弘前
この前初めて弘前へ行った。
墓参りのために。
若い頃、その墓の中の人の残したコトバに勇気づけられたり、悲劇的にされたり、随分とりつかれていた。
それでその人のいる墓は特別になって、その墓があるから弘前は特別だった。
行かずにいたけれど、ずっと行かなければならないと思える場所だった。
羽田から出たボーイングは青森上空で着陸の許可が降りず、予定より少しだけ長く空にいた。遠くの光をじっとみる。
次の日はよく晴れた。朝、ホテルの食堂に座っていると、少し離れた席に大学生くらいの女の子がきた。でっかい体の女の子がモリモリたくさんご飯を食べている。でっかい体の女の子がモリモリとご飯を食べる姿に励まされた。でっかい人間がモリモリご飯をたべ、こういう人がまたでっかい体になり、そしてまたモリモリご飯を食べるんだ。
励ましをコソ泥した私の方は、サイコパスの最後の晩餐のような大喜利プレートをモソモソ食べた。
弘前城からみて鬼門になる方向に神社仏閣を集めた地域があって禅林街と呼ばれている。目的の墓はそこにあるが、具体的な位置はしらなかった。古い本で写真を見たことがあったけれど、今もそういう見た目の場所かはわからない。
位置など知らなくても、敬虔な信者であれば自然と導かれるだろうと道すがらニヤニヤしたが、そんな力は世界になくて、結局現地で他のシンパに電話して位置を聞いた。
そんなこんなで墓の前にたどり着いた。
けれどタイミングではなかったのか、心構えの問題か、強く感情が動くことはなかった。墓は美術セットのようにもみえた。
そうだよね、今は昔のようにあなたの言葉に心とらわれたりしていないもの、感傷的じゃないし。あの頃の苦しみはとうの昔になくなってしまったから。
ここに存在しないものを感じることが、どうしてもできなかった。遠くに見える立派な山を眺めた時に、やっとすこし、ずっと昔ここに人が集まったんだなぁとだけ想像できた。
やっぱり石は何も言わなかった。だから水をかけるのも怖かった。
今までのことを問いかけることもできたけれど、あまりに良い天気なのであきらめた。結局答えは返ってくるでもないし。
東京に帰って数日してから、19歳の時にTribergへ行った時と似ていると思った。あたまの中のことは中々現実に起こらない。
あの時は「なに期待してたんだろ」と思ったら素晴らしく楽になったし、「これからも期待しよう」と思ったが、今回はそういうこともない。
何かがズレていっていて、大事だったものがなくなっていくような感覚が残った。