「かっこ良くみられたい」と「かっこ悪くなりたい」のジレンマ
突然ですが、かっこいいと思われたいですか?
スマートな人だと思われたいですか?
ぼくはかっこ良い人だと思われたい。というかほとんどの人はそうだろう。かっこ良く見られたいし、可愛いと思われたいし、綺麗だと思われたいはずだ。承認欲求ってやつだと思う。もしくは性欲かもしれない。
いつからそう考えているのかは分からない。少なくとも2歳のぼくはそう思ってなかったはず。
歩くのに必死で、言葉を覚えるのに必死で、親や兄弟の会話を聞くのに必死で、「よし、かっこいい3歳になってやるぞ!」なんて考えてなかったと思う。記憶はないけど。
それがいつからか「かっこよく見られたい」という欲求が芽生えた。
25歳、新卒入社した会社の内定者懇親会で「ネームプレートに名前と将来の夢を書こう」と言われ(ヤバイ感じがするが今回の本題はそこではない)、「かっこいいパパになる」と書いた記憶がある。
もっと遡ると、高校生くらいの時から服装にこだわるようになっていたし、中学生くらいから髪の毛にワックスつけて、授業が終わるたびにトイレでセットしてたので、それもたぶんかっこいいと思われたかったんだと思う。
ただ、今と当時とでは大きく違うことがある。
「かっこ悪くなりたい」とも思っていることだ。
いまぼくはの何かとスマートにやろうとしてしまうし、効率よくやろうとしてしまう。弱みやダサい部分を見せるのがすごく苦手だ。キラキラしたInstagramみたいな世界観をリアルな世界へも持ってこようとしてしまう。
そしてそれが社会人になってすごく大きなコンプレックスになっている。どのビジネス書や自己啓発本にもたくさん失敗した方がいいと書いているし、できる方たちはみんな口を揃えて失敗した方がいいと言っている。「人から可愛がられるには弱みを見せよう」と書いている。それができないのがコンプレックスなのだ。
でもここでいう「かっこ悪くなる」のは、なろうと思ってなるものでもない。少なくとも2歳のぼくはかっこ悪くなろうと思って言葉を間違えたり、つまづいて転んだりはしてなかったはず。かっこ良いかかっこ悪いかなんてどうでもよくなるくらい必死になった結果、自然にかっこ悪くなるのだと思う。そしてそれがかっこ良い。
もう何を言ってるのか分からなくなってきたぞ。
必死になることはかっこいい、泥臭く行動することはかっこいいと言葉では理解しているものの、本当に心からそう思えていないのが原因だろう。いまこそ考え方改革だ。
泥臭いはかっこいい。かっこいいパパになるために息子にはもっと泥臭さを見せていこうと思う。
ちなみに4歳の息子はめちゃくちゃ可愛いので「可愛いね!」っていうと「可愛いじゃなくて、かっこいいでしょ!」って言われる。息子よ、そう、一緒に泥臭くかっこよくなろう!