自分史的なクリッピング史料
もうすぐGWに突入する。3日の平日に休暇を取れば10連休にもなる。昔は取引先の方から、「GWはどうするの?」等と聞かれれば、「カレンダー通りです」なんて当たり前に答えていたけど今ではその風景も様変わりしたのだろうか? 昔子供の頃は切手と共に、主に特急列車の切符を集めていた。父親が自分に切符をくれたから。これをアルバムに貼っていた。何枚あるのだろうか? そんな大した数ではないけど、今でも大事にとってある。
2020年4月4日 朝日 歴史のダイヤグラム 原武史
2人の思想家の駅弁論争
このコラムは大好きな記事の一つ。これらをまとめてすでに新書も刊行されているけど、もっぱらクリッピングをしているので、まだ買ってはいない。
駅弁といえば個人的には「峠の釜めし」を思い浮かべる。結構な頻度で軽井沢に足を運んでいるので、イメージは脳裏に焼き付いている。それほど食した訳ではないけれど。
1960年の安保闘争を機に大学を辞めた竹内好は、夏は海水浴、冬はスキーのために東京の自宅を空けることが多くなった・・・で始まる。1962年12月から63年の1月にかけて、新潟県の奥只見と関山で家族と共にスキーを楽しんでいたそうだ。関山では鶴見俊輔の家族と合流した。鶴見俊輔の本も結構読んだ。今でも「期待と回想」(ちくま文庫)をちびちびと読んでいる。
2人の家族はスキーを終えて、信越本線(現・えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン)の関山駅に向かったとある。上野ゆきに乗るつもりだったが、乗り遅れ2時間待って上野ゆきの普通列車に乗ったと記されている。
途中、長野で40分間の停車中に準急に先を越され、そのまま普通列車で上野に向かうことにしたらしい。小諸から軽井沢にかけて大雪だったと。
碓氷峠を越える信越本線の軽井沢ー横川間は当時の国鉄で最も勾配のきつい区間で、線路の中央に敷かれた歯型のレールと車両の床下に設置された歯車を噛み合わせたアプト式と呼ばれる線路システムが取られていたと。
ここまで読んで、そういえば子供の頃、トロリーバスやボンネットバスなどが当たり前だったなぁ。今の若い人には想像できないだろうなぁと蘊蓄的な回想に及ぶ。
当然アプト式に対応するために機関車の付け外しが行われたという。この間が結構長くて、これを利用しようと横川駅では1958年からかの陶器に入った「峠の釜めし」が販売され始めた。その2年後には高崎駅で「だるま弁当」も販売されるに至った。
列車が軽井沢に着いた時、2人の間で論争が起こったとある。竹内は時刻(午後5時すぎだった)からいって「釜めし」を主張したらしいけど、鶴見は「だるま弁当」を主張したとある。なんとも朗らかな論争。結局最後に鶴見も「釜めし」に同意したらしいけど、その際に竹内は「転向だ」と批判したらしい。思想家らしい、普通の人から見ればどうでも良い論争・批判だと思う。
当時は「だるま弁当」が定番だったらしいけど、「だるま弁当」の方がわずかに歴史が浅いにもかかわらず、定番だからということなのだろうか、それを竹内は鶴見の保守的な一面があると回顧している。
竹内は長野県・臼田の出身でだからこそ「釜めし」を主張した様子だけど、この背景もよくわかる。自分だったら、やはり崎陽軒の「シウマイ弁当」となる筈だから。「転向だ」「いや違う」とやりあう2人の思想家。周りの人はどんな視線を送っていたのだろうか。間に入った2家族もどんな感じだったのだろうか。
アカデミアの世界だからなのだろうか?とも思いつつ、確かに夕食に食する思いでの駅弁は日常ではないだろうから、やはりこだわってしまう大人が論争まで引き起こして口論を交わすということ自体記憶に残るエピソードを展開してくれる。撮り鉄でもなく、鉄道愛が溢れるほどではないけど、駅弁はやっぱり鉄道の思い出として間違いがないと思う。