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「セロ弾きのゴーシュ」の秘密!


前書き


グループ「おといろかたり」は、南木千絵さんが作曲された「セロ弾きのゴーシュ」の公演を、2024年8月4日の東京に続き、2024年11月3日には横浜で、2025年2月16日には京都で行います。トークにおいては、この物語のまつわる話、賢治とチェロ・音楽などについて、朗読・演奏を交えながら紹介させていただきます。

朗読演奏会の詳細は、以下のリンクを御覧ください。

lit.link/otoirokatari

2024年9月28日からインスタグラム(@otoirokatari)に、関連する話題を毎日一件ずつ投稿してきました。これらは、「セロ弾きのゴーシュ」の味わいを深めるためにお役に立てるものと思います。一覧できるように、投稿内容をノートに転載させていただきます。

なお、少し重なりますが、別途にnoteに掲載したものがあります。よろしければ、こちらもご覧ください。

本ノート、及び、インスタグラム投稿の無断転載はご遠慮ください。ご利用になりたい場合は、事前にご連絡いただけますようお願いいたします。

I. 物語が始まる


1.なぜ「ゴーシュ」?

賢治がこの作品を書き始めたのは、彼がチェロを購入した1926年、30歳のときです。それから、37歳でこの世を去る直前まで筆を加えていたとのことで、とても思いの深い作品であったことが伺えます。当初の原稿と最終稿に異なるところがいくつか確認されていますが、「ゴーシュ」の名前もその一つ。当初の原稿には「セロ弾き」としか書かれていませんでした。

「ゴーシュ」は、人名としては姓としても名としても聞きません。極めて珍しいものです。「下手な」、「ぎこちない」という意味のフランス語「gauche」が浮かびますが、賢治が得意としていたのはドイツ語でした。なぜこの言葉?

賢治自信、この物語のゴーシュのようにチェロをゴーゴー、ガーガー鳴らして楽しんでいた?そうです。ゴーシュは、その響きを表そうとしたのかもしれませんね。

なぜゴーシュ?

2.なぜチェロ(セロ)?

宮澤賢治がチェロを愛していたことは知られていますが、なぜ、チェロだったのでしょう?

いくつかの要因が挙げられそうです。

第一に、賢治は大の音楽好きで、お経も歌のように誦経し、創作も頭の中には常に音楽があったような人でした。第二に、音楽をつけて朗読することに強い興味を持っていました。オルガンを弾いて詩を歌っていたそうですが、オルガンでは自分の思うものを十分に表現できないと感じていました。確かに、音色、音量を細かな気持の変化に応じて変えることは難しい楽器でしょうね。このため、弦楽器には強い興味があったようです。第三に、賢治は、バリトンで朗々と歌っていました。バリトンとチェロは音域、音色が近いとろにあります。そして、第四に、賢治の近くにはチェロがあったのです。それは、賢治が教えた高校の隣の女子高の音楽教師で、賢治の盟友であった藤原嘉藤治がチェロももっていたことです。

この嘉藤治がもっていた楽器は、「セロ弾きのゴーシュ」に登場するチェロに大きなヒントを与えています。それは、朗読演奏会の場でご紹介したいと思いますのでお楽しみに。

賢治はなぜチェロを選んだのか?

3.第六交響曲って?

ゴーシュが所属していた町の交響楽団は、演奏会にかける第六交響曲の練習をしていました。この第六交響曲とは、誰の作品?

ベートーヴェンに決まってると返事が返って来そうですね。物語の牧歌的雰囲気、宮沢賢治が大のベートーヴェン好きであったことからも「田園」と思われがちですが、そうすると、幾つもあれっ?がでてきます。

まず、冒頭に

「トランペットは一生けん命歌っています。
ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。」

というくだりがありますが、「田園」にそのような場所は浮かびません。

演奏会でアンコールを求められた時に、楽長は、「いけませんな。こういう大物のあとへ何を出したってこっちの気の済むようには行くもんでないんです。」と答えてます。さて、「田園」は、後にアンコールをかけにくい曲でしょうか?他にもあれっ?と思うものが出てきます。

実は、これらは、チャイコフスキーの第六交響曲「悲愴」の方がずっとしっくりきます。

そもそも、賢治は、ベートーヴェンの中では、とりわけ第5交響曲「運命」が好きでした。では、なぜ、第五でなくて第六だったのか?なぜ、「田園」と言わずに「第六交響曲」と言ったのか?

それは、「田園」に決めつけたくなかったからではないでしょうか?美しいメロディ、特にチェロの旋律が美しい悲愴も、賢治が好んだ曲であったに違いありません。

ベートヴェン、それともチャイコフスキー?


4.糸が合わない?

管弦楽団のリハで、ゴーシュは、「セロっ、糸が合わない」と楽長さんに厳しく叱られます。聞きなれない表現ですが、文脈から音程が合っていないことだと理解できます。

この表現は、江戸時代から明治時代にかけて使われていたようです。ニュアンスは調弦が合っていないという感じですが、筝(現代の十三弦のような駒で調弦してそれが音程になる楽器)、琴(琵琶のように調弦された弦をフレットで抑えて音程を作る楽器)だと調弦が音程に大きな影響を与えますね。三味線は指版を左手で抑えて音程を作る楽器ですが、三本の弦の調整を曲によって変えることがよくあるため、やはり「糸が合わない」がはまるかもしれません。

音程が合わないのは、調弦、或いは一つの弦の上での音取りのいずれか、或いは、双方に問題があります。チェロの調弦は、下からドソレラと五度ずつあげていくもので、曲によって変えることはありません。賢治は歌が得意で決して音痴ではなかった思われますから、調弦は難しくはなかったと思います。しかし、駆け出しのチェリストに共通する課題として、正しい音程を取っていくのは簡単ではなかったでしょう。賢治は自分をゴーシュに重ねていたでしょうから、「糸が合わない」は、調弦よりは音取りの問題だった可能性が高いでしょう。

音取が難しかったせいか、賢治は、開放弦をゴーゴー、ガーガーと弾いていることが多かったそうです。その方が楽器は良く鳴って気持ちが良かったかもしれません。そして、そのような弾き方が、次に登場する「インドの虎狩り」の曲のイメージのヒントになりそうです。詳細は、朗読演奏会のトークでお話させていただきます。

糸が合わな~い!

