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愛の罵倒

学部時代のレポートでわりあい変なことを考えていたので、今の自分の考えも加えつつ、書き直していこうと思う。
今日は、差別や批判と比較しつつ考える、罵倒表現のお話。
※個人的見解に基づいています。


「あほ」の世界

突然だが、わたしは関西人である。

もう全国民のみなさんがご存じだとは思うけれど、関西人は簡単に人をけなす。
漫才でもそれは顕著だし、言い方も相まって、特に東日本の方々には怖いと言われる始末だ。
ここで言い訳かのように一応述べておくが、わたしはかなり優しい関西人です。

さて、一般に、関西で使われる軽い罵倒表現といえば「あほ」である。
正直に言うと、関西人は誰でも使う。みんな絶対使う。
1日に1回は必ず言うかもしれない。

これも有名な話だが、「あほ」という言葉はただ単に罵倒するためだけの言葉ではない。
関西人いわく、“愛のある罵倒”である。かわいいという意味を込めているときもあり、愛情表現の場合でさえある。

しかしこれは地域的な認識に過ぎない。
東日本(もしくは関西地方以外)の人にとってしてみれば、これは完全に罵倒されているとしか思えないそうである。
逆に関東では、関西人が言われると罵倒されていると感じる「ばか」のほうが愛情はあると主張するのだ。

ちなみに個人的な意見では、なぜ関西人が「ばか」を嫌がるのかと言うと、同じ軽い罵倒でもニュアンスの違いにその秘密があるのだと思っている。
「あほ」はいわゆる天然、ドジなときに使うイメージで、「ばか」は勉強ができないとか頭が悪いとかそういう意味に聞こえるのだ。
……もしかして、関東ではこれが全くの逆だったりします?

話は戻るが、確かに単に「あほ」と言うだけでは罵倒されていると感じる人も多いかもしれない。
関西人でも「あほ」単独で使用することは滅多にない。
愛情を表すために、様々な工夫を凝らしているのである。

例えば、「あほやなあ」というように言葉を付け加える。
これで言葉尻が間延びし、柔らかい印象になるだろう。
また「あほっぽい」、「あほみたいな」のように、形容詞や形容動詞の語尾をつけることによって少し遠回しの表現になり、鋭さを削ることも可能だ。
さらに、会話は言葉だけではない。
ノンバーバル言語の存在を忘れてはならない。
表情、声のトーン、間、しぐさなどをフル活用すれば、
「あんたほんまあほやなあ…(母が子を慰める)」
という心温まるシチュエーションや、
「あほっ!(照れを隠す)」
といった少女漫画の一コマのような場面を醸し出すことも可能なのである。


子どもと罵倒表現

このように、あからさまに罵倒表現をそのまま使用することはほとんどない。
日常会話ではもちろん、一部のものを除いて文章でもそれは同じである。

特に子ども用の絵本などでは、明らかな罵倒表現は避けられているし、避けられるべきだと思う。
これはその言葉を使うのが教育上よいとは言えないから、という表面的な理由だけではない。子どもが正しい言葉の意味も分からず、腹が立った時に使う言葉などとして認識してしまうことが危険であるとされているのだ。

しかし、私が読んできた絵本の中で一つ婉曲表現のない罵倒の言葉が出てくるものがある。
それは『ノンタンのたんじょうび』という人気絵本シリーズのうちの一作である。
主人公の白猫ノンタンの誕生日に、友だちがサプライズパーティーを計画する。みんながコソコソしているので、ノンタンは仲間外れにされたと感じて怒ってしまう。ここでのノンタンの台詞がこれである。

「くまさんのどてかぼちゃっ!
ぶたさんのとうへんぼくっ!
たぬきさんのおたんこなすっ!
うさぎさんのへちゃむくれっ!
もういいよ。あそんであげないから…。」
 (『ノンタンのたんじょうび』)

ここで使われているのは、「どてかぼちゃ」、「とうへんぼく(唐変木)」、「おたんこなす」、「へちゃむくれ」の四つである。それぞれの意味を調べてみた。

【どてかぼちゃ】どこにでも転がっている価値の低いもの。(ドラマ『どてかぼちゃ』)

【とうへんぼく】気が利かず偏屈なこと。(『岩波国語辞典第七版新版』)

【おたんこなす】まぬけ。とんま。人をののしっていう語。(『大辞林』)

【へちゃむくれ】人の容貌などをののしっていう語。(『大辞林』)

どれも直接的に罵倒する表現であり、子ども絵本に使用されていることに改めて驚く。
しかし、これらの言葉の特徴は、こうして調べなければ言葉の意味自体をはっきりと知ることはできないということだ。

読み聞かせをしてもらうほど幼かった当時、わたしはこの表現をかわいいとさえ感じていた。
「とうへんぼく」であればまだ最近の国語辞典にも載っているが、他の三つは古いものでなければ載っていないか、作られた言葉である可能性もあるのだ。
最近ではこんな言葉はもう使うことはおろか、耳にすることさえ少ないのである。

大人はぎょっとするかもしれない、しかし子どもにはその意味が取れず、ただちょっと拗ねてしまったかわいいノンタンとしか映らないのである。
これらを考えると適切な表現とは言えないのかもしれない。

