実は「ロック」! 印象派ってにゃに?
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印象派ってにゃに?
なんとなくわかっているつもりでも、なに?と尋ねられたらうまく答えられない気がする印象派。今回はそんな印象派について解説していきます。
印象派(Impressionism)とは、19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動。この運動の名前は、クロード・モネの作品『印象・日の出』に由来。この絵がパリの風刺新聞『ル・シャリヴァリ(Le Charivari)』で批評家ルイ・ルロワに、皮肉交じりに展覧会の名前として記事の中で取り上げられたことがきっかけとなり、「印象派」という新語が生まれました。
印象派の絵画の特徴は、比較的小さく、薄く、しかし目に見える筆致、開放的な構図、変化する光の正確な描写の重視(しばしば時間の経過の影響を強調)、普通の題材、珍しい視角、人間の知覚と経験の重要な要素としての運動の取り込みなどです。印象派は、1870年代から1880年代にかけて、パリを拠点とする画家たちが独自の展覧会を開催していました。
当時、印象派の画家たちは、フランスの従来の美術界から厳しい反対を受けていました。視覚芸術における印象派の発展は、やがて他のメディアにおいても似たスタイルを生み出し、印象派音楽、印象派文学として知られるようになっていきました。
印象派の画家たちは、アカデミックな絵画のルールを破った、当時としては急進的な画家たちでした。ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)やJ.M.W.ターナー(J. M. W. Turner.)にならい、線や輪郭線よりも自由に塗られた色彩で画面を構成したのです。
また、生活のリアルな情景を描き、屋外で描くことが多かったこともその特徴です。それまでは、静物画や肖像画、風景画はスタジオで描かれることが多かったのですが、印象派は屋外で描くことによって、太陽光の瞬間的で儚い効果を捉えることができるようになりました(絵の具がチューブに入ったものになったことも屋外での活動を可能にしました)。彼らは、細部ではなく全体的な視覚効果を描き、従来のように滑らかに混ぜ合わせたり陰影をつけたりするのではなく、混色や純粋な混じりけのない色の短い「破線」の筆致を用いて、激しい色振動の効果を達成した。
印象派がフランスで誕生したのは、イタリアのマッキャオリやアメリカのウィンスロー・ホーマーなど、多くの画家が野外絵画を模索していた時期と重なります。しかし、印象派の画家たちは、印象派特有の新しい技法を開発しました。印象派の画家たちが主張した「異なるものの見方」とは、即興性と動き、率直なポーズと構図、明るく多彩な色彩で表現された光の戯れなどでした。
最初は敵視していた大衆も、たとえ美術評論家や画壇がこの新しいスタイルを認めなかったとしても、次第に印象派が新鮮で独創的なビジョンを持っていると肯定的に受け入れるようになっていきました。印象派は、被写体の細部を描写するのではなく、それを見る目の感覚を再現し、さまざまな技法や形態を生み出すことで、新印象派、ポスト印象派、フォービズム、キュビズムなど、さまざまな絵画様式の先駆けとなりました。
印象派のはじまり
19世紀半ば、フランス美術界は、アカデミー・デ・ボザール(Académie des Beaux-Arts)が一世を風靡していました。アカデミーは、フランス絵画の伝統的な内容や様式を守る存在でした。歴史的なもの、宗教的なもの、肖像画が好まれ、風景画や静物画は嫌われました。アカデミーは、注意深く見るとリアルに見えるような、丁寧に仕上げられた絵を良しとしていました。色彩は抑制され、しばしば金色のニスを塗ることでさらに彩度を落としていました。
アカデミーは毎年、審査員による美術展「サロン・ド・パリ」を開催し、そこに出品した芸術家は賞を獲得し、依頼を受け、その名声を高めていましたた。
1860年代初頭、モネ、ルノワール、シスレー、バジルの4人の若い画家たちは、アカデミーの画家シャルル・グレールに師事していた時に知り合いました。彼らは、歴史や神話よりも、風景や現代の生活を描きたいという共通の動機をもっていることに気づきました。彼らは、パリのクリシー通りにあるカフェ・ゲルボワで議論を重ねていきます。やがて、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨミンらが彼らに加わりました。
1863年、マネの《草上の昼食》は、裸の女性と着衣の男性2人がピクニックをしている描写が、センセーショナルな反応を起こし、サロンは出典を拒否しました。審査員たちは、歴史画や寓意画のなかの裸体ではなく、現代(当時の)の日常生活の中の裸体を描いたことを非難したのでした。
1863年の不合格作品を見た皇帝ナポレオン3世は、一般市民による審査を認め、「拒絶された者のサロン(落選展)」を開催することを決定します。多くの観客は、作品を嘲笑しましたが、それでもこのサロンは、芸術の新しい傾向を夜に打ち出すものとして注目され、通常のサロンよりも多くの観客を集めるものとなりました。
