自分史的なクリッピング史料

受験戦争の真っ只中だろうか。大学共通テストの問題と解答が新聞に掲載されたりして、一応どんな問題が出るのかなぁ?と毎年読もうとするが、何せ字が小さすぎて、それだけで瞬殺されてしまう。このあたり考えた方がいいんじゃないかなぁ?と毎年思う。でも受験生からすれば必死だろうから小さな文字は問題にならないのか。模範解答へのアプローチは通う塾やデジタルで確認するのだろう。

2021年9月30日 朝日 明日へのLesson  特別編  著者がとく 水村美苗さん
「日本語が亡びるとき」x 大阪大学入試

「日本語が亡びるとき」は、作家・水村美苗さんが、2008年に出版した作品。大きな反響を得たエッセイ集。

水村さんは、12歳でお父さんの転勤で渡米。当時は英語から逃げるようにしていたらしく、日本の近代文学(夏目漱石やら)にハマっていた少女時代を過ごした。約20年後に帰国、ますます強まる英語の覇権に問題提起したのが同書。

大阪大学で出題された三章は、水村さんが独自の概念を示すところ。
・世界を指す「普遍語」
・地域で流通する「現地語」
・近代以降に成立した国民国家で人々が自分たちの言葉と考える「国語」
の3区分。

この著では、ナショナリズムの起源を論じた政治学者・ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」を参照。グーテンベルクの印刷機の登場によって、知識人が現地語で話し、ラテン語で読み書きするという状況が転機を迎え、聖書が現地語に翻訳され、次第に「出版語」が確立し、それぞれ地域ごとにそれぞれが、18世紀以降の国民国家と国語の成立の原動力になったという論考。

入試の第一問は、出版語の成立までに資本主義が果たした役割について記述させるもの。
水村さんの回答は・・・
「話し言葉で書かれた本の需要が高まり、やがて様々な言葉の書物が出版されるよになった」
市場が飽和し、大衆が新たに巨大市場となって、書き言葉が生まれ変わっていくくだりを説明したとある。印刷機の発明が当時の宗教理解へ大きな影響を与えたことは歴史で学んだことはあるけど、設問に対して回答を言葉で具現化する、表現するっていうのは、ひとえに勉強になる気がする。

その他の設問は、聖書におけるラテン語など「聖なる言語」をめぐるアンダーソンと著者の理解の違いについてとアンダーソンのそうした理解を著者がどうみているかというもの。アンダーソンはラテン語を権威的で閉ざされた言葉と理解したのに対して、水村さんは無数の話し言葉をもつ人々の交流を可能にした開かれた言葉で、西洋文明の基礎を作った普遍語だと肯定的に捉えたと言っている。

最初は言葉の序列がある厳然たる世界で、少数言語も尊重すべきという多言語主義に共鳴したらしいが、後に普遍語の必然性を再考した。アンダーソンは英語を母語とするために、普遍語である英語に関する考察を見落としたのではないか。母語が通用する世界で、その幸福な条件自体を深く考える必要性がなかったから、自然とそういう態度になったということだろうか。

水村さんは、我々は常に言葉に関して思考することを強いられる運命(運命が重ければ立場)にあると指摘。英語に叡智が流れるという風潮に危機感を抱いているともコメント。日本語と日本文学をうかがうと、江戸時代までに成熟した現地語を持ち明治時代には国語の成立をみたという稀有な歴史があると。にも関わらず、伝統の承継という問題が真剣に考えられているとは到底思えないとも。すなわち、文化全体の劣化につながりうることと。なんだか、地方再生という問題とも似ているような。祭りや特産品などの技術の伝承、維持は誰か好きな人がやってくれるという他人事感情があるかもしれない。

日本語も英語一強時代に生き残れるのか?を十分認識する必要があると主張し、一方で普遍語としての英語の習得も重要だと言っている。要はバイリンガル教育だろうか。個人的には方言を含めたトリリンガルにして欲しい。英語学習については最低限で構わないという主張の様子。ただしコミュニケーションが取れるほどと言っているので、まだ底上げが必要であることは間違いない。当時、水村さんは、「少数でいいから人材を育成する道を」という主張のようであったけど、15年近く経過した今、情報の横溢と英語理解は、ある意味で国力が問われると痛感するので、少数という理解で良いのかは懸念されるところではないか?と思う。

最後に水村さんは、受験生に対して「まず読むこと」を勧め、そして近代文学の古典を読んで欲しいとまとめています。余りこうした記事を断片的に理解すると誤解などもあるかもしれないけど、少なくとも新聞記事を読んでいるとこうした貴重な情報に恵まれていることに気づかされる。

 

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