子どもを産んだら、この星の未来が気になるようになった。
子どもを産んで変わったことは、数えきれないほどある。
例えば睡眠時間や生活リズム、親戚との関係性。自分の言葉遣い、体型、部屋に置いてあるもの。身に着ける服やアクセサリーなんて当たり前にガラッと変わった。
それから、街を歩く子どもや妊婦さんに目が向くようになった。今まで気にしたこともなかった公園や、子連れOKのレストラン、新しく出来た習い事の広告なんかも良く目に留まる。
だけど、自分で一番変わったなと思うのは、「未来が気になるようになった」ということだ。
この国の、この世界の、この星の、この宇宙の行く先が気になって仕方ない。我ながらなんとも壮大な話である。
子どもを産む前の私は、こんなこと、深く考えたことがなかった。選挙には行っていたがどこか本気じゃなかったし、環境問題なんて気にかけつつも他人事だった。プラネタリウムで太陽がいつか爆発することを知っても「へえ、怖い。」で終わりだった。
でも今は違う。
ひとつひとつが身につまされるようで、心の底から憂いてしまう。
50年後も100年後も、どうか今と変わらず人が住める世界であって欲しいと、切に願っている。だから環境問題も深刻に受け止めている。どうかこのまま安心して暮らせる国であって欲しいと思うから、選挙にも熱が入る。社会問題にも真剣になる。そして宇宙よ、頼むから巨大隕石とか地球に飛ばさないでくれよと思う。本気で思っている。
だって、100年後の世界に私は絶対にいないけれど、もしかしたら私の3人の子どもたちは生きているかもしれないのだ。
子どもたちがいなくてもその子どもか、そのまた子どもがいるかもしれない。そう思うと100年後なんてめちゃくちゃ身近だ。そしてその子たちがもし辛い目にあったらと思うと、心配で心配でたまらない。
どうか子どもたちの生きる未来に希望が溢れていてほしいと、切に願う。
別に、私の子どもたちがそれぞれ結婚をしなかったり子どもが出来なかったりしても、それはかまわない。だからこの、未来を生きる「子どもたち」と言うのは厳密には、自分の子どものことだけではない。
子どもに興味のなかった私は出産を経て、「子ども」という存在の尊さと愛しさを知ることが出来た。ありきたりな言葉だけれど、子どもってやっぱり希望だ。その輝きが曇るような世界にはならないで欲しいのだ。
なんだかものすごく大それたことを言っているけれど、私の友人も「子どもを産んでから環境問題とか気になるようになったもん。」と言っていた。つまり母親って、こういうことを考えることがよくあるんじゃないかな。子どもが可愛くて大事なあまり、ついつい壮大なことまで考えてしまうということが。
子どもを産む前はこんなこと、考えたことがなかった。夫はいたけれど、自分が死ねば世界はそれで終わりだと思っていたから、その先にまで思いを馳せたりはしなかった。
私が死んでも世界は続く。そしてそこで、愛しい子どもたちは生きていく。どんどん、どんどん、続いてく。
その果てしなさが少し恐ろしい。いつかはきっと人類の終わりも来るんだろうなあ、地球がいよいよダメになったら本当に火星にでも行くんだろうか。なんて、それはさすがにちょっと考えすぎだけれど。
やっぱり少なくとも自分の子どもたちには希望がきらめく未来を生きて欲しいし、それが叶う世界であって欲しいと祈る。
そのために今自分に出来ることを少しでも何か、何か、と、日々頭の片隅で考え続け手探りで答えを求めながら、母としての私は生きている。