5.ゴーシュのセロ(チェロ)と賢治のチェロ

セロ弾きのゴーシュでは、「粗末な箱みたいなセロをかかて壁の方を向いて口をまげてぼろぼろ泪をこぼし・・」という下りがあります。アンコールの場面では「孔(あな)のあいたセロをもって」という下りがあるので、かなりお粗末な楽器でした。

では、賢治自信がもっていたチェロはどうだったのでしょう?

実は、賢治が買いもとめたのは、当時、鈴木バイオリン社が製作していた中で最高級のものでした。当時の価格で170円でしたが、現在、鈴木バイオリンの最上モデルは100万円です。これに弓とケースを合わせて二百数十円。当時の賢治の給与は80円~とのことですから、三か月分くらいの給与を叩いたこととなります。良い楽器でしたから、うまく弾けないことを楽器のせいにはできなかったはずですね。訪ねてきた三毛猫にぶつけた怒りの背景となっていそうですが、詳細は、朗読演奏会のトークにて。

賢治の楽器は、花巻の記念館に、妹のバイオリンと共に展示されています。

花巻の記念館に展示されている賢治のチェロ

6.なぜ、いきなり高価なチェロを?

賢治が買い求めたチェロは、鈴木ヴァイオリンの最上級のチェロで今ならば100万円もするものでした。なぜ、そのような高価なチェロを買い求めたのでしょう?

それは、賢治が実家にいたために生活費がかかららず資金的に余裕をもてたからではありますが、それでも、もっと安価なチェロから始めて買い換えていくのが普通です。なのに、なぜ、いきなり最上級品を?

それは、賢治が、自分に残された時間が長くないと意識していたからでしょう。

賢治は、22歳のとき結核の前兆である肋膜炎と診断されます。賢治にとって衝撃でした。彼は、自分の寿命があと15年しかないと思ったのでした。チェロを購入したのは1926年、30歳のときで、あと7年しか残されていないことになります。

1926年は彼にとって覚悟の年となりました。農学校の職を辞し、教えるのではなく自ら畑に立ち、また、目指していた農村コミュニティ―づくりのための会(羅須地人協会(らすちじんきょうかい))を立ち上げたのです。身体が弱かった賢治は、自覚症状があったでしょうし、妹トシを結核で失ったこともこたえていたはずです。

しかし、賢治がチェロに集中できたのは、購入後病臥に伏すまでのわずか2年。その限られた期間に良い楽器を手にできたことは、賢治にとって良かったと思うべきでしょう。結局、賢治は、肋膜炎の診断の15年後、37歳で生涯を閉じたのでした。

賢治は素晴らしいチェロをもっていたんだ


7.トマトとキャベツ

ゴーシュは、住み家の水車小屋の前でトマトとキャベツを育てていました。なぜトマト?なぜキャベツ?

冷害に苦しんできた岩手の農民。賢治は、そんな農家の収入を安定させ、栄養を高め、文化度を高め、地域共同体として農村を発展させることを目指していました。そんな思いで、賢治は農学校で土壌や肥料、栽培技術に関する研究を続けていたのです。

キャベツは冷涼な土地でも育ち安定的な収入源となります。トマトは収益性の高い作物で、ビニールハウスを使えば岩手の気候でも栽培可能です。しかし、いずれも連作には不向きで施肥や害虫対策が必要であり、決して容易に栽培できるものではなかったはずです。賢治は自分で試行錯誤を繰り返して育てていたに違いありません。

トマトとキャベツ。何気なく登場してますが、賢治の強い思いがこめられていたと思います。

賢治は栽培方法の研究も兼ねて自らトマトやキャベツを育てていました。

II. 三毛猫がやってきた!

8.何が生意気?

水車小屋で真夜中まで練習していたゴーシュの最初の来訪者は大きな三毛猫でした。「ああくたびれた。なかなか運搬はひどいやな」「これおみやです。たべてください」

と、大切に育ててきたトマトを半熟で採ってきて土産と渡されて、ゴーシュが怒ると、「先生、そうおおこりになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」と。この三毛猫は、なかなか、ふてぶてしいですね。

ゴーシュ激高して真っ赤になりますが、「トロイメライ」ではなくて「インドの虎狩り」を弾きますが、これはなにでしょう?ところで、「トロメライをひいてください」でなく「ひいてごらんなさい」と言うのは、不遜な感じに加えて、ゴーシュが「トロイメライ」を弾いていた、或いは、弾こうとしていたことを「三毛猫」が知っていたようです。

ではゴーシュにとって、「トロイメライ」とは何だったのか?「インドの虎狩り」とはどんな曲だったのか?そして、そもそも「三毛猫」はいったい何者なのか?

三毛猫はけんじ賢治が育てたトマトを土産にと採ってきた。まだ、熟しきっていなかったのに。

9.宮澤賢治と猫

宮澤賢治の作品の中に、猫が登場するのは、セロ弾きのゴーシュの他に、「注文の多い料理店」で山猫が、「猫の事務所」において黒猫、トラ猫、三毛猫、かま猫が、「どんぐりと山猫」においては山猫が登場します。狡猾でいて間が抜けた人間臭いキャラであり、可愛い猫ではありません。賢治は、猫に、人間の本性にある醜さや滑稽さなどを象徴させたのかもしれません。そう考えると、セロ弾きのゴーシュに登場する三毛猫も「(特定の)人間」を表して居そうです。

ちなみに、山猫、黒猫、白猫、トラ猫、三毛猫など、さまざまな猫がありますが、賢治は、それらに性格付けを行っているようです。山猫には賢さと愚かさが共通しているようです。「猫の事務所」では、所長の黒猫には支配者としての尊大さが、白猫、トラ猫には、強者への従属と弱者に対する冷淡さが表されています。ここの三毛猫は、「セロ弾きのゴーシュ」と同じような意地悪さが出ています。

