パウル・クレーという画家
《週末アート》マガジン
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パウル・クレー
名前:パウル・クレー(Paul Klee)
国:スイス
生没:1879年12月18日 - 1940年6月29日
20世紀のスイスの画家、美術理論家。
ワシリー・カンディンスキーたちの「青騎士 (ブラウエ・ライター)」に作品を出品し、バウハウスでも教鞭をとっていました。
青騎士 (ブラウエ・ライター)
青騎士(あおきし、ブラウエ・ライター、ドイツ語: der Blaue Reiter)
1912年にワシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクが創刊した綜合的な芸術年刊誌の名前。またミュンヘンにおいて1911年12月に集まった表現主義画家たちによる芸術家サークルの名。
主な青騎士のメンバーは、ワシリー・カンディンスキー、フランツ・マルク、フランツ・マルク、ガブリエレ・ミュンター、ガブリエレ・ミュンター、マリアンネ・フォン・ヴェレフキンなど。パウル・クレーは公認のメンバーではありませんでしたが、青騎士に非常に親近感を持ち、作品を出品していました。
略歴
1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれる。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家でした。クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、その腕はプロ級であり、1906年(27歳)に結婚した妻もピアニストでした。クレーの音楽に対する深い理解は、バッハやモーツァルトらの古典音楽からストラヴィンスキーやヒンデミットら現代音楽にまで幅広く及び、クレーの作品の画題には、ポリフォニーやフーガといった音楽用語が用いられているものもあります。
その一方で、絵画への関心もすでに幼少の頃から芽生えていました。また文学にも興味を持っていましたが、迷った末にクレーは絵の道を選びました。
ただ絵に専念することを決めた後も音楽や文学への関心は薄れることがなく、一日にヴァイオリンを何時間も演奏したり、また詩を作って日記に記したりもしています。1897年(18歳)の頃から書き始めた日記は、日々の出来事や創作した詩を書くだけのものに留まらず、クレーの絵画および芸術に対する考えや方向性を鍛え上げていく場となっていました。
1898年(19歳)、当時はパリと並ぶ芸術の都だったミュンヘンに出て、2年後に美術学校に入学し、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受けました。シュトゥックはカンディンスキーの恩師でもありました。
象徴主義
象徴主義(しょうちょうしゅぎ、フランス語: symbolisme; サンボリスムとも)とは、自然主義や高踏派運動への反動として1870年頃のフランスとベルギーに起きた文学運動および芸術運動。象徴主義者を総称して「象徴派」(仏: symbolistes)と呼ぶ。ロシア象徴主義の開祖となった詩人ワレリー・ブリューソフなどにより、この運動はロシアにまで輸出されました。
フランツ・フォン・シュトゥック
フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck、1863年2月23日 - 1928年8月30日)は、ドイツの画家・版画家・彫刻家・建築家。1897-1898年に自らヴィラ・シュトゥックを設計しています。
学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後の1901年(22歳)に退学。同年から翌年(23歳)にかけてイタリアを旅行し、ルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回り、特に建築から多くを学ぶ。
1906年(27歳)リリー・シュトゥンプフと結婚。翌年(28歳)に、息子フェリックスが誕生。まだ無名の画家だったクレーには収入源が無く、リリーがピアノ教師として働くことで家計を支え、代わりにクレーは育児や家事を担う。フェリックスを育てる上でのクレーの手による詳細な育児日記が残されています。フェリックスはのちに「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでのクレー作品の保存に尽力しました。
クレーは、初期には風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、またアカデミックな手法の油絵を残しています。1906年(27歳)以降、ミュンヘン分離派展に銅版画を出品し、1910年(31歳)にはベルン等で個展を開いています。
ミュンヘン分離派
ミュンヘン分離派(Münchner Secession)は、19世紀末のミュンヘンで始まった芸術運動ユーゲント・シュティールの一グループ。保守的なミュンヘン芸術家組合(Münchner Künstlergenossenschaft)から分離する形で誕生したため、この名がついている。
この頃クレーは、セザンヌやゴッホらの作品に感銘を受けつつ独自の道を模索していました。またカンディンスキー、マルクらと知り合って特にマルクとは親友となり、彼らが立ち上げた「青騎士」展には第2回展から参加しています。
1912年(33歳)には、パリでロベール・ドローネ(20世紀前半に活動したフランスの画家)と出会い(この時にピカソやマティスらの作品に接している)、その後ドローネのエッセイ『光について』をドイツ語に訳しています。
この前後に光と色彩のフォルムや線描についての探求が始まり、特に線描については風景画において輪郭のみによる描写の単純化が進み、次第にその輪郭の線そのものが重視され、その自由な動きが追求されていきました。
その成果はヴォルテール(フランスの哲学者、文学者、歴史家)の小説『カンディード』の挿絵として描かれた一連の絵に結実するとともに、その後のクレーの絵の抽象化や独自の画風の確立にあたっての原点の一つとなります。
