《週末アート》マガジン
いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。
1897年のモンマルトル大通り
パリのなかで一番高い丘がモンマルトル。その丘に1877年に着工し、1914年に完成したのがサクレ・クール寺院。
19世紀中頃のモンマルトルはまだ農村風景が残っていましたが、ナポレオン3世の指示で都市の中心部に住んでいた住民たちが家を失い、彼らはパリの外縁部に移転をしなくてはならなくなりました。その移転先のひとつがモンマルトルで、徐々に栄えていきました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、モンマルトルは貧しい芸術家たちの集まる拠点となりました。このころのモンマルトルは、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ねるデカダンな歓楽街となっていました。
そんな19世紀末のモンマルトル大通りをホテルから季節違いで描き続けたのがカミーユ・ピサロでした。
お父さん的な画家、カミーユ・ピサロ
名前:カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)
生没:1830年7月10日 - 1903年11月13日(没73歳)
生まれ:デンマーク領・セント・トーマス島
没:フランス共和国・パリ
1830年、カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島(Saint Thomas)で生まれる。
セント・トーマス島の位置
ピサロ氏は、セント・トーマス島で家業の金物屋を手伝っていましたが、画家フリッツ・メルビュー氏に誘われ、1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、家族と仕事を捨て島を出てベネズエラに住み、絵を描きます。風景や村の風景など、描けるものはすべて描き、スケッチブックが何冊も埋まるほど数多くのスケッチをしました。
ベネズエラは、セント・トーマス島を南下した南アフリカ大陸にある国。
1855年(25歳)、画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌ、アルマン・ギヨマンといった画家と知り合う。1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選するが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しいものでした。当時はジャン=バティスト・カミーユ・コローにならった画風。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派(名前の由来は、マネのアトリエとカフェ・ゲルボワがバティニョール地区にあったため)と呼ばれる。
1869年(39歳)からパリ郊外のルーヴシエンヌ(Louveciennes)に住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作(プレイン・エア(en plein air))を行ううちに、明るい色調の絵画を描くようになる。
ルーヴシエンヌ(Louveciennes)の場所
1870年(40歳)の普仏戦争(「ふふつせんそう」フランス帝国とプロイセン王国の戦争。1870-1871)を避けてロンドンにわたり、画商ポール・デュラン=リュエル(Paul Durand-Ruel)と知り合う。
1872年(42歳)からはフランス中央部のポントワーズ(Pontoise)に住み、田園風景を描く。
フランス、ポントワーズの位置
サロンへの応募はせず、画商デュラン=リュエルの支援を受けて制作を続ける。モネらとともに独自のグループ展を計画し1874年(44歳)、第1回印象派展を開催。しかし当時主流だったアカデミズム絵画の立場からは受け入れられず、新聞からは酷評される。その後も、印象派展は全8回開催され、全てに参加したのはピサロだけ。第4回印象派展の頃から、主に風景画を描くモネ、ルノワールらの仲間と、風俗画を描くドガとの間でサロンへの立場など様々な問題について意見の対立が顕在化し、ピサロもその調停を試みたがグループの分裂を防ぐことはできず。第7回印象派展の開かれた1882年頃には、ピサロは人物画を中心に描くようになる。
1884年(54歳)からは、フランスの更に田舎、エラニー(Éragny)に住む。
フランス、エラニーの場所
1885年(55歳)、若手のジョルジュ・スーラと知り合うと、その点描の技法に感化され、1880年代後半は、周囲の不評にもかかわらず、新印象主義を追求しました。
最後となる第8回印象派展にスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品させたのもピサロでしたが、この展覧会は、印象派の終焉を象徴するものとなりました。1890年代初めには、点描の限界を感じて新印象派を放棄。晩年は眼の病気が悪化したこともあり、パリ、ルーアン、ル・アーヴル、ディエップという4都市で、ホテルの部屋などから都市の情景を描く「都市シリーズ」を多く制作。ピサロの関心が都市に向かった理由としては、ヴェネツィアの都市風景画や日本の浮世絵を見たこと、都市生活に対する関心、経済的動機、モネら印象派の仲間との交友の再開などが挙げられています。パリの風景は、サン・ラザール駅界隈のもの(1度目は1893年、2度目は1897年初頭)、テュイルリー公園の連作(1900年頃)、セーヌ川にかかるポンヌフの橋(1900年-01年)など。
ピサロは1903年11月13日にパリで死去し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。ペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise)は、フランスのパリ東部にある墓地。
ピサロ氏が生涯残した油彩画作品は1,316点、版画は200点余りに上る。
モンマルトル大通りシリーズ
まとめ
ピサロ氏は存在としては重要なわりに作品のインパクトが少し弱いように感じる画家です。他人の華やかではない記憶を喚起するような風景画なんです。しかしモンマルトル大通りシリーズの夜を描いたものは、湿度があり、甘い気配のある記憶のような風景なんです。この絵は、モーリス・ラベルのピアノソロのアルバムのジャケットになっていて、その組み合わせが素晴らしいんです。
ピサロの友人でもあるフランスの美術評論家、テオドール・デュレ(Théodore Duret)が、ピサロへの手紙でこう書いています。
わたしのなかでは、デュレ氏がいうところの「決定的な何か」を感じるような気がするのが、この夜のモンマルトル大通りです。ずっとずっと記憶に残り、ときどき思い出すのです。絵画というよりは記憶の中の風景として。
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参照
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