ところで、かま猫は花巻の郷土玩具からとったもので、この物語ではかまどで暖を取りながら煤だらけになっていじめに耐えており、シンデレラを連想させるキャラとなっています。

さて、宮澤賢治は、彼が理想とする共同体をいめーにさせる「ポラーノの広場」という作品を書いていますが、ここに登場する県議員でボーガント・デストゥパーゴ県議員に「山猫博士」というあだ名をつけていますが、このキャラにも他の作品の山猫のキャラと共通するものがあります。

賢治は、身の回りの動物たちにキャラ付けをしながらその行動を面白がって見ていたのかもしれませんね。

賢治は猫で人を表していたようです

10. トロイメライ? アヴェ・マリア?

三毛猫がゴーシュにリクエストしたのはトロイメライでしたが、賢治の最初の原稿ではアベマリアでした。推敲の結果、アベマリアがトロイメライになったのは興味深いところです。

アヴェ・マリアにはいくつもありますが、有名なものと言えばシューベルトとグノーのものでしょう。賢治はどちらの曲も聴いていた可能性がありますが、シューベルトの可能性が高いでしょう。

シューベルトの方は、実は、ドイツ語の作品、ウォルター・スコットの「湖の麗人」に曲付けされたもので、それがラテン語の「アヴェ・マリア」の詩で歌われるようになったものです。賢治はドイツ語には堪能でしたので、元の詞は知っていたかもしれません。言うに及ばず、この曲は歌曲として美しく、音域的に歌いやすく、歌うことが大好きだった賢治が口ずさんでいたメロディーの一つだったかもしれません。また、チェロで演じる場合、シューベルトの方が弾きやすい音域におさまっています。なので、駆け出しのチェリストであった賢治にとっても馴染みやすかったかもしれません。

では、なぜ、これがトロイメライになったのか?

三毛猫は、「トロメライ、ロマンティック・シューマン作曲」と言います。シューマンの名前はロベルトですから、それをわざわざ「ロマンティック」に置き換えています。なので、ロマンティックに美しい曲のイメージを強めたかったのではないでしょうか。それが、「インドの虎狩り」との対比につながります。それは、理想と現実の対比だったのかもしれません。何のことかって?そのお話は、朗読演奏会にて!

シューベルトのアヴェ・マリアとシューマンのトロイメライ

11.ところで、「印度(いんど)の虎狩(とらがり)」って何?

「先生、そうお怒りになっちゃ、おからだにさわります。それよりシューマンのトロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」と三毛猫は言いました。ゴーシュは、しゃくにさわってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考えたのでした。

ゴーシュは、はんけちを引きさいてじぶんの耳の穴へぎっしりつめて、まるで嵐のような勢いで勢いで「インドの虎狩」という譜を弾いたのでした。さて、どんな曲だったのでしょう?

そもそも、特定の楽曲ではありません。賢治の想像の中にある曲ですが、諸説あります。後に、演奏会のアンコールで弾いて聴衆の喝采を受けるわけですから、音楽的にも素晴らしいもので、荒々しく激しく、異国情緒がある練習曲のようなものだったのではないかという見方もあります。「虎狩」とは虎が猫の仲間なので猫退治の意味もあるのではないかと言う指摘もあります。

しかし、前にもご紹介した通り、賢治のチェロの腕前はとても拙いものでした。それでも、夜に、ガーガー、ゴーゴーと開放弦を弾いていたそうです。前にご紹介した通り鈴木バイオリンの最上級の楽器でしたから、良く鳴っていて、本人は気持ちが良かったのかもしれませんね。(笑)

でも、さすがに、それが聴衆の聴く耳に堪えるものではないことは、賢治もよく承知していたでしょう。となると、この「インドの虎狩」は、このガーガー、ゴーゴーにヒントがありそうです。

さて、ゴーシュが猫のことを生意気だと怒った理由は、大事に育てていたトマトを熟す前に採ってお土産といって持ってきたことや、ふてぶてしいものの言い方もあるでしょうが、どうも「トロイメライ」と言われたことにカツンときたようです。一体、どうしてだったのか?・・トロイメライの謎は、朗読演奏会にてお話させていただきます。お楽しみに。

インドの虎狩りって?

12.さて、インドでの虎狩りの実態は?

現在、トラは絶滅危惧種となっていますが、その指定は実は最近で2010年。賢治誕生(1896)の少し前の1875年から、賢治がチェロを購入した前年である1925年の50年間に、インドで約8万頭のトラの命が奪われたそうです。

もともとは、害獣駆除から始まったトラ狩でしたが、ムガール帝国や英国植民地時代には為政者が権力や地位の象徴として狩猟を行っていました。1972年に「野生生物保護法(Wildlife Protection Act)」ができてトラ狩は法律で禁止され、1973年に「Project Tiger(プロジェクト・タイガー)」で保護の動きが始まりましたが、個体数は2006年には1400頭まで減少し、2018年に3000頭程度に戻ったそうです。生息に適した森林が少なくなっていることが保護を難しくしているそうです。人と自然動物の共生の難しさがあります。

さて、昨日、賢治がチェロをゴーゴー、ガーガーと弾いていたことをご紹介しました。南木千絵さんが作曲された「インドの虎狩(2回目)」では、冒頭に、このガーガー、ゴーゴーのイメージを入れたカデンツァを加えます。当日のお楽しみに。

