知っておきたい建築家 ヴァルター・グロピウス
知っておきたい建築家
建築には時代区分のようなものや流行などがあり、中世あたりからは芸術と(宗教と)、そして近代になってからはデザインと大きく関わるものになっていきます。建築について知ると街で見かける建物から得られる情報量が急激に増えて、散歩しているだけで楽しくなります。また自分で家や空間を作るとき、オフィスのデザインを依頼するときにも役立ちます。有名な建築家を知ることはそんな建築を知るもっとも手っ取り早い方法です。そんな建築を理解するのにおすすめな建築家たちを紹介していきます。
ヴァルター・グロピウス
名前:ヴァルター・グローピウス(Walter Gropius)
生没:1883–1969
国:ドイツ
ヴァルター・グローピウス(Walter Gropius)は、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエとともに近代建築の四大巨匠のひとり。「バウハウス」の創立者であり、命名者であり、1919年から1928年までは、バウハウスの校長(初代)を務めていました。
グロピウス氏、は著書『国際建築』(1925年)で、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすと主張しています。
グロピウス氏が設計し、1926年に完成したバウハウス デッサウ校は、まさにその実例となるように意図されたもので、結果もモダニズム建築の代表作として世界的に認知されることとなりました。ベルリンにはグロピウスの名を冠したグロピウス地区があります。
グロピウス氏の生涯
1883年 ベルリンにて、父アドルフ・グロピウス氏と母マノン・オーギュスト・パウリーン・シャルンウェーバー(1855-1933)氏とのあいだの3番めの子供として誕生。母マノン氏は、プロイセンの政治家ゲオルク・シャルンウェーバーの娘。大叔父のマルティン・グロピウス(1824-1880)は、ベルリンのクンストゲヴェルベ美術館の建築家。
1903年-1907年(20歳–24歳) ミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学ぶ。
1908年-1910年(25歳–27歳) ペーター・ベーレンスの事務所に入る。ここでミース・ファン・デル・ローエと出会う。
1911年(28歳) 『ファグスの靴型工場』を設計(後述)。
1926年-1928年(43歳–45歳) デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅(ジードルング)を建設(後述)。
1915年(32歳) グスタフ・マーラーの未亡人アルマ・マーラー(1879-1964)と結婚した。
1915年(32歳) アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからヴァイマルの工芸学校を託さる。1919年に統合され国立バウハウスが開校すると、グロピウスは初代校長となる。当初は総合芸術としての建築教育を目指すものでしたが、カンディンスキーらのアヴァンギャルドな造形教育の場となっていく。
1916年(33歳) 娘マノンが誕生。
1920年(37歳) マーラーと離婚。
1928年(45歳) ハンネス・マイヤーを後任に指名し、にバウハウスの校長を退く。バウハウス閉鎖後、事務所にいた山口文象とともにドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命。日本生まれのカナダ人建築家, ウェルズ・コーツ(英語版)が設計したロンドンにあるモダニズム建築のアパート「アイソコン・ビル(Isokon Flats)」にマルセル・ブロイヤーらとともに住んでいました。
1935年(52歳) マノンが小児麻痺で18歳の若さで死去。このとき作曲家アルバン・ベルクはマノンを偲んでヴァイオリン協奏曲を書く。
1937年(54歳) ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴く。共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(1958年、現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計)などを設計。
1923年(40歳) イゼことイルゼ・フランクと結婚。イゼの妹ヘルタの遺児アティことベアテ・フランクを養女とする。
1983年6月9日 マサチューセッツ州レキシントンで死去。享年86歳。
ヴァルター・グロピウスの建築物
ファグス靴型工場(1911)
アドルフ・マイヤー(Adolf Meyer)とともに設計。後のバウハウス校舎を思わせる鉄とガラスを用いた初期モダニズム建築。
ジードルング(1926)
グロピウス・ハウス(1937)
グロピウス・ハウスは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州リンカーンにグロピウス氏が妻イセと娘アティの住まいとして設計した建造物。
パンナムビル(1958)
現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計。
まとめ
思うに、ル・コルビュジエ氏やフランク・ロイド・ライト氏に比べて、ヴァルター・グロピウス氏の知名度は高くありません。ミース・ファン・デル・ローエ氏も最初の二人に比べると日本ではあまり知られていないようです。しかしミース氏はもうちょっと華やかさがあり、グロピウス氏は少し地味だと捉えられがちです。
しかしそれは、グロピウス氏が主観よりも社会にある問題の解決を優先し、体系的な取り組みをすべしという思想の体現がゆえでした。またグロピウス氏は、こういった思想や考え方を後世に残していった教育者としてのほうが評価されています。さすが校長先生。
バウハウスやモダニズムが産業革命以降の大量生産や工業などとアート、機能、合理などの融合、実利と心地よさの融合といったものを目指すなかで、グロピウス氏は、ビジネスや技術者の硬直した精神と創造的な芸術家の想像力との間のギャップの埋めていくことを目指して、教育や伝導を行ってきたのではないかと思います。
日本の建築にはバウハウスやモダニズムの影響を受けたものが多くあり、現存しています。がゆえに訪れたり、見たりすることが叶うので、楽しめるのですが、その先に存在していたグロピウス氏の存在に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。どこから生まれ、どこに行くのか。まるでゴーギャンの絵のようですが、人が作りしものの多くに含まれるナラティブ(物語)をうかがい知るのは、世界の深淵を覗くような体験につながっていきます。
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参照
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