知っているようで知らない 「アラビア数字」
ビジネスに使えないデザインの話
ビジネスに役立つデザインの話をメインに紹介していますが、ときどき「これはそんなにビジネスには使えないだろうなぁ」というマニアックな話にも及びます。今回の話は、あまりビジネスには使えなさそうな話です。noteは、毎日午前7時に更新しています。
「アラビア数字」
アラビア数字(英: Arabic numerals: 通常は、digitとかfigureという表現をします)は、皆さんが普段使っている数字「 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9」です。起源は、インド数字。ヨーロッパにアラビアを経由して伝わったため、アラビア数字と名付けられました。日本にもその名前で伝わったため、日本でも「アラビア数字」と呼びます。計算に使う数字でもあるので「算用数字」とも呼びます。日本では、明治まで「和算」(という名は明治になって輸入された「洋算」に対してつけられたもの)として、数学が盛んでした。関 孝和(せき たかかず)という江戸時代の和算家が有名です。このころは、まだアラビア数字は使われていません。
「インド数字」はアラビアで使われている
インド数字は、アラビア語などでアラビア文字と共に用いられる数字です。インドの数字に由来しているため、「インド数字」と呼ばれていますが、インドではなくアラブ諸国・アラビア語圏で使われる数字です。英語では、アラビア数字を「西アラビア数字(Western Arabic numerals)」、インド数字を「東アラビア数字(Eastern Arabic numerals)」と呼び分けることもあります。アラビア文字は、右から左に書かれる文字なのですが、インド数字は、左から右に書かれます。アラビア文字で書かれた文のなかでもインド数字の部分だけは、左から右に向かって書かれます。アラブ世界では、この両方を使っています。
インドで使われる数字
インド数字がアラビアで使われているなら、インドではどんな数字が使われているのか? インドで使われる数字は、デーヴァナーガリー(Devanagari numerals)という文字の数字が使われています。デーヴァナーガリーの数字は、このような字形です。
ちょっとした「まとめ」
アラビア数字は、インド数字を由来としているけれど、インド数字はインドじゃなくてアラビアで使われている?インドでは、デーヴァナーガリーという文字の数字が使われいる? 時系列にして、流れをまとめないとよくわかりませんね。ごめんなさい。
西洋および日本でも使われれるアラビア数字(0, 1, 2…)。この始まりはちゃんとインドです。それからの流れは、インドからアラビアに伝わり、アラビアからヨーロッパに伝わり、ヨーロッパから日本に伝わってきました。起源はインド最古のブラーフミー数字です。以下が数字の進化図です。
なんと、今のアラビア数字になったのは、16世紀に入ってからなんです。それまで西洋では、ローマ数字を使っていました。ローマ数字(Roman numerals)は、時計などではときどき見かけるこのような形の数字です。
さて、混乱しないように時系列で現在のアラビア数字までの系譜を辿っていきましょう。まずは、インド最古のブラーフミー数字から。
ブラーフミー数字
ブラーフミー数字(Brahmi)とは、紀元前3世紀以前ごろから、古代インドで使われていた数字です。これがアラビア数字の起源です。しかしブラーフミー数字はまだ、位取り記数法(くらいとりきすうほう)ではありませんでした。位取り記数法とは、N進法とも言われますが、あらかじめ決めた数の記号が、すべて出尽くすと桁が変わるというシステムです。たとえば10進法なら9のつぎ、桁が変わって10になります。なぜブラーフミー数字がまだ位取り記数法ではなかったのかというとこのころはまだ
ゼロが発見されていなかったから
です。ブラーフミー数字から3世紀〜5世紀ごろになって、バクシャーリー数字(古シャーラダー数字)が生まれ、やがて9世紀ごろにグワリオール数字(Gwalior)が完成します。しかしグワリオール数字のまえにゼロの発見(発明)があります。
「0(ゼロ)」の発見は7世紀のインドの数学者
最初に「0(ゼロ)」というものを定義したのは、7世紀のインドの数学者、ブラフマグプタ(Brahmagup)という方でした。数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(628年)のなかでブラフマグプタは、数としての0(ゼロ)の概念を記しています。しかし紀元前500年頃、古代バビロニアでは、記号としてのゼロはすでに存在していました。しかし「0」という表記ではなく、楔形文字が使われていました。しかし、これは記号としてのゼロであり、ブラフマグプタは、「0(ゼロ)」を数学的演算の値として定義したところに「発見」または「発明」と言えます。これによって位取り記数法が可能になりました。