虎狩りはムガール帝国時代から比較的近年まで続いていました。

III. 次の来訪者はカッコー

13.カッコーとドレミファ♫

次の日の夜半過ぎ、賢治の水車小屋にやってきたのは灰色のかっこうでした。かっこうは「音楽をおそわりたいのです」「ドレミファを正確にやりたい」と言います。

かっこうは、いろいろな曲に登場しますね。例えば、童謡の「かっこう」、ヨナッサンの「かっこうワルツ」、ベートーベン「田園交響曲」の2楽章の終わり、サンサーンスの「動物の謝肉祭」のなかの第9曲「森の奥のカッコウ」など。ソッミーとかミッドーとか、短三度、長三度の下降音形が聴こえると反射的にカッコーと感じますし、カッコーの鳴き声はといわれるとソッミーやミッドーと答えますね。

なので、ゴーシュは、「音楽だと。おまえの歌は、かっこう、かっこうというだけじゃあないか。」と答えます。すると、

「・・たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。(カッコー)」�「ちがわないね。(ゴーシュ)」�「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです。(カッコー)」

とやり取りが続きます。「一万云えば一万みんなちがうんです」は、このごろの話題でもある「多様性」ですね。賢治は、花巻でたくさんのカッコーを聞いていたことでしょうから、その違いを感じていたかもしれません。それが、「かっこうとドレミファ」という意外性のある組み合わせになったのか。

さて、「かっこう」は、実は、雄のみで、縄張りを示したり求愛でさえずられるものであり、巣で抱卵しているときなどは、雄も雌も「ピピピピピ」というような鳴き方だそうです。

ドレミファを練習したいとカッコーがやってきた

14.蹴破られたガラス窓とは?

ゴーシュは、鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなという気がしてきます。「えいこんなばかなことしていたらおれは鳥になってしまうんじゃないか。」と言っていきなりぴたりとセロをやめてしまいます・・・

苛立ちをあらわにしたゴーシュに驚き、鳥は、逃げようとして激しくガラスにぶつかります。血を流しながら2度3度も繰り返します。それを見て、ゴーシュは窓を開けようとしますがなかなか開きません・・

実は、窓にガラスを使うことが一般に普及し出したには昭和の初めくらい。大正ガラスと言われ、吹いたものを延ばして板状にしたもので、一枚一枚が異なっていてそれが味わいではあります。賢治がチェロを買った大正14年頃はまだ相当に高価だったはずです。なので、粗末な水車小屋にガラス窓があったというのは物語のためにやや無理をした感はあります。

しかし、珍しいガラス窓だったからこそ朝日が見えて、カッコーが何度もぶつかったのですね。そして、高価なものであることを知りながら鳥を逃すために窓を蹴り割ったゴーシュには、実は深い思いやりが表れたとみれるのではないでしょうか。

今では当たり前のものが当時はそうではなかったことを思うと、物語の味わいが増すと思います。

蹴破られたガラスは当時は高価なものだったはず

IV. タヌキがやってきた。ジャズタイム!

15. なぜジャズ?

カッコーは、楽長から「糸があわない」と叱られていたゴーシュの音程の練習をする役割でしたね。次に登場した子供のタヌキは?

さて、

ゴーシュは、楽長に、「おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。・・・どうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでもきみだけとけた靴のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ」と言われてました。

で、なぜ、ジャズ?

難しくて弾けないために遅れることはもちろんあります。でも、他のパートと合わない、或いは、指揮者と合わない本質的な原因は、音楽に乗れていないことが多いと思います。

ジャズは、プレーヤー達が、後打ちのリズムに乗って、互いに聴き合いながら即興的に音楽を演じていきます。なので、楽長の指摘に対して、ゴーシュが、ジャズに挑戦するのはとても的を得たものです。

賢治は、自らオルガンを演奏して歌と合わせ、また、レコードで様々な曲を聴いてましたから、この本質的な問題は理解していたでしょう。それにしても、まだ、当時、ジャズは出始めでした。

子タヌキはジャズの譜をもってやってきた。

16. 宮沢賢治とジャズ

日本にジャズが入ったのは、大正時代(1912-1926)の初めころ。日米間を就航していた船上バンドがもたらした音楽で、カフェやダンスホールなどで演奏されていたそうです。1925年には、NHKの前身であった「東京放送」がラジオ放送を開始し、1928年には盛岡に「日本放送協会盛岡放送局」が開局、ラジオ放送でもジャズを流していたそうです。ただし、ラジオは、当時は高価で、賢治がラジオを購入したという記録はありませんが、レコードは1920年代前半から日本に入っていたので、それを聴いていたかもしれません。

でも、賢治は、ジャズを生で聴いていたと思われます。賢治は、大正5年(1916)春、20歳のときに上京して浅草に行っています。それ以降、なんどか上京しましたが、好んで足を運んだのは浅草でした。良く観ていたのは浅草オペラ、浅草オペレッタと言われるもので、大衆芸能としてアレンジされ、踊りや軽演劇も組み込まれ、コメディ的でエロチックなところもあったようです。浅草でも1920年代にダンスホールやカフェでジャズが流行しだしました。

これで、「セロ弾きのゴーシュ」の中で、「愉快な馬車屋」というジャズの登場となります。どのようなタイプのジャズが意図していたかはわかりませんが、大衆にわかりやすく楽しみやすいものであったには違いないでしょう。

南木千絵さん作曲の「セロ弾きのゴーシュ」では、そんなイメージの曲が登場します。

当時、賢治が良く足を運んだ浅草ではジャズがはやり始めていました。

17. タヌキの子が指摘したもの

「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」

「いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ。」

ゴーシュに自分を重ねていた賢治。では、この「二番目の糸を弾くときは期待に遅れる」とは、何を意味しているのでしょう?

賢治のチェロの腕前はそうとうにおぼつかないものでした。なので、自分の技量のなさをチェロのせいにしたのではないかという考えもあります。他方で、本当に楽器に問題があったとも推察できます。賢治のチェロは鈴木バイオリンの最上位機種でしたが、ゴーシュのチェロは、親友、藤原嘉藤治がもっていた楽器がモデルとなっており、嘉藤治のチェロはかなりお粗末なものでした。

で、二番目の糸がとは、どの弦か?