だが、こう考えてみてはどうだろうか。幼い子どもでも意味の取れるような、簡単で軽く使ってしまえる直接的な「ばか」や「あほ」という言葉を用いたくなくて、わざとこんな表現にしたのではないか?
意味は分からないが、とにかく怒っている、さみしい、悲しいのだという感情を伝えるには十分の音である。
濁点や「ゃ」、「ん」の音が入ることによって、おきれいな意味の言葉ではないが、どこかかわいらしさを感じることが可能かもしれない。
こう考えると、この言葉を使った作者の意図も分かる。


差別との線引き

「ばか」や「あほ」は、汎用性が高いが、これに比べてノンタンの絵本で用いられた表現では特異性が付け加えられている。

“○○な人”という範囲の狭い特徴を持つ人に対して、その特性を罵るという種類の表現である。
このような言葉には他にも、「キチガイ」、「落ちこぼれ」などがある。
これらは放送禁止用語としてテレビ局が自主規制していたり、差別用語とされて校閲で他の表現に言い換えられたりする。

よく聞くのは「キチガイ」だろう。
確かにかなり不快な言葉だ。自分に向けられたものでなくても、嫌な気持ちがする。
生放送でコメンテーターが口にしてしまったことにアナウンサーが神妙な顔で謝罪したのが話題になり、これが物議をかもした。
どこまでを差別表現とするかの線引きは難しいと言われている。

実際、差別表現とするのは少し行き過ぎではないかと感じることがある。
その言葉でしか言い表せない場合もあるだろうし、規制をかけていけばそのうち言葉狩りが始まってもおかしくはない。
もう既に始まっているのかもしれない。

特定の言葉を耳にして気分を害する、傷つく人がいる、差別が新たに広まるということが、禁止であるゆえんであることは分かる。
もちろん、わざわざ残す必要はないと感じる言葉も存在する。
ただし、その言葉について議論したい場合や、作品にその差別用語を用いていた時代が描かれている場合でも、完全に使用を禁止すべきなのだろうか?

上記のような婉曲表現を使用するのではダメだろうかと思う。
「いわゆる“きちがい”」というようにカタカナではなくひらがな表記に、ダブルクォーテーションで括り、俗的に言われている表現ではこうですと主張するだけで、鋭さは全く異なってくる。
テレビならこれにアナウンサーのノンバーバル言語が加わる。
変に言い回しを変えれば分かりにくいし、こういった配慮が見えるだけでも差別・侮蔑といったニュアンスは抑えられる。

……とは言うものの、もちろん、このようなことを考えてきた人は今までにいくらでもいただろう。けれど浸透しない。
差別の根は深い。もし本当に完全に差別が無くなったら使ってもいい言葉というのが、そこにはたくさんあるのかもしれない。


罵倒は批判の代わりにはならない


ここで少し話題が変わる。
最近、SNSでよく見かけ、ニュースなどにもなっている”誹謗中傷”。
確かに糾弾されても仕方ないのではと思うような言動も、賛否両論あるような話題もある。

批判というのは、「これはダメだ」「最低だ」と罵る(つまり罵倒する)ことではない……気がする。批判とは、
「それは、こんな理由で間違っている。ゆえに、こう正すべきである」
もしくは、
「それは、ここがこういう理由で素晴らしいが、あそこはこんな理由で違う」
だと思うのだ。

ある人や団体が打ち出したメッセージや作品、考え、言動など、生み出すものすべてに、受け取り手は批判する権利がある。
意見は人それぞれで違うし、共感や納得ができることも、聞いて初めて理解できることも、何度聞いても受け入れられないこともある。
でも、批判について確実に言えることは、これは論理的なものでなければならないということだ。

決してそこに感情が1ミリも入ってはいけないということではない。
もし嫌な気持ちになったなら、その理由を説明すればよい。
全部は好きになれないが、ここだけはいいと思うなら、それをそのまま言えばよい。
否定だけが批判ではないし、合理性だけが批判でもない。
もっと開かれた、自由なものだと思うのだ。

ただ、確かにわたしたちは、大人になった今でも批判についてよく知らない。
海外ではその勉強をするようだが、日本ではハッキリ言わないのが美徳だとされたりするのもあり(いい部分もあるんだけど)、ほとんど批判の仕方を学んでこない。
だから、する側もされる側も、批判と罵倒の違いが分からない。

けれど、時代も変化して、今は一人一人の意見が直で届く世界になってきている。
痛ましい事件も起きている。
早急に学ばなければならない。


最後に

わたしたちはもっと、言葉の影響力を身を持って感じなければならない。

耳にタコができるほど聞いてきた。
歴史のページに刻まれた、偉大な先人の革命の言葉や、人々を虜にした言葉、服従させた言葉。
言霊は単なるおまじないではないということ。
それらをもう一度、舌の上でゆっくりと転がしてみるべきなのかも知れない。

特に負の側面を持った言葉や意見を交わす時には、慎重になりすぎるくらいが丁度いい。
上手く使えるようになって、消える言葉も減っていくといい。
色んな事をずっと忘れずにいられるように。
お互いをより理解し、愛し合えるように。


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