人格と人間扱いの恣意性について
あなたの人格って、本質的にはあなた自身の中ではなく、あなたの外にあるっていう話をします。
擬人化というのは、人間ではないものを人間扱いすることです。
人間扱いというのは、対象が人間であるかのように認識し、人間であるかのように操作することです。もうすこし具体的には、対象が人間であるとき、人格を持っていたり、感情を持っていたり、傷つきやすいプライドを持っていたり、財産を持っていたり、記憶を持っていたりすることを想定しますよね。これらが「対象が人間であるかのように認識」することの具体例(のほんの一部)です。だから、相手が人間である場合は、そうでない場合と比べて、やって良いことと悪いことが違ったりする。相手が人間なら、対象との物理的接触の強さに特段の注意を払ったり、対象への言動が相手の感情を害しないように言葉を選んだりして、さらにこちらからのアクションに対して、相手のリアクションに注意したりする。これが「対象が人間であるかのように操作する」ことの中身です。相手が人間でないなら、こういう扱い方はしません。
傍若無人、傍らに人が無きが若し、っていう言葉がありますね。身の回りに人がいるのに、人目を気にしない言動をとるなら、その人は周りのひとを人間扱いしていないっていうことです。やってはいけないことですが、やってはいけないことをする人はたくさんいます。
会社などの法人には、法的な人格があって、自然人が持つような法的な権利や義務を、会社が持っていて、契約の主体になれることになっています。多数の人間からなる組織が、ひとりぶんの人格を持つものとして、意志を持ち所有や権利や責任や契約の主体になれるのだ、と法的に保証されているわけで、これも、擬人化の一種です。
人間でないものを擬人化したり、人間をあえて人間扱いしない例などいろいろありますが、こういうのを見ていると、こう思えてきませんか。
「わたしは人格を持つ」「わたしは人格を持つ人間だから人間扱いの対象になっている」
というよりも、
「わたしは人間扱いの対象だから人格を持つ人間とされている」
と言えないだろうか?つまり、わたしが人間であるか否か?の決定根拠を握っているのは、他人なのでは?と。
つまり、あなたという人間の人間性は、あなたの外にある。他の人があなたをどのように認識し、取り扱うか?に依存しているのです。
いや、私はひとりでこうして座っているときにも人間である、と言いたいひともいるかもしれません。
それに対する答えも、実はほとんど同じです。
わたしが私自身の人格を言葉で記述するときも、じつはわたしが私を擬人化しているわけですよ。「対象をまるで人間のように取り扱う仕組み」というものが存在していて、この仕組みを私自身に適用していて、それが人間扱いの本質なのですよ。
ここで、話をもうすこし抽象化します。
対象をまるで人間のように取り扱う仕組み(=擬人化)というのは、モデル化の一種です。
「対象をまるで●●のように取り扱う仕組み」のことを、モデル化と言います。●●という変項に「人間」を代入した特別な場合が擬人化です。
モデル化することによって、個別具体的で複雑な対象を、単純化・典型化・理想化・共通化して取り扱いやすく操作しやすくなります。
服飾ファッションモデルは、さまざまな人がその服を着たときにどのように見えるか?を多くの消費者に示します。人体骨格模型があると、医者や理学療法士が人体に共通する典型的なメカニズムを理解して、個別患者の問題を把握するのに役立ちます。模型は必ずしも物理的な存在である必要はありません。粉体力学モデルに基づく数値シミュレーションは、混雑する鉄道駅の柱を最適に配置することで人流をスムーズにするのに役立ちます。
いかなるモデル化も、モデルと現実との間の誤差を生みます。そして、誤差が小さいほどよいモデルだと言えます。現実を抽象化・単純化しすぎたモデルのせいで、誤差が大きくなることがあります。それは良くないモデルです。では、現実そのまま、いっさい抽象化・単純化しないものが誤差の小さい最良のモデルであるかというと、そうとも限りません。
服飾ファッションモデルは、私達の周囲ではめったに出会うことのない美人が務めます。あなたがその服を着たときの姿とは似ても似つかない光景を見せられるわけですから、誤差が大きくなります。そういうモデルは悪いモデルなのでしょうか?もちろんそんなことはありません。ファッションモデルを選ぶ目的は、その服を魅力的に見せてブランド価値を上げることです。将来における理想的な売上と、将来における現実の売上との間の誤差に着目するべきです。
粉体力学モデルによる人流シミュレーションでは、計算能力の制限が背景にあります。限られた計算資源にもとづくシミュレーションで各種施策の効果を推定して、それが実際の結果をよく予測できるかどうかが問われている場合、抽象化して単純化したほうが誤差が小さいわけです。
同じ対象であっても、背景次第、目的次第で異なる「誤差」の基準を切り替え、場合ごとに異なる最適なモデルを切り替えるのがふつうなのですね。こういう考え方をする場合「誤差は大きいけど、良いモデル」という日和った言葉遣いをする必要はなくて「誤差が小さいので、良いモデル」と言ってよいです。(予測コーディングとか自由エネルギー原理とか能動推論などの言葉が飛び交う最近流行りの統一的な世界観からは、全てがこのように説明できるわけです。)
さて、あなたという人間の人格の話にもどりましょう。
あなたという人間の人格とは「あなたをまるで●●のように取り扱う仕組み」の●●に対応します。●●は、モデルです。モデルは、それを使うひと、使う場面、目的次第で切り替わる恣意的なものです。
あなたは男であるから、我々の銭湯ではこちらの入り口から入ってください。あなたは禁治産者であるから、借金の申し入れに対してはマニュアルBに基づいて対処いたします。あなたは肩こり持ちであるから、背中をそういうものとして叩きます。
このように、他人が自分をどのようにモデル化したか?の総体が自分です。さらに、
わたしは、普通の日本人であるから、今日も白米と味噌汁を食べます。わたしは、インテリであるから今月も書籍代に収入の10%を支出しよう。わたしは人間であるから、お前の傍若無人な態度には憤りを感じる。
このように自分自身が、自分自身をどのようにモデル化したか?の総体が自分です。
もっというと、自分を表す「総体」なるものがガッツリと固定的にあるわけではないですよね。「総体」の内容は恣意的です。
したがって「総体としての自分」とは、具体的に正確に言うと、自分の人格って何なのだろう?とあらためて脳内検索をして、たまたま連想ゲーム式に浮かび上がってきたモデルの上位10個ぐらいを指すわけですよ。
これが、あなたの人格、あなたのアイデンティティです。
それ以外になにかあり得るでしょうか?
最近の気の利いた人工知能に、あなたという人格は何?と尋ねたならば、電子的な連想システムをつかって同様に上位10個程度のワードを出力してくれるでしょう。また、ユーザーがその人工知能をどのように扱うか(人間扱いするか、しないかなど)によって、ワード出力の傾向が変わってくるように組み込んでおくことも容易でしょう。
人工知能の仕組みの研究が進み、僕ら人間の人格が、なんら特別なものでないということがとてもよくわかってきています。「特別扱いするから特別なのだ」というトートロジー以外に、根拠はないようです。このへんを深く理解して絶望したひとから順に、自分が恣意的に特別扱いしたい対象を選んで特別扱いしてゆきましょうか。きっとその対象システムにとっては、それが自分を特別扱いする根拠になります。
以下では、「人間扱い」を「主体性」と関連付けて議論しています。あわせてお読みください。
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