チェロは、下から、ピアノの中央のドから二オクターブ低いド(C線)、次いで、その五度上のソ(G線)、次いでさらに五度上のレ(D線)、そしてその五度高いラ(A線)で、ピアノの中央のドから三度低い音が一番高い音です。しっかりと音を出すためには、低い弦ほど強い圧をかけなければなりません。

なので、発音がもっとも遅れやすいのは音がもっとも低いC線です。また、下から二番目のG線は、ファ(F)の界隈で楽器固有の振動数と共振することにより震えるような不快な音がでることがあります。発音も遅れ気味となります。ウルフと呼ばれるこの現象は、良く鳴る楽器ほど出やすいと言われます。賢治の楽器は、良い楽器でしたからそのような現象があってもおかしくありませんが、はたして、賢治が、そのことが問題となるほどの腕前であったかどうか。

二番目の糸を弾くときは期待に遅れるねぇ・・

18. 物語の季節は?

タヌキの子が来た翌晩に訪れたのは、野ネズミの母子でした。お母さんは、ゴーシュに子どもの病気を治してもらおうと、青い栗の実を手土産に持ってきました。

物語りを振り返ると、最初の晩にやってきた三毛猫は、まだ、熟しきっていないトマトを持ってきました。夏トマトは7月ころから収穫されます。次に来たカッコーは5月ころからやってくる夏鳥で、鳴き声が聞こえるのは7月中旬頃までです。栗は、梅雨明けのころにイガが育ってきます。となると、この物語は、どうやら7月のようですね。

であれば、日の出も早い時期。花巻では、7月の初めの日の出が4時10分頃、終わりで4時30分過ぎです。ゴーシュは深夜の2時過ぎまでセロを練習していたとのことですから、日の出までは2時間程度ですが、夜は日の出一時間前くらいから白み始めます。なので、動物たちとの対話は、この一時間くらいの時間帯に起こっていたことになります。

賢治自身も、真夜中を過ぎるまでチェロを弾いていたそうです。花巻では、その時間帯にいろいろな動物の声が聞こえたのかもしれません。そんな鳴声を聴きながら、この物語を連想していたのかもしれません。

物語に登場するものはいつの季節?

V. ネズミの母子の登場

19. 音楽療法はいつから?

野ネズミの母は、小どもの病気を治してほしいとゴーシュに頼みます。このような音楽療法はいつから?

古くは、古代エジプト(紀元前5000年頃)、音楽は「魂の薬」と考えられ、治療に使われていたと言われており、イスラエルの初代の王サウルが心の病を癒すためにダビデにハープを弾かせた話が旧約聖書にあります。

古代ギリシャ以前は、音楽は宗教や医学と密接に結びつき、病人に宿る悪魔を追い払うために音楽が使われていましたが、古代ギリシャで、ピタゴラス(BC 582-496)は、完全五度に基づく理論的音階を提唱し、音楽は宇宙につながり精神と肉体の調和をもたらすと考えました。

一方、音楽療法についての科学的なアプローチが始まったのは18世紀以降と言われます。19世紀には欧州の病院で音楽が治療目的で演奏されることが始まったとのこと。第二次大戦後、心身に傷を負った兵士たちの治療に音楽が導入され、その効果が実証されると、1950年には全米音楽療法協会が設立され、音楽療法の標準化と資格認定が始まっています。

セロ弾きゴーシュが執筆された1926-1933年に、賢治が、音楽を科学的療法として認識していたかはわかりません。しかし、自ら歌い、演奏し、合奏し、レコードを仲間と共に聴いていた賢治は、音楽を、心を癒し豊かにするものとして積極的にとらえています。野ネズミ親子の話は、そんな賢治の思いの表れですね。

心の病を音楽で癒した話は旧約聖書に登場します。

20. チェロ(セロ)の孔(あな)

「・・・おれのセロの音がごうごうひびくと、・・・おまえたちの病気がなおるというのか。・・・やってやろう。」ゴーシュは・・・いきなりのねずみのこどもをつまんでセロの孔(あな)から中へ入れてしまいました。

さて、セロの孔って何?

ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスには、皆、駒を挟み左右対称に孔が開けられています。イタリックの「f」の形をしているのでf字孔(えふじこう)と呼ばれます。16世紀以前の楽器は「c」の形に近い孔でした。視覚的に美しく、駒の位置の目安を与える他、楽器の中で共鳴した空気の振動を外に伝えて音量を増幅し、深みのある音色を出す役割があります。

f字孔の形状は細長く両端が円形になっているものが一般的です。この円形部分は直径は、私が持っているチェロの場合、上部が13mm程度、下部が17-8mm程度で、他の楽器も大きくは変わらないと思います。ということは、大きい方でも一円玉の直径2cmよりも小さいのです。子ネズミがいくら小さかったからと言って、一円玉の大きさもない孔から楽器に出し入れできるでしょうか?

チェロの孔の話は、物語の後の方で、ゴーシュがアンコールの舞台に押し出されるときにも出てきます。

・・ゴーシュがその孔のあいたセロをもってじつに困ってしまって舞台へ出ると・・

f字孔があることで、わざわざ「孔の開いたセロ」と言うでしょうか?

このチェロの「孔」の謎については、朗読演奏会においてお話をさせていただきます。お楽しみに!

子ねずみはどこからチェロの中に?

21. 何とかラプソディ?

野ネズミの母子に応えてゴーシュが弾いたのは「なんとかラプソディー」。さて、どんな曲?

ラプソディ(Rapsodie(s))は、自由で即興的で、多彩な感情表現を特徴とする曲です。「狂詩曲」と訳されますが、それは様々な旋律が、自由に、ときには激しくときには哀愁を漂わせ、緩急の変化をもって奔放に織りなされるところから来ているのでしょう。

ラプソディと名の付く名曲で、賢治が聴いていた可能性が高いのは、一番には、リストのハンガリー狂詩曲でしょう。劇的に始まり、中盤からは軽快かつ華麗な旋律で飛び交います。ラヴェルのスペイン狂詩曲は初演が1908年とのことなので、或いは、賢治が耳にしたかもしれません。ビュッシーの アルトサクソフォーンとオーケストラのための狂詩曲は、初演が1919年。賢治は、ドビュッシーの交響詩「海」も聴いていましたから、当時としては新しい響きのある曲も聴いていた可能性はあります。しかし、口ずさみやすいような旋律を好んでいたようなので、リストのイメージが強かったかもしれません。

しかし、病気の子ネズミを治そうとしたときに、リストのハンガリー狂騒曲のような、激し目の曲を弾こうとしたのでしょうか?「おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代りになっておまえたちの病気がなおるというのか」とゴーシュは言いましたので、或いはそうかもしれませんが、はて?