クレーの画業において転機となったのは1914年(34歳)春から夏にかけてのチュニジア(北アフリカ)旅行でした。
この旅行に感銘を受けたクレーは、鮮やかな色彩に目覚め、作風は一変しまた。
「色彩は、私を永遠に捉えたのだ」
という言葉が、チュニジアでの体験を表す一節として日記に残されています。クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のもの。またこの頃からクレーは抽象絵画にも踏み込み、その後の表現の幅は飛躍的に拡大していきました。1915年にはリルケ(オーストリアの詩人)と知り合い、互いの作品に関心を抱きあう。
第一次世界大戦(1914-1918)(35歳-39歳)が勃発すると多くの芸術家も兵士として動員され、クレーの知人であるマルクやマッケらは戦死しました。親友マルクの死は、クレーに大きな衝撃を与えましたクレー自身も1916年(37歳)から1918年(39歳)にかけて従軍しています。クレーが新進の画家として次第に認められるようになるのもこの頃から。この時期のクレーは絵に文字を取り込む実験なども行いながら、具象とも抽象ともつかない、あるいはその両面を備えた絵を手がけていました。
その後のクレーの作品の多くに見られる、抽象的でありつつ「かたち」が常に意識されて描かれているという傾向は、この頃から見られます。
1919年(40歳)にはミュンヘンの画商ゴルツと契約を結び、翌1920年(40歳)にはゴルツの画廊で大回顧展が開かれました。
またエッセイ『創造的信条告白』を発表し、現代美術の最前線に位置する画家の一人として知られるようになりました。
同年1920年(40歳)にヴァルター・グロピウスの招聘(しょうへい)を受け、1921年から1931年(42歳-52歳)までバウハウスで教鞭を取りました。
この時期にはニューヨークやパリで個展が開かれ、第1回シュルレアリスム展に参加するなど、クレーの名は国際的に知られるようになりました。またロシアから戻って同じくバウハウスの教授となったカンディンスキーとは、一時期アトリエを共有しており、オットー・ネーベルやクルト・シュヴィッタースらとも親交を深めました。
クレーは造形や色彩について講義を行い、のちにはカンディンスキーと共に自由絵画教室を担当するかたわら、絵画理論の研究に取り組み、多くの理論的著作を残しています。
造形について、色彩についての様々な研究は講義のための準備とクレー自身の表現の探求の両方を兼ねており、そのような研究を経るなかでクレーの芸術観と絵についての考えはいっそう深化していくことになりました。
その一方で各地への旅行も行い、特に1928年(49歳)から翌年(50歳)にかけてクレー協会(1925年に組織された、クレーの作品を優先的に購入することが出来る少人数の会)の支援を得て、実現したエジプト旅行は、その後のクレーの作品に多大な影響を及ぼしています。
バウハウス退職後は、1931年から1933年(52-54歳)までデュッセルドルフの美術学校の教授をしていましたが、1933年(54歳)のナチス政権の成立とともにはじまった前衛芸術の弾圧がクレーにも及び、批判も激化していきます。
美術学校からの休職の通達やアトリエの家宅捜索を受けたクレーは、身の危険を感じた妻リリーの促しもあり、生まれ故郷のスイス・ベルンに亡命しました。しかしドイツ国内の銀行口座が凍結され、経済的な困窮に陥ります。更に亡命の2年後に原因不明の難病である皮膚硬化症が発症し、晩年の5年間(1935-1940年/56ー60歳)は、療養と闘病のなかで制作を行うことになりました。ナチスによる弾圧は「退廃芸術展」へのクレー作品の展示、ドイツ国内の公的コレクションの押収にまで及びました。
亡命直後は創作もはかどらず、作品数も激減します、1937年(58歳)には復調。また同年には、ピカソとジョルジュ・ブラックが、それぞれクレーを訪問しています。1939年(59歳)には創作の爆発に達し、デッサンなども含めた1年間の制作総数は1253点に及びました。この頃の作風は、手がうまく動かないこともあって、単純化された線(色のある作品では太い場合が多い)による独特の造形が主なものとなっています。
一時期は背もたれのある椅子に座り、白い画用紙に黒い線を引くことにより天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返していました(その天使の絵に心を打たれた詩人谷川俊太郎は『クレーの天使』という詩集を出しています)。
1940年(59歳)、画架に『無題(静物)』を残してロカルノ近郊のサンタニェーゼ療養所に移り、その地で死去しました。ベルンのショースハルデン墓地にあるクレーの墓石には
「この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」
というクレーの言葉が刻まれています。
人物
「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張していたクレーの作品は通常のキャンヴァスに油彩で描いたものはむしろ少なく、新聞紙、厚紙、布、ガーゼなどさまざまな支持体に油彩、水彩、テンペラ、糊絵具などさまざまな画材を用いて描いています。サイズの小さい作品が多いことも特色で、タテ・ヨコともに1メートルを超える『パルナッソス山へ』のような作品は例外的。
2005年6月には故郷ベルンに約4000点の作品を収蔵し、彼の偉業を集大成した「ツェントルム・パウル・クレー」(パウル・クレー・センター)がオープンしています。パウル・クレー・センターの設計は、建築家のレゾン・ピアノ。
パウル・クレーの主な作品
パウル・クレーの作品が見られる日本国内の美術館
Artizon Museum
宮城県美術館
宮城県美術館にはパウル・クレーの作品35点が所蔵されています。ちなみに宮城県美術館本館の設計は、前川國男氏。
関連記事
参照
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https://en.wikipedia.org/wiki/Cy_Twombly#cite_note-17
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※3