この数字の進化図をみるとわかりますが、一番上のブラーフミー数字には「0(ゼロ)」がありませんが、上から2つ目のグワリオール数字には、ゼロが出現しています。
グワリオール数字の次
グワリオール数字の次は、サンスクリット・デーヴァナーガリー、西アラビア数字、東アラビア数字へと進化していきます。サンスクリット・デーヴァナーガリーはインドで使われるデーヴァナーガリー文字へ進化していきますが、グワリオールは、アラビアに伝わり、これが東アラビア数字と西アラビア数字に分岐していきます。この辺はちょっと端折って、ヨーロッパでどのようにアラビア数字が広がったのかというと、天文学者で数学者でもある、フランス人初のローマ教皇となった、シルウェステル2世がまずアラビア数字を使いはじめました(980年頃)。
しかし本格的にヨーロッパで普及させたきっかけを作ったのは、フィボナッチ数列のレオナルド・フィボナッチでした。
レオナルド・フィボナッチは、12〜13世紀のイタリア、ピサの数学者です。フィボナッチが13世紀初頭に出版した『算盤の書(ラテン語:Liber Abaci)』(1202年)では、アラビア数字による筆算を紹介し、これがヨーロッパでアラビア数字が広がったきっっかけとなりました。(しかしこのときはまだ四則演算記号は発明されていません。このとき広めたのはアラビア数字による十進位取り記数法による計算。)
このとき、まだ印刷は発明されていないので、この本は写本であり、手書きです。印刷術が発明されたのは、15世紀の1450年頃。ヨハネス・グーテンベルグが金属活字を使った活版印刷を発明します。
印刷により、フィボナッチの『算盤の書』が広がり、それとともにアラビア数字がヨーロッパに広がっていきます。そして16世紀中頃になってヨーロッパでは、ローマ数字からアラビア数字に置き換えて、計算や記述に使うようになりました。
フィボナッチ数列
ヨーロッパにアラビア数字を普及させるきっかけとなった『算盤の書』のフィボナッチですが、彼の「フィボナッチ数列(Fibonacci number)」は、
0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144, ...
という前の数字と足した和賀次の数字になるという単純なん数列で、これは、デザインにもよく用いられる「黄金比」に近づく数列でもあります。
日本にアラビア数字が伝わったのはいつ?
日本には西洋経由と洋算とともにアラビア数字が伝わりました。「洋算」はアラビア数字を使って、紙に書いて計算ができるもので、文字だけではなく、その技術と一緒に伝来してきました。それまでの日本は、そろばんを使って計算していました。そんな「紙に書くだけで計算できちゃう技術、洋算」についての書籍で紹介しているのが、江戸時代末期から明治時代にかけての大阪出身の数学者、 福田理軒(ふくだ りけん)氏。福田理軒氏の『西算速知』(1857年)には、このような記述があります。
内容は、数学ができないと国力も諸外国に比べて対等なものにできないから習得すべし。西洋で使われている筆算(ひっさん)は習得は簡単だし、紙があるだけで計算ができちゃう、すごい技術だ、みたいなもの。そして、アラビア数字を伝えたのは、梁河春三氏の『洋算用法』という著書でこれも1857年のもの。
まとめ
西と東のアラビア数字を端折ったものの、それでも、まだ位取り記数法ではなかった古代インドのブラーフミー数字から始まり、「0(ゼロ)」の発見を経て、グワリオール数字となり、それがアラビアを通じて、ヨーロッパに伝わり、それをレオナルド・フィボナッチが若干広め、つぎにヨハネス・グーテンベルグが発明した活版印刷によって爆発的にヨーロッパに広がり、それから300年ほどしてペリーらによって鎖国が解かれて、西洋文化と技術がどっと流れ込んできた19世紀中頃になって日本にアラビア数字が入ってきました。これが、アラビア数字が生まれて、日本に到達するまでの歴史と道のりです。わたしたちが何気なく使っているアラビア数字ですが、日本に到達したのは150年ほどまえだし、ヨーロッパで使われるようになり、今のような形になったのも16世紀です。意外なアラビア数字の出自と歴史と成長の話でした。それにしてもインドの数学すごい。でも日本の数学もすごいんですよ。あのフェルマーの最終定理を解くきっかけを作ったのは日本の数学者、志村五郎、谷山豊、岩澤健吉です(この話も面白いのですが、これについてはこちらの書籍に話を譲りたいと思います)。
飲茶(著)『哲学的な何か、あと数学とか 哲学的何か、あと科学とか』
参照
※1
http://www.tcp-ip.or.jp/~n01/math/arabic_number.pdf