日本の「家紋」は、庶民もデザインできたロゴ
ビジネスに使えるデザインの話
ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています。
特異な日本の国章
いぜん『映画『TENET』にみる“紋章学”』でも触れた紋章学という世界。この記事で、国章なるものについてもふれましたが、世界的にみて日本の国章は特異なものです。どう変わっているのか?それは多くの他国が紋章(英: heraldry)由来なものであるのに対して、日本の国章は、こちら。
天皇家が使う家紋である「十六八重表菊」が使われています。ちなみにイギリス、ドイツ、アメリカの国章を観てみましょう。
これらに比べて、日本の国章(正式には国章はなく、それにかわって十六八重表菊が使われています)は、だいぶ日本的でユニークです。
十六八重表菊
十六八重表菊は、菊花紋章(きっかもんしょう)の1種で、天皇家の家紋です。菊花紋章とは、菊を図案化した家紋です。菊花紋章は皇室の紋章として、1869年(明治2年)に使用が制限され、1926年(大正15年)には、皇室令において皇族の紋章と定められてます。1947年には使用の制限となる法令は失効しています。この年以降、菊花紋章を皇室の紋章や日本の国章として菊花紋章とする法令はないのですが、慣例的に使われ続けています。
天皇の紋章としての菊花紋章の始まりは、鎌倉時代(1185–1333年)の後鳥羽天皇(ごとばてんのう)。
後鳥羽上皇が、菊を好み、自らの印として愛用し、その後の後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇も自らの印として継承し、これが慣例化し、菊花紋、ことに32弁の八重菊紋である十六葉八重表菊が皇室の紋として定着しました。
天皇の家紋なのに自由
江戸時代、この菊花紋の使用は、意外なことに自由でした。このため、菊花の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具がよく作られ、各地に広まりました。
葵紋
一方で、葵紋(あおいもん)の使用は厳しく制限されていました。徳川家の家紋だからです。
葵紋は、ウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したものです。
フタバアオイの通常の葉の数は2枚。3つの葉をもつフタバアオイはまれなので、三つ葉葵は架空のもの。葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭)に見られるように賀茂氏の象徴であり、葵紋は、賀茂神社の神紋(しんもん)です。
徳川家は、三つ葉葵の家紋で「徳川葵」と呼ばれる家紋を使用しています。徳川家康が征夷大将軍となって以降は、他家が葵紋を使うことを遠慮しはじめたり、使用を禁止されたりしました。一方で徳川家家臣のなかには葵紋を譲渡してもらったものもいました。
桐紋
桐紋(きりもん)とは、ゴマノハグサ科の樹木であるキリ(桐)の葉や花を図案化した、家紋で、桐花紋(とうかもん)とも呼ばれています。室町幕府では小判などの貨幣に刻印されていました。これ以来、室町幕府のほか皇室や豊臣政権など様々な政権が用いており、現在では日本国政府の紋章として用いられています。十大家紋(じゅうだいかもん:日本の家紋のうち、広く用いられている10つの家紋。柏紋、片喰紋、桐紋、鷹の羽紋、橘紋、蔦紋、藤紋、茗荷紋、木瓜紋、沢瀉紋)のひとつにも数えられています。
家紋って何?
家紋(かもん)とは、個人や家族を識別するために用いられる日本の紋章です。企業や機関がロゴとして使用している場合もあります。家紋は、構造的な類似性に基づいて241種類の一般的な分類がなされています。個別には、5116種類の紋(家紋)が存在してますが、失われていたり、無名の紋が存在していたりしています。日本の家紋は、ヨーロッパの紋章学の伝統におけるバッジや紋章に類似しており、同様に個人や家族を識別するために使用されています。西洋の文献では、クレスト(crests)と呼ばています。
家紋の始まり
源平藤橘(げんぺいとうきつ)と呼ばれる源氏、平氏、藤原氏、橘氏といった強力な氏族がもっとも名を馳せていた時代に、地方に移り住んだ氏族の一部が他の同じ氏族の人間と区別を図るため土地の名前などを自分の家名とました。それが後の名字となります。家紋は、家の独自性を示す固有の目印的な紋章として生まれ、この名字を表す紋章としての機能しました。やがて、武家や公家が家紋を使用するようになります。
地方へ移住したり、同じ家系でも、争ったり、競ったりすることが多く、どちらにしろ、「どこのだれ」を明確にするための記号が有用で、それを家紋が担っていました。
上記の屏風のように戦いのさいには、のぼりで家紋を示し、「どこのだれ」を明確にしました。このあたりは、西洋の紋章とちかい。西洋の紋章は、鎧をかぶってしまうと「どこのだれ」かわからなくなるので、最初は盾に描く模様で区別し、それが次第に紋章になっていきました。そして、その紋章は、紋章院で管理されました。このあたりに日本の家紋との違いです。日本の家紋はかなり自由で、まあまあ好き勝手作ったり、使えたりしてきました。
江戸時代になり、戦もなくなりますが、家紋の使用自由度は高く、百姓、町人、そして役者・芸人・遊女なども家紋を使用していました。明治時代まで、日本には苗字がありませんでしたので、その代わりにもなりました。そしてこの時代に、礼装・正装の衣服に家紋を入れる慣習が一般化していきます。
紋付袴
紋付袴(もんつきはかま)というものがありますが、この紋とは家紋のことです。
明治時代になると、身分制度がなくなり、その結果、庶民が紋服を着用したり、墓石などに家紋を入れることが増えていきました。第二次世界大戦以降は、日本軍の悪い記憶と結びつき、家紋の習慣が少し薄れていきました。それでも現在もまだこのように生活習慣の要所要所に家紋が表れてきます。
歌舞伎と家紋
歌舞伎では登場人物の役柄ではなく、その役を務める役者の家紋が舞台衣装に大きく染め抜かれることが多くあります。画像は寛政12年(1800年)11月、江戸中村座の顔見世興行における四代目瀬川路考を描いたもの。四代目瀬川路考は、瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう)の四代目で、瀬川 菊之丞の屋号は濱村屋。濱村屋の家紋(定紋)は丸に結綿(まるにゆいわた)。
結綿(ゆいわた)は、江戸時代後期からの髪形で、つぶし島田の髷(まげ)の部分に髷かけとして緋色の鹿の子絞りの縮緬をかけたもの。名前は真綿を束ねたもの(結綿)に似ていることから。
家紋がロゴ
家紋がそのままロゴになったり、デザインの一部に使った企業や地方自治のロゴがあります。三井グループ、明治屋、島津製作所、鎌倉市、鹿児島市、キッコーマン、横須賀市など。
まとめ
現代の日本人には、さほど触れる機会が頻繁ではなさそうな家紋ですが、企業のロゴにも使われていたりと、思った以上に身近なところに家紋は溢れています。今回は触れませんでしたが、家紋には植物や動物などをモチーフにしたものが多く、日本人の世界観が色濃く反映されているように思います。日本人は、優美さと自然と、そして「遊び」を大切にしてきた文化を持っているようです。ここで言う遊びとは、自由さです。家紋の使用を制限することなく、遊女も庶民を使えることで、「わたしのマーク」というものを考案し、創造し、使ってきています。それが今でも生きているというわけです。
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参照
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