八重のこと、節ちゃんのこと
11月の初め、私と節ちゃんは横須賀線の車内にいた。節ちゃんと会うのは8年前の神楽坂でのランチ会以来だった。私たちは、6人グループの仲間のひとりである、八重の家がある千葉に向かっていた。
八重のお連れ合いから、節ちゃんに連絡があったのは前日のことだった。八重の〈連絡してほしい人一覧〉の、大学時代の友人の一番最初に節ちゃんの名前があり、それで電話をしたということで、もう長くないと思うので会いに来てやってください、というのが連絡の趣旨だった。節ちゃんから私に電話があり、残りの3人にも手分けして連絡し、結局私と節ちゃんだけが行くことになった。横須賀に住む節ちゃんと鎌倉に住む私は、大船駅で待ち合わせをした。改札口で落ち合うと、節ちゃんは目を伏せてぽつりと言った。
「八重ちゃん、今朝亡くなったって。メールがきた。」
ああ、間に合わなかったかと、切ない気持ちに襲われたが、身も世もなく泣き崩れるような悲しみではなかった。
大学を卒業して43年が経っている。結婚式に招きあい、数年に1度のランチ会、温泉旅行と、なんとか切れることはないという程度に続いた来た付き合いだ。その数年に1度の再会の時、顔を見た瞬間は戸惑うが、次の瞬間には大学時代の私たちに戻るのが嬉しくて、会えばなんとも華やいだ気持ちになったものだ。
今朝亡くなったとなると、昼頃には親戚中が集まっているのではないか。葬儀の手配やら何やらで、大変な時に行くのはどんなものかと二人で相談したが、八重の顔を一目見たいという気持ちを抑えきれず行くことにした。大船から稲毛まで1時間半ほどの道のりを、節ちゃんと8年分の隙間を埋めるように様々な話をした。
8年前のランチ会は、定年退職まで残すところ、あと1年というタイミングだった。その時八重が、健康診断でちょっと嫌な結果が出ているのよねと話していたのだが、その後八重は定年を待たずに59歳で退職した。それから4年後のランチ会の時には、八重はひとりで来ることができず、お連れ合いに送り迎えのサポートをしてもらって参加した。その時私は海外生活をしていたので参加できなかったが、別の友人から、八重ちゃん、もう長くないのではと心配する言葉を聞かされていた。だから遠からずこんな日が来ることを、私たちは予期していた。
稲毛にある八重の家に着くと、案に反して家はしんと静まり返っていた。呼び鈴を押すとすぐにお連れ合いが出てきて、八重の寝室に招き入れてくれた。八重のお連れ合いには結婚式以来で40年ほど前に会ったきりであったが、印象は変わらず、若い時と変わらぬままの人もいるものだと思った。コロナ禍で、入院させてしまうと、下手をすると看取りができないかもしれないという危惧から、自宅の一室を病室にして、お連れ合いが看護をしてきたということだった。八重は安らかな顔で眠っているように見えた。お連れ合いは私と節ちゃんを知っていた。というのは、ここ数か月で、八重と一緒に写真の整理をして、その時に大学時代の写真も見たからということだった。私たちは八重に、友だちでいてくれてありがとうと感謝の言葉をかけて別れた。
それから5日後に八重の葬儀は行われた。喪主の挨拶で、お連れ合いは八重との出会いから始まって、二人の結婚生活、八重の発病と治療経過、そして死に至るまでを丁寧に語った。それは30分以上を費やしてのことで、お連れ合いの八重に対する深い愛情を十二分に知らせてくれた。その話の中で、死の1週間ほど前に、八重が笑いながらお連れ合いに「楽しかったね」と言ったということが語られた。私は八重のその声が聞こえるような気がした。
大学入学後の最初のクラスコンパの時、八重は、八月八日に生まれたから八重なのだと自己紹介をした。それも印象的だったが、その時発せられた声がかわいらしくて驚いた。八重は水泳部に入り、いつも真っ黒に日焼けしていた。背がすらりと高く、背筋がピンと伸びていて、まっすぐに教師を目指すような人だった。凛とした人なのだが、声を発すると、それは本当に甘い声なのだ。甘ったるい話し方ではなく、声質がなんとも甘いのだ。八重に自分の名前を呼ばれると幸せな気分になるほど、私は八重の声が好きだった。八重のその声が「たのしかったね」という永訣の言葉をお連れ合いに送ったのだ。ああ、八重は幸せな人生を生きたのだということが実感され、温かい気持ちになった。
ところで葬儀の帰り道、節ちゃんに誘われて駅近くのファミレスに寄った。八重のことで5人で連絡を取り合う中で、いつ会えなくなるかわからないから、八重はいないけど、今度は5人で温泉にでも行こうという話が出ていた。ところが節ちゃんは行かないと言うのだ。そしてその理由を話したいからということだった。
席について注文すると、節ちゃんは突然号泣し始めた。それは周囲の人が驚くようなありさまだった。茫然とする私に向かって節ちゃんは言った。
「私は心の病気なの。私は子どもを持てなかったことが辛くて苦しくって、どうしようもないの。最初の夫が亡くなって、30代の終わりに再婚したのは、子どもが欲しかったからなの。でも子どもができなくて、不妊治療もしたけど、結局できなくて。だから、みんなと会って子どもや孫の話を聞くのは堪えられないし、そういうわけで、旅行には行かないの。ごめんね。」
返す言葉がなかった。私もすぐに子どもに恵まれたというわけではなかったので、子を渇望する思い、それでもできない苦悩、絶望感はよく理解できる。しかしそれが66歳の今に至るまで解消されることなく続いているとは思わなかった。6人のうち、子どもを持たなかったのは節ちゃんだけだ。若い頃は互いの家庭を夫婦で行き来もしていた。だから会えば互いに家族の近況報告もしてきた。それが、ここまで節ちゃんを苦しめていたとは。
「自分で自分が異常だとわかっている。でも乗り越えるから、待っていて。」と節ちゃんはどこまでも健気なのだった。旅行は当分なしにしようと私は決めた。
さて、霜月から師走にと替わった頃に、八重のお連れ合いからからメールがきた。3枚の写真とその撮影場所を尋ねる内容だった。その3枚の写真は、八重と私が大学4年の12月に、ヨーロッパ旅行をした時のものだった。ローマなのかパリなのか、また具体的に市内のどこなのかを知りたいとのことだった。66歳の今、22歳の時のことを聞かれても、こちらも写真を引っ張り出さなければわからない。年末の大掃除の時に写真を探すから待ってくれるように頼んだところ、さらに連絡があり、ヨーロッパ旅行の写真は20枚ほどあり、できればそのすべての撮影場所を教えてほしいと言う。勿論、それを調べることについては快諾した。そんなことでお連れ合いの悲しみを少しでも慰められるのなら、喜んでお手伝いするのだが、私の心の中に一抹の不安がある。
亡き妻の結婚前の旅行、それも44年も前の写真の1枚1枚にそんなにこだわるものだろうか。都市はロンドン、ローマ、パリで、そのどれかであることは間違いないので、それさえわかれば十分なのではないか。八重のことが本当に好きで好きでたまらないという、その夫婦愛の美しさを感じつつも、そんな瑣末なことにまでこだわるところに、病的な執着心を感じてしまう。八重のお連れ合いは、最愛の妻亡き後の長い時間をどのようにすごしていくのだろうか。そんな不安を感じるのである。
2022.12.19