朗読演奏会で演奏する南木千絵さんが作曲された「なんとかラプソディ」は、情感に富んだ美しいメロディーです。じっくり味わっていただけるよう、心を込めて演奏したいと思います。

ちなみに、邦楽でラプソディと言う名がつく曲と言えば、藤山一郎が歌っていた「東京ラプソディー」が浮かびますが、リリースが1936年6月であり、賢治の死(1933年)後の曲です。

なんとかラプソディー

VI. 金星音楽団🎵


22. 活動写真館と公会堂

金星音楽団がリハーサルを行っていたのは活動写真館でした。なぜ、活動写真館?

すぐに気が付かれた方もいらっしゃると思いますが、賢治の時代は、まだ、活動写真は無声でした。活弁士が語るイメージがすぐに浮かびますが、ピアノ演奏が着いたり、音楽団が演奏することもあったようです。

ただし、音楽団といってもオーケストラのような大きな編成ではなく、賢治がたびたび訪れた浅草の比較的大きな劇場でも10-20名程度であり、特別な機会に40名程度となることがあったそうです。

花巻には複数の活動写真感があり、「花巻座」という映画館が物語に登場する活動写真館のイメージではないかと言われますが、その詳細がわかりません。地方の映画館なので、音楽団があったとしても小規模なものであった可能性が高いでしょう。

金星音楽団が演奏会を行った公会堂のモデルの可能性があるのは「岩手県公会堂」で、1927年に落成しています。現存しており、大ホールの収容人数は800人強となっています。賢治が「セロ弾きのゴーシュ」の執筆を始めたのは、彼がチェロを購入した1926年ころと感がられていますので、当時、出来立ての立派なホールだったはず。金星音楽団の演奏は、このホールを錦の舞台として演奏を行ったイメージだったのかもしれません。

岩手県公会堂(HPから)
建設当初の大ホール(HPから)

23. 賢治がイメージした交響楽団は?


さて、賢治がイメージしていた交響楽団は、どのようなものだったのでしょう?

ベートーベンの「田園」は、木菅、金管、パーカッションで13名必要となります。弦楽器5部は、普通はバイオリン1&2で20人程度、ビオラ・チェロ・コントラバスで20人程度で編成しますが、弦楽器をぎりぎり減らしても、管楽器他とのバランスで20人は必要となるでしょう。となると、10-20名の楽団では演奏は難しいです。チャイコフスキーの「悲愴」は、木管金管だけで19人で、これにパーカッションが2~3名となるので、「田園」よりも一回り大きな編成が必要となります。なので、いずれも、活動写真館の音楽団の編成ではとても演奏することができない曲です。

賢治は、チェロを習いに東京に出たとき、今のNHKの前身である新交響楽団の団員大津三郎に教えを乞いましたが、上京した機会にこの交響楽団の演奏あるいはリハーサルを見ていたことと思います。したがって、金星音楽団のモデルは、花巻の活動写真館の音楽団ではなく、この新交響楽団だったのでしょう。

1927年2月20日、新交響楽団の第1回定期公演の様子。日本青年館にて。指揮:近衛秀麿
「みんなのN響アワー」HPから

24. 楽長さんのモデルは誰?


セロ弾きのゴーシュに登場する楽長はとても存在感があります。リハーサルの場においては、ゴーシュだけでなく、団員は、厳しく叱責されていました。他方で、演奏会が成功裏に終わると、「楽長はポケットへ手をつっ込んで拍手なんかどうでもいいというようにのそのそみんなの間を歩きまわっていましたが、じつはどうして嬉しさでいっぱいなのでした。」

この楽長にはモデルが居るようです。

賢治がチェロを習いに、新交響楽団の大津三郎を訪ねたころの指揮者は、この楽団を立ち上げた近衛秀麿でした。当時は、譜読みもろくにせずにリハーサルに出てくるような団員もいたそうですが、華族出身の秀麿の口調は穏やかだったそうです。秀麿を継いだのは、チェリストであり、指揮も手掛けていた斎藤秀雄でした。

斎藤秀雄は、新交響楽団の招きで来日したヨーゼフ・ローゼンシュトックに啓発され、学んだものを「斎藤メソッド」として確立し、その後、数多くの音楽家を育成します。その中には、小澤征爾、山本直純、岩城宏之、渡邉暁雄、武満徹、堤剛、藤原真理、徳永二男ら、数多くの世界に名だたる指揮者、演奏家が含まれます。

しかし、斎藤秀雄はなかなか気性の激しい人物であったようで、楽譜や指揮棒、煙草の灰が楽団員に飛んでくることがあったそうです。それでも、厳しさの中にある愛情で教え子が付いてきたと言われます。

留学から戻って厳しい指揮をしていたとされるころは、賢治が、しばしば上京していた時期とも重なります。実際に斎藤秀雄の練習風景を見ていたかはわかりませんが、チェロを習った大津三郎から話を聞いていたかもしれません。そんな斎藤秀雄は、あるいは、賢治があこがれとする指導者の姿だったのかもしれませんね。

VII. エピローグ


25. なぜ三毛猫に謝らなかったのか?


