向き合う
PEと聞いてピンとくる人はいるだろうか。
震災以降の数ヶ月に身に降り掛かった事に向き合う事は大切な事だった。
自分は今の業界に2001年から携わってきた。
その中で様々な資格を得た。
学歴は高卒(しかも農業高校、だって実家は農家だもん)だから働きながら通信大学を経験した。
臨床心理士や付随する心理系資格。
実務経験経ての社会福祉士とCMなど。
MSWをしながら様々な経験をして介護事業運営会社へ転職。そこから様々な紆余曲折経て今がある。
2011年3月11日。
偶然仕事で仙台市にいた。
お昼からは気仙沼に行くスケジュール。
ところが打ち合わせを済ませたタイミングで急に帰京が決まりすぐ近くの高速バスに。
地震は埼玉のマンションで経験した。
(これはまた別の話)
数日後に会社として被災地へ物資など運ぶ機会があり立候補して自衛隊や消防隊などと共に向かった。
正直甘かったと思うし現実味もなかった。
ただただ何かしなくちゃ…だけだった。
自分が何度か足を運び、美味しい食材やお酒をしこたま楽しんだあの場所はそこには無かった。
煙の臭い、海の臭い
はっきりとした異臭
取引先の建物は無くなり
取引先の人達が被災していた
予期せぬ場所に予期せぬご遺体
もはやそれがなんの生き物なのかすらわからない動物らしき死骸
ここなら大丈夫
そんな場所は無かった
(比較的安全な場所なはずなんだけど)
電気や食べ物、水の制限なんて当たり前。
運んだ物資なんか泡みたいに消えた。
仕事柄、多く命に携わってきたしご遺体にもお別れの場面にも多く立ち会ってきた。
でもそんな経験は何でもなかった。
余震は続き、不眠症ゆえに飲む睡眠薬も効かず。
それでも約七日間必死だった。
でも「またすぐ来ますね」は嘘になった。
帰りの車の中で気絶する様に眠り、叫びながら起きた。
帰宅して久しぶりに会った家族の前で過呼吸になった。
何一つコントロールが効かず様々な病名が付く中、仕事だけは続けた。
随分迷惑な人だったろう。
自分があの日に向き合うべきだった大切な事にも気づけぬまま、ひたすらに必死に周りを振り回していただけ。
結局すぐに限界が来て、措置入院してそこからまた怒涛の流れがあった。
時が経ち3年してから自分が自分に課したのはPEと呼ばれる持続エクスポージャー療法。
その詳細は省く。
抱えたものをひとつひとつ引き剥がしていく作業を主治医や信頼できるカウンセラーさんとひとつひとつ。
向き合う、逃げない。
でも実際何回も逃げた。
今、側にいてくれてる人とお付き合いを始めた頃、何度か魘されて目が醒めた。
泣きながら飛び起きたことも何度もある。
向き合えなかった分、夢に現れる。
あの日戻れたなら。
もしかしたら救えた何かがあり、救われた何かがあったかもしれない。
起きて泣いて。
わぁわぁ喚いて。
同居猫が来た日から少し少し減った気がする。
それでもたまにどうする事もできない夜がある。
まだ逃げてる。
何かからまだ逃げてる。
そんな12年だった。
繰り返し繰り返し、感謝と後悔を。
今日、またひとつ向き合った。
(気がする)
頭痛と吐き気、悪寒。
震えと立たぬ膝。
閉じぬ涙腺。
出ない言葉。
湧き出す何かと伝わることのない何か。
まだ歩みはこれから。
生きてまた。
生きてきっと。
笑顔できっと。