなときに、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていました。『メルキュール・ド・フランス』を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていました。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌『Les Guêpes(スズメバチ)』に寄稿し、更には自ら月刊誌『Le Sourire』(後に『Journal méchant』)を編集・刊行するようになりました。1900年2月(52歳)には、『Les Guêpes』の編集者に就任し、1901年9月(53歳)に島を去るまで続けました。彼が編集者を務めていた間の同誌は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴でしたが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもありませんでした。
少なくとも最初の1年は、絵を描かず彫刻に集中していることを友人の画家モンフレーに伝えています。この時期の木彫りの彫刻が、モンフレーのコレクションとして少数残っています。『十字架のキリスト』という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻を仕上げていますが、ブルターニュ地方のキリスト教彫刻の影響を受けたものと思われています。絵に復帰すると『ネヴァモア』のように、性的イメージをはらんだヌードを描くようになります。この頃のポール・ゴーギャンが訴えようとした相手は、パリの鑑賞者ではなくパペーテの植民者たちでした。
しかし、ポールの健康状態はますます悪くなり、何度も入院しました。フランスにいた当時、彼はコンカルノーを訪れた際に酔って喧嘩をし、足首を砕かれる重傷を負ったのですが、この時の骨折も完治していませんでした。その治療にはヒ素が用いられたため、余計に健康を害することとなりました。また、ゴーギャンは湿疹も訴えていましたが、現在では、これは梅毒の進行を示すものと推測されています。
1897年4月(49歳)、彼は、最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなったとの知らせを受け取りました。同じ月、土地が売却されたため家を立ち退かざるを得なくなりました。銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしましたが、身の丈に合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権を行使されそうになります。悪化する健康と借金の重荷の中、失意の縁に追い込まれたポール・ゴーギャンは、同年に自ら生涯の傑作と認める大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げました。
モンフレーへの手紙によれば、作品完成の後、自殺を試みたそうです。この作品は、翌1898年11月(50歳)、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示されました。これは、1893年(45歳)にデュラン=リュエル画廊で開いて以来のパリでの個展であり、今度は批評家たちも肯定的に評価しました。しかし、、同作は賛否両論でもあり、ヴォラールはこれを売るのに苦労しました。1901年(53歳)にようやく2500フランで販売され、そのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリの画商を通じてゴーギャンから絵を購入していましたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接の契約を締結しました。この契約で、ポール・ゴーギャンは、毎月300フランの前渡金を受け取るとともに、少なくとも25点の作品を各200フランで売り、その上、画材の提供を受けることになりました。ゴーギャンは、これによって、より原始的な社会を求めてマルキーズ諸島に移住するという計画が実現できると考えました。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らしました。
ポール・ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていました。また、印刷機がなかったため、モノタイプ(版画)を使わざるを得ませんでいた。
ポール・ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナッアウイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半でした。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てました。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断っています。
マルキーズ諸島(1901–1901)
ポールは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていました。しかし、実際のマルキーズ諸島は、太平洋の島々の中でも最も西欧の病気、結核で汚染された島々であり、18世紀には8万人いたという人口は当時4000人にまで落ち込んでいました。またタヒチと同様西欧化され、既に独自の文化を失っていました。ポールは、1901年9月16日(53歳)、ヒバ・オア島に着き、マルキーズ諸島の政庁があるアトゥオナに住み始めました。
アトゥオナはパペーテよりは開発が遅れていましたが、汽船の定期便がありました。医師はいたのですが翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ポールは、ベトナム人冒険家のグエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなりました。ポールは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取りました。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞いました。
ポールはこの土地に2階建ての建物を建て「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけました。壁には、彼が集めたポルノ写真が飾られていました。初めの頃、この家にはポルノ写真を見ようと多くの地元住民が詰めかけました。このことだけでもマルタン司教には不快なことでしたが、ポールはその上、司教とその愛人と噂される召使を当てこすった2体の彫刻を階段の前に置いたり、カトリックのミッション・スクール制度を批判したりしたことで、司教との関係はどんどん悪化していきました。
