「ら」抜き言葉をつい使ってしまうのは、単に楽だからではなさそうだ
会話や個人のブログなら「来れる」や「見れる」、「食べれる」などといった「ら抜き言葉」を使っても問題ありませんし、気になりません。
私も会話ではかなり使ってしまっていると思われます。
しかし報酬を受け取って納品する記事では、堅めのオウンドメディアだけでなく、柔らかめのウェブマガジンなどでも使わない方が良いでしょう。
とはいえ、多くの記事で「ら抜き言葉」が使われています。
ただ、「ら抜き言葉」を思わず使ってしまう、あるいは使いたくなる気持ちは分かるような気もします。
というのも、「ら」が入ると、複数の意味が生じてしまうためでしょう。
たとえば「来られた」と書くと、「来ることができた」という可能の意味の他にも「いらっしゃった」という敬語の意味にも取れます。
同様に「見られた」になると、「見ることができた」という可能の意味と「ご覧になった」という敬語にもとれます。さらには「誰かに見られた」のように受け身の意味にも取れてしまうためです。
まぁ、実際には文脈から正しい意味を読み取れますし、敬語なら「見る」は「ご覧になる」に、「来る」は「いらっしゃる、おいでになる、おこしになる」に、「食べる」は「召し上がる、お上がりになる」などと明確な敬語にすれば済みます。
ところが受け身と可能は、もう本当に文脈で区別するしかありませんので、書き手がその誤解を避けたいがために、可能を示すときにはつい「来れる」「見れる」「食べれる」と書いてしまうのかもしれません。
ということで、「ら抜き言葉」はプロの書き手としては使ってはいけないのですが、使いたくなる気持ちは分かる、というお話しでした。
考え過ぎかもしらんけど。
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