再度の落選展を求める画家やアーティストたちの請願は、1867年と1872年に拒否されてしまいました。 1873年の後半に、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ベルト・モリゾ、 エドガー・ドガなどは「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社(Société Anonyme Coopérative des Artistes Peintres, Sculpteurs, Graveurs ("Cooperative and Anonymous Association of Painters, Sculptors, and Engravers"))」を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画しました。この会社はその最初の展覧会に、他の進歩的アーティストもたくさん招き入れました。合計30人の芸術家が、1874年4月に写真家ナダールのスタジオで開かれた最初の展覧会に出展しました。展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれるようになりました。当時この展覧会は、世間には全く受け入れられず、批判的な反応ばかりでした。なかでもモネとセザンヌがもっとも強く批判されました。評論家で喜劇作家のルイ・ルロワは風刺新聞「ル・シャリヴァリ」に酷評を書きました。その中ではモネの絵の『印象・日の出』というタイトルにかこつけて、この画家たちを「印象派」と呼びました。その結果、このグループは「印象派」の名前で知られるようになりました。嘲笑の意味も含めて「印象派の展覧会」とタイトルをつけた記事で、ルロワは、モネの絵画はせいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと批判しています。見物客どうしの会話のかたちを借りて、ルロワはこう書いています。
しかしこの「印象派」という言葉は、世間に好評な呼び名となり、アーティストたち自身もこの言葉を受け入れることとなりました。印象派展は、1874年から1886年まで全8回開催されました。
第4回印象派展あたりから、セザンヌ、ルノワール、シスレー、モネが出展しなくなりはじめました。グループ内部にも意見の不一致が生じはじめました。例えばアルマン・ギヨマンの会員資格について、ピサロとセザンヌはこれを支持したのですが、モネとドガはギヨマンには資格がないと反対しました。ドガは、1879年の展覧会にアメリカのメアリー・カサットを招待しましたが、 同時に、初期の印象派展に出展していたリュドヴィック=ナポレオン・ルピックやジャン=フランソワ・ラファエリなどの印象派とは画風がやや異なる写実主義者も加えたいと主張しました。これに対してモネは、1880年、印象派を「絵の良し悪しは抜きにして先着順でドアを開けている」と非難します。グループは、1886年に新印象派のジョルジュ・スーラとポール・シニャックを招待する件で分裂しました。そして印象派展はこの回が最後となりました。全8回の印象派展に欠かさず出展したのはピサロだけでした。
個々のアーティストが印象派展で金銭的に報いられることはほとんどありませんでしたが、彼らの作品は、次第に人々に受容され支持されるようになっていきました。その背景には、彼らの作品を人々の眼に触れさせ、ロンドンやニューヨークで展覧会を開くなどした仲買人のポール・デュラン=リュエルの功績がありました。1899年にシスレーは貧困のうちに死去してしまいますが、ルノワールは1879年にサロンで大成功を収めました。モネは、1880年代、ピサロは、1890年代初期には、経済的に安定した生活を送れるようになりました。
印象派の技法
印象派絵画の大きな特徴は、光の動き、変化の質感をいかに絵画で表現するかに重きを置いていることです。それまでの絵画と比べて絵全体が明るく、色彩に富んでいます。当時主流だった写実主義などの細かいタッチと異なり、荒々しい筆致が多く、絵画中に明確な線が見られないことも大きな特徴です。また、それまでの画家たちが、主にアトリエの中で絵を描いていたのに対して、印象派の画家たちは好んで屋外に出かけて絵を描きました。
数多くの技法や制作スタイルが、印象派の革新的スタイルに貢献しました。その技法は以下のとおり。
短くて厚いストロークで主題の細部ではなくエッセンスを素早く捉える。
色彩はできるだけ混色を避けて並べていく。同時対比の原理により見る人に色をより生き生きと見せる。
灰色や暗い色は補色を混ぜて作る。純粋印象派は黒を塗ることを避ける。
前に塗った色が乾かないうちに次の色を塗るウェットオンウェットでエッジをソフトにして色を混ぜる。
印象派の絵は、それまでの画家が注意深く使っていた透明な薄いフィルム(グレーズ)を使わない。印象派の絵には基本的に光沢がない。
以前の画家はは暗い灰色や濃い色の下地をよく用いたが、印象派は白または明るい色の下地に描く。
自然光の役割を強調する。対象から対象への色彩の反映に注意を払う。画家はしばしばEffets de soir(夕暮の光と影の効果)を追求するため夕方に制作をした。
戸外制作した絵では、空の青が表面に反映しているかのように陰影をくっきりと描き、新鮮な感覚を与えている。
このスタイルの開発には、19世紀半ばに登場したチューブ入りの絵の具が大きく貢献してます(前述しています)。これにより画家は、戸外でも室内でものびのびと制作できるようになりました。それまで画家たちはそれぞれが、顔料の粉を作って亜麻仁油に混ぜて絵の具をつくっていました。
また19世紀になってたくさんの鮮やかな化学合成顔料が販売されるようになりました。コバルトブルー、ヴィリジアン、カドミウムイエロー、ウルトラマリンブルーなどがありました。これらの顔料は、印象派以前の1840年代に既に使われていました。印象派の絵画では、さらに1860年代に新しく販売されるようになったセルリアンブルーとともに、これらの顔料をどんどん使用していきました。