ポールは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がないと主張し、これによって多くの女生徒が学校に行かなくなってしまいました。その中の1人、14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を妻としました。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャンを毎日看護してやらなければならず、重荷でした。それでも、彼女はゴーギャンとの同居を選びました。
1901年11月(53歳)までに新居を設け、ヴァエホ、料理人と2人の召使、犬のペゴー、猫1匹と暮らし始めました。ここでポールは制作に専念するようになり、翌1902年4月(53歳)にはヴォラールに20枚のキャンバスを送っています。ポールは、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しいモチーフを見つけることができると思うと書き送っています。タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作に取り組み、タヒチ時代の絵を深化させた『扇を持った若い女』、『赤いケープをまとったマルキーズの男』、『未開の物語』という3作品を制作しています。
1902年(54歳)には、ポールの健康状態は再び悪化し、足の痛み、動悸、全身の衰弱といった症状に悩まされました。9月には、足の怪我の痛みが激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなりました。視力も悪化し、最後の自画像では眼鏡をかけています。
1902年7月(54歳)、妊娠中だったヴァエホが家族と友人のいる故郷の隣村で子供を産もうと、ポールのもとを去っていきました。ヴァエホは9月に子供を産みますが、ポールのもとへは戻ってくることはありませんでした。ポールはその後、新たな妻を迎えませんでした。ちょうどこの時期に、マルタン司教との間でのミッション・スクールをめぐる論争が加熱していました。
12月には、病状の悪化によりほとんど絵の制作ができなくなりました。最期を悟ったゴーギャンは『前語録』(Avant et après)と題する自伝的回顧録を書き始め、2か月で完成させました。表題には、タヒチに来る前と後の体験を綴ったという意味と、祖母の回顧録『過去と未来』への敬意が含まれていると考えられます。ポリネシアでの生活、自分の生涯、文学・絵画への批評などが雑多に綴られたものでした。その中には、地元当局や、マルタン司教、妻メットやデンマーク人一般などへの批判も盛り込まれています。
1903年初頭、ゴーギャンは島駐在の国家憲兵ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めました。しかし、逆にクラヴェリーから名誉毀損で告発され、3月27日に罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けました。ポールはすぐにパペーテの裁判所に控訴し、その旅費の資金集めを始めましたが、5月8日の朝に急死しました。享年54歳。
死去
ポールは、名誉毀損で有罪判決を受けてから、その控訴のための準備をしていました。この時点で体力は相当落ち込んでおり、体の痛みも激しかったため、再びモルヒネに頼るようになっていました。ポールの死は、1903年5月8日の朝、突然訪れました。それに先立ち、ポールはポール・ヴェルニエ牧師を呼び、ふらふらすると訴えていました。ヴェルニエ牧師はゴーギャンと言葉を交わし、容態が安定していると考えて立ち去りました。しかし午前11時に近くの住人ティオカがポールが死んでいるのを発見しました。枕元には、アヘンチンキの空の瓶が置いてあり、その過剰摂取が死の原因ではないかと疑われることになりました。他方、ヴェルニエは心臓発作が死因だと考えました。
ゴーギャンは翌9日の午後2時、カトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬されました。ゴーギャンの墓の一番近くに埋葬されているのはマルタン司教でした。
ゴーギャン死亡の報は、1903年8月23日までフランスに届きませんでした。遺言はなく、価値のない家財はアトゥオナで競売に付され、手紙、原稿、絵画は9月5日にパペーテで競売にかけられました。妻メットが競売の売上金を受け取ったが、およそ4000フランでした。
ゴーギャンの後世
ポール・セザンヌに「中国の切り絵」と批評されるなど、同時代の画家たちからの受けはよくありませんでしたが、没後西洋と西洋絵画に深い問いを投げかけたゴーギャンの孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得していきました。イギリスの作家サマセット・モームの代表作『月と六ペンス』(初刊は1919年出版)の主人公の画家のモデルとなりました。2015年2月7日、『Nafea Faa Ipoipo(いつ結婚するの)』(1892年)が、プライベートセールにかけられ、史上最高額となる3億ドル(およそ360億円)で落札されました。
ポール・ゴーギャンについて知りたい3つのこと:回答
1.いつのどこのひと?
2.何系?
ポスト印象派 (Post-Impressionism)は、印象派の後に、フランスを中心として主に1880年代から活躍した画家たちであり、様式的な共通性は希薄。代表的なポスト印象派は、フィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌ。
3.どうしてタヒチに行った?
小さい頃からペルーに住んでいたもあり、他所の国で暮らしに慣れていたこともある。
4.代表作は?
5.特徴は?
クロワゾニスム(Cloisonnism)とは、暗い輪郭線によって分けられたくっきりしたフォルムで描かれた様式のこと。この名称は素地に金属線(cloisons=仕切り)を貼り付け、粉末ガラスを満たしてから焼く「クロワゾネ(cloisonné)」に由来。クロワゾニスムの代表としてあげられるのが『黄色いキリスト』(1889年)。
プリミティヴィスム
プリミティヴ(=原始的、野性的、未発達)なものを称揚する態度および思想のこと。
まとめ
ゴッホよりは裕福になれたものの、幸福になれたようには見えないゴーギャン。ムーアの『月と6ペンス』を読めば、ゴーギャンの人格に対しても肯定的にはなれません。しかしポールの絵の魅力は何も損なわれず、すごい力があります。それはプリミティブな力というよりは、ポール・ゴーギャンの生きる力をそこに観るからかもしれません。
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映画
『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』 Gauguin - Voyage de Tahiti (2017年)
監督エドゥアルド・デルック、出演ヴァンサン・カッセル、フランス映画
参照
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