自分史的なクリッピング史料
最近はやたら「壁」というトピックスに議論が集中している。この「壁」そのものを対処療法的に壊すことは難しいそうではない気もするけど、一方で失われるものは何か、他に代償を払う(財源を含めて)ことにはならないのか、等々早々に且つ簡単に判断できる代物ではないようだ。きっと議論は複雑になる。こっちを立てればあっちが立たず・・・のような。その中で政治家は落としどころを探っていくという作業だから、間違いなく複雑だろうなぁ。一般的に長きに渡って慣行化されてきたシステムを変更するということがいかに大変かは想像に難くない。
でも結局は、時間の経過と共に社会のシステムやルールの変更は大なり小なりに求められる訳だし、できれば対処療法的な対応ではなく、多くの人々が納得のいく結論を出して欲しい。
もう既に師走・12月に入り、1年の締めくくりの月となった。今後年末に向かって1年を回顧する機会も増える。何と言っても能登半島地震で始まった1年であり、その後も同地では追い打ちをかけるような被害にもみまわれさぞや辛苦の1年を過ごさざるを得なかっただろう。そういった人たちを少しでも勇気づけることができればと誰もが思うところだけど、やはり今年はオリンピックと大谷翔平、大の里あたりがその勇気をいくばくか与えてくれていたのかもしれない。サイドサポートに過ぎないかもしれないけど、類稀な活躍を見ていて少しでも勇気をもらえたら。
2024年12月1日 日曜に想う 編集委員 宮地ゆう
海を渡ったメロディーの記憶
この「日曜に想う」の記事をクリッピングし始めたのはここ2〜3年。それまでは読んだことはあってもクリッピングはしなかった。
筆者は家電量販店のヨドバシカメラに立ち寄った際に店内に流れるメロディー(「まーるいみどりの山手線・・・・」)というあれについて冒頭で語り始める。そして記憶が蘇ったと。7年前の12月、メリーランド州・アナポリスにある米海軍兵学校の教会でのこと。海軍のパイロットの葬儀で。
そのパイロットとは、スペンサー・アボットさんのことで、2011年、研究員として来日し、在日米大使館で働き、災害支援の調整などを担っていらした方。2015年に米国に戻り、ホワイトハウスでも働いたとある。
海が好きで、会えば海の話に花を咲かせていた様子だけど、その彼は44歳という若さで家族を残して天に召されたと。そこで流れた、聞き覚えのある曲がその「ヨドバシカメラの曲」。驚いて隣の米国人の友人に聞くと、「米国では有名だよ」と言われた。米国では「リパブリック賛歌」と言われる曲。この歌は南北戦争の北軍の行進曲だったそうな。教会の外に出ると、澄み切った冬空に同僚のパイロットが綺麗な編隊を組んで空を飛んでいたとの思いでが語られる。なんかトップガン的な思いを起こさせる。
スペンサーさんの奥さんに今年11月にオンライン電話をした際に、この歌の話になり、それが実は、「自分たちの家族の歌でもある」と告げられる。結婚式でも歌ったらしい。「リパブリック賛歌」の作詞者、ジュリアード・ウォード・ハウさんは米国の著名な詩人で、奥さんの祖父の祖母にあたるという。北軍のために書いた歌は、その後米国を代表する歌となった。
ハウさんは、戦争で亡くなることを余儀無くされた若者を思い、反戦運動として「母の日」を始めた人だともいう。ではどうしてこの曲が日本に入ってきたのか?と当然に疑問に思う。そこで、筆者は奈良教育大の先生に尋ねたところ、「明治期に米国からたくさんの賛美歌が日本に入り、多くの唱歌が生まれたと。「おたまじゃくしはカエルの子」も同じ曲から。こちらの方は小学校時代の大昔に習った記憶がある。
このヨドバシカメラの歌は1975年のCMから流れ始め、作詞者は同社の代表取締役会長だった藤沢昭和さんが作詞して、半世紀にわたって親しまれてきたという。ドンキーの店内音楽もそうだし、各スーパーに行けばそれぞれオリジナルの曲が耳に焼きつく。以前オリンピック(スーパー)に行くと、「おさかな天国」がよく流れていて、何となくだけど、ついつい口ずさんでいたことも思い出す。日常の記憶は以外と刷り込まれる。
親友の葬儀から、思わず記憶を思い起こして、その歌を通じて日米のつながりを感じるという童話のような話。若くしてこの世を去った友人が日米の橋渡しをしてくれたのかも・・・。このエピソードではちょっと考えさせられるいくつかの要素が盛り込まれていて、記事として読み心地が良かった。昨今、オールド・メディアと揶揄されるような風潮もあるけど、日曜日に新聞を広げてゆっくりと記事を追いかけると、自分のセンスと調和する記事に出会えるのもいいなぁと思う。