印象派の画家
カミーユ・ピサロ
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830–1903)は、19世紀フランスの印象派の画家。印象主義から離れ点描技法を用いていた時期があるため、新印象派の画家とされることもあります。
エドガー・ドガ
エドガー・ドガ(Edgar Degas、1834–1917年)は、フランスの印象派の画家、彫刻家。フルネームはイレール・ジェルマン・エドガー(エドガール)・ド・ガ(Hilaire Germain Edgar de Gas)。他の印象派の画家とは異なり、古典的手法を重視していました。
アルフレッド・シスレー
アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839–1899年)は、フランス生まれのイギリス人の画家。
ポール・セザンヌ
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839–1906)は、フランスの画家。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していましたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した画家です。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」と呼ばれます。
クロード・モネ
クロード・モネ(Claude Monet, 1840–1926年)は、印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』(1872年)が印象派の名前の由来になっています。
ベルト・モリゾ
ベルト・モリゾ(Berthe Morisot、1841–1895年)は、マネの絵画のモデルとしても知られる、19世紀印象派の画家。 モリゾの画風は自然の緑を基調としたものが多く、穏やかで、母子の微笑ましい情景などが特徴的です。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir、1841–1919年)は、フランスの印象派の画家。
アルマン・ギヨマン
アルマン・ギヨマン(Armand Guillaumin、1841–1927年)は、フランス印象派の画家、リトグラフ版画家。リトグラフ (lithograph)とは版画の一種である平版画。
メアリー・カサット
メアリー・スティーヴンソン・カサット(Mary Stevenson Cassatt、1844–1926年)は、アメリカの画家・版画家。成人してからはフランスで生活することが多くなる。そこでエドガー・ドガと友人になり、後に印象派の展覧会にも出品する。カサットは、独特の力強いタッチで、母と子の親密な絆を、さらに、女性の社会的および私的生き方を、何度となく描き続けました。
ギュスターヴ・カイユボット
ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte、 1848–1894年)は、フランスの画家、絵画収集家。画家としては写実主義的な傾向が強いが、第2回以降の印象派グループ展の開催に経済的・精神的に大きく貢献し、自らもグループ展に作品を出品したことから、印象派の画家として挙げられる。
エヴァ・ゴンザレス
エヴァ・ゴンザレス (Eva Gonzalès、1849–1883年) はフランスの印象派の画家。
新印象派
新印象派(neo-impressionism)とは、ジョルジュ・スーラ(1859–1891)が確立した芸術様式。1886年に批評家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon)が命名。直観的だった印象派の色彩理論を科学的に推進し点描画法による鮮明な色彩表現や、印象派が失ったフォルム、画面の造形的秩序の回復を目指した1880年代から20世紀初頭にかけての絵画の一傾向。
新印象主義は、フォーヴィズムをはじめとする20世紀初頭の前衛絵画運動にも影響を与えています。
まとめ
こうしてみると印象派とは、それまでの絵画のスタイルに対してのリベラルなカウンターであったことがよく理解できるのではないでしょうか。姿勢とはしてはロックやパンクにも通じます。既存のスタイルからの離脱、新しいスタイルの確立、暗くて写実的な表現はもう嫌だ!明るくて、光があり、昔のではなく、現代のひとびとや風景をのびのび、鮮やかに描きたい、というのが印象派のだいたいのドライブ(動因)でした。しかし技術を確立してしまうとそれがまた表現を拘束しはじめるため、印象派というフレームから抜け出したくなる画家たちが現れ、その重要さに反して、印象派の勢力は短命でした。今でこそ、高尚なアートを観るようにしてルノワールやドガやモネの作品を見てしまうかもしれませんが、当時はセンセーショナルで、既存のアートに喧嘩を売るような作品だったわけです。
そう振り返ってみるとエドゥアール・マネの『草上の昼食』(Le Déjeuner sur l'herbe, The Luncheon on the Grass)は、(エッチで)ロックだなぁとわたしはつくづく感じてしまいます。
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参照
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