”その晩遅おそくゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
 そしてまた水をがぶがぶ呑のみました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。”

物語の最後はこのように締めくくられています。

物語を終わりの方から振り返ってみましょう。最後にやってきたのは、病気の野ネズミの子と、その母ネズミ。母ネズミは、ゴーシュに、子ネズミの病気を治すためにチェロを弾いて欲しいと懇願しました。そして、病気が治った子ネズミと、それをたいそう喜んだ母ネズミには、戸棚からパンを一つまみむしって与えています。

その前に訪れたのはタヌキの子。音が遅れることを指摘して考え込んでましたが、夜明けとともに急いで出て行ってしまいました。

その前に表れたのがカッコウでした。なんどもカッコウと合わせているうちに、カッコウの方がドレミファに嵌っているように感じてゴーシュはいらだちましたね。そして、「出て行かんとむしって朝飯に食ってしまうぞ。」と。慌てたカッコーは、朝日をめがけて飛んでいきガラスに激突。ゴーシュは窓を蹴破って逃がしてやったのです。これに対して、「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と言ったのでした。

では、最初に来た三毛猫はどうだったでしょう?ゴーシュは、扉に鍵をかけ、窓も閉めて逃げられないようにしてから「インドの虎狩」を弾きました。そして、舌を出させると、それでマッチを擦り煙草に火を点けます。いくら腹が立っていたとはいえ、相当の仕打ちでした。

では、なぜ、三毛猫に謝らなかったのか?

他の動物たちとの間では、ゴーシュが克服しなければならなかった課題を一つ一つ乗り越えることができたのに対して、三毛猫では何も改善しなかったから、というのも一つの考えではありますが、それだけでしょうか?

このお話は、朗読演奏会のトークで語らせていただきますので、お楽しみを。

セロ弾きのゴーシュに登場したのは?

26.理想の女性⁈

賢治が心を許していた友、賢治が勤務していた農業高校の隣の県立女子高で音楽を教えていた藤原嘉藤治に対して、理想の女性を語っています。

「新鮮な野の食卓にだな、露のように降りてきて、挨拶をとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、また、翌朝やってくるといったような女性なら、僕は結婚してもいいな。時には、俺のセロの調子はずれを直してくれたり、童話や詩を聞いてくれたり、レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりするんなら申し分がない」

この言葉には、賢治自身が、自分が弾くチェロ、自分の作品、音楽鑑賞についてどう感じていたかがよく表れているように思えます。

俺のセロの調子はずれを直してくれたり・・は、ゴーシュが「糸があわない」と楽長に叱責されたことを思い起こさせます。初心者は誰でもそうですが、音程をきちんととるのはなかなか難しいこと。そして、音が外れた演奏を聴くのは結構つらいもの。賢治は、自分自身の腕前をよく理解していたのでしょう。

童話や詩をきいてくれたり・・は、彼の作品の少なからぬものは哲学的、宗教的なものがあり、それゆえに、とっつきにくさがあるだろうと賢治が感じていたのかもしれません。

レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたり・・・、当時、クラシック音楽は、多くの人にとっては馴染みの薄いものだったでしょう。何枚もSP盤を取り替えながら、何十分もかかる交響曲の全曲を聴こうとしたのは賢治と嘉藤治くらいだったのかもしれませんね。

セロ弾きのゴーシュからは、そんな時代のクラシック音楽のイメージが伝わってくるように思えますが、いかがでしょうか?


27. 理想の女性のモデルは?

前回の投稿で、賢治の理想とする女性像を紹介しましたが、なかなか難しい条件でした。果たして、そのような人物は実際に居たのでしょうか?

思い当たるとすれば、妹のトシではないでしょうか?賢治がトシに恋愛感情をもったわけではないですが、賢治の理解者としてのトシ、その才能、性格を考えると、トシが賢治の女性観に影響を与えたと考えてもおかしくはないでしょう。

トシは、賢治とは2歳違い。学業に優れ、尋常小学校では模範生に選ばれ、花巻高等女学校では4年間ずっと総代を務めていました。女学校時代に、オルガンとヴァイオリンを学んでいます。東京に出てくると、東京音楽学校(のちの東京芸術大学音楽学部)の演奏を聴いていたといいます。賢治のレコード鑑賞会なども手伝っていたようです。

クリスチャン系であった日本女子大学に進学し、大学創立者成瀬仁蔵に信仰を求めるということを学び、また、讃美歌を覚えては賢治にも聴かせていたということです。賢治は、ミサ曲も聴いていましたが、これもトシの影響かもしれません。また、トシは、賢治の宗教心と、それが反映された作品を良く理解していたと考えらえます。

性格としては控えめで自分を強く主張するタイプではなかったようです。「露のように降りてきて、挨拶をとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、また、翌朝やってくるといったような女性」というイメージにも合いそうです。

そのようなトシが、若干22歳で他界したときの賢治の悲しみは計り知れないものでした。「春と修羅」の中に、トシの死を悼む三篇の詩が収められていますが、「手紙四」もトシの死がテーマとなっています。これらについては、朗読演奏会においてご紹介させていただきます。


宮澤トシ(日本女子大時代)

28. レコード鑑賞会

賢治は、レコードを入手するために金を使うことを惜しみませんでした。ベートーベン、ドボルザーク、バッハ、モーツアルト、ブラームス、ヴェルディ、ロッシーニ他多くの作曲家の交響曲、協奏曲など、貪欲に収集していたとのことです。賢治が特に気に入っていたベートーベンの運命は、当時の価格で6円50銭、今の価格なら3-4万円にもなります。そのようなレコードを何枚も購入していたとのこと。そのため、花巻の田舎のレコード屋がポリドール・レコードから表彰を受けたという逸話があります。

賢治は、あるものは擦り減るまで聴き、あるものは、売って更なる購入の原資とし、あるものは、生徒らに与えていたということで、コレクションのためのコレクションではありませんでした。また、少しでもレコードを痛めないようにと、糠と共に竹を焼いて作った針を使っていたと言います。

賢治は、レコードを聴いて、どのような情景が浮かぶかを語り合うことを楽しみとしていました。他方で、賢治の親友で、隣接した花巻女子高等学校の音楽教諭、藤原嘉藤治は、音楽の受け止め方は人それぞれなので余計な解釈はつけるべきではないという考えだったため、二人はしばしば喧嘩したそうです。ドビュッシーの「海」を聴いたとき、賢治は、夜に猟師がタコをつって船の上で格闘している光景だと言ったことから、嘉藤治は、絶交だとたいそう立腹したそうですが、そんなことが何度もあったそうです。

嘉藤治は、賢治に音楽を教える側ではあったものの、賢治は、聴いた曲については、ドイツ語の書籍で作曲家や曲について調べ上げて嘉藤治を上回る知識をすぐ身に着けていたそうです。音楽と情景、音楽と詩・物語は常に一体であった賢治にとって、音楽家、および曲がどのような生い立ちだったのかには強い興味があったのでしょうね。

29. 常に音楽があった・・

賢治は、背中におぶわれている幼少時に、親が唱えるお経を覚え、4歳のころには大人たちに混ざって経文を暗唱してました。賢治は、子供のときから、音楽を聴けば詩や風景が浮かび、詩や風景を見れば音楽が浮かんでいたようです。

オペレッタは馴染みやすい音楽演劇として捉えていたようで、中学時代は自作したオペレッタを学内の演芸会で演じたそうです。その後、東京に出るようになると、浅草の芝居小屋でオペレッタを観ていましたが、レコードではヴェルディのオペラ「アイーダ」も聴いていました。聴きながら生き生きと情景を浮かべていたことに違いありません。

彼の作品から音楽がにじみ出るものは少なくありません。「風の又三郎」の冒頭、”どっどど どどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ、すっぱいかりんも吹きとばせ、どっどど どどうど どどうど どどう」はリズミカルな音楽が聞こえてきます。また、詩集「春と修羅」の中の、「春と修羅」は、詩が波を打つようにレイアウトされていて、音楽が感じられます。その後、この詩は、藤倉大、信長貴富らの作曲家をインスパイヤし、素晴らし曲を世に送り出しています。

で、なぜチェロを選んだのか? チェロ習った大津三郎に語った動機は、「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうも、オルガンよりセロの方が良いようにおもいますので」で語っており、詩や物語を読む際の伴奏が目的とされていたのでした。

南木千絵さんが作曲された「セロ弾きのゴーシュ」におけるチェロは、時には物語を語り、時には伴奏として美しい響きを聴かせます。朗読演奏会にご期待ください。

#セロ弾きのゴーシュ #宮沢賢治 #朗読演奏会 #おといろかたり #わけの由美子 #中原敦子 #賢治と音楽 #南木千絵

グループ「おといろかたり」の朗読演奏会は、横浜人形の家あかいくつ劇場にて、11月3日 14時開演です。詳細は以下のリンクで。

lit.link/otoirokatari

30. 賢治の思いが継がれる

花巻の記念館に展示されている賢治のチェロ。賢治のチェロが残ったのは、彼が自分のチェロを親友、藤原嘉藤治と交換したための幸運でした。

花巻女子高等学校の音楽教諭であった藤原嘉藤治が、チェロを持っていたことは、賢治がチェロを始めるきっかけとなったと考えられます。賢治のチェロは、以前の投稿でお話した通り、鈴木バイオリンの最上位機種で、当時の価格で170円、現在の価格で100万円くらいのものです。それに対して、藤原嘉藤治のチェロはかなりお粗末なものだったそうです(資料によって15円で仕入れたという説と50円という説ももあります。15円なら今の価格で8万円程度です。50円なら今の価格で30万円程度なので、もともとは良い楽器だったがなにか大きな問題があったということになりそうです)。

1932年10月1日、賢治が没するほぼ1年前、嘉藤治は、盛岡の公会堂で「花巻カルテット」の公演を行いましたが、それに先立ち、病床の賢治を見舞いました。そのとき、賢治は、嘉藤治に対して、そのチェロじゃわがねえ(よくない)のだからおれのチェロをもっていけ」と言ったのです。嘉藤治は、賢治のチェロが高価なものであることを良く知っていたので、「では貸してください」と答えます。すると賢治は、「どうせおれは弾けないのだから、だまってお前さんのもってうるチェロと取り替えてくれ」と。それで、嘉藤治は賢治のチェロで晴れの舞台に臨んだのでした。

嘉藤治のチェロは、1945年8月10日の花巻空襲で焼けてしまいました。しかし、賢治のチェロは嘉藤治のもとに残り、1957年、賢治の実家に返還されることとなったのです。そして、1982年に開館した宮沢賢治記念館に展示されることとなりました。

1996年10月16日、花巻市民文化会館において賢治の生誕百周年記念コンサートが行われ、世界的な名チェリスト、ヨーヨー・マがファミリーコンサートを開いています。英訳された賢治の詩も読みました。百周年記念委嘱作品として、賢治の「やまなし」に間宮芳生が音楽をつけたもの。サン・サーンスの「白鳥」、エルガーの「愛の挨拶」などが演奏されました。舞台袖に下がったヨーヨー・マが、アンコールのためにもってきたのは、賢治のチェロでした。そのチェロで「トロイメライ」を弾いたのです。

大変感動した聴衆の中には、日本の名チェリストの藤原真理さんも入っていました。藤原さんは、二十年後、賢治の生誕120年祭で、賢治のチェロで「トロイメライ」を弾いたのでした。2023年には、花巻市民会館で催された賢治の没後90年特別企画で、世界に名を馳せる若手のホープ、宮田大さんにより、朗読と演奏を組み合わせたイベントが行われました。そして、そこでも、賢治のチェロにより「トロイメライ」が演奏されたのです。

トロイメライを弾きたかったはずの賢治。その賢治の思いは、彼の作品と共に世界的なチェリストたちによって継がれてきているのです。


さて、「セロ弾きのゴーシュ」にまつわるお話は、この回で終わりとし、あらたに、宮澤賢治の「手紙」他、演奏朗読会のプログラムに関するお話をさせていただこうと思います。ここまでのご愛読に感謝します。

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