「非人間的」な「何か」がコントロールした方が「公正」ではないかもしれないが「公平」にはできるだろう。
『経済学者は、社会学者と同様に、しばしば、当たらない予言をする人だと思われている。1930年、ちょうどルーズベルトによるニューディール政策が行われ始めた頃だ。経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、2030年までには、技術の発展によって英米のような自由主義の先進国では、1日3時間だけ働けばよくなり、週15時間労働が達成されるだろうと予言した。ところが、実際には、そうならなかった。どうしてか?社会人類学者のデヴィッド・グレーバーは、その著書『Bullshit Jobs:A Theory(ウンコな仕事――いらない仕事の理論)』(Simon & Schuster、2018)で「技術は、むしろ、もっと人々を働かせるために利用され、くだらない無意味な仕事が次々と生み出された」と主張している。グレーバーによれば、20世紀に増えたのは管理系の仕事だ。新しい情報関連産業である金融サービスや、テレマーケティングなどが創出されただけでなく、専門職、管理職、事務職、販売職、サービス職といわず、会社であれば法務、大学の管理や健康管理、人事、広報など、広い意味での管理部門が膨れ上がったというのだ。彼の意見では、受付係やドアマンは、顧客に自分が重要な人物だと思わせるために存在している「太鼓持ち(Flunkies)」なのだそうだ。さらには、雇われて攻撃的に活動するロビイストや企業弁護士、広報担当は「雇われ暴力団員(Goons)」、中間管理職は「ムダな仕事製造係(Task Makers)」だと評するのだから、手厳しい。グレーバーが不要だという職業が、本当に不要かどうかはともかく、彼は二つ重要な指摘をしている。一つは、保育士や看護師といった、彼に言わせれば「意味のある仕事」をしている人の賃金が低過ぎること。もう一つは、こうした社会システムが「悪い」資本家や政治家などによって意図的に設計されたわけではなく、無策によって出現したということである。~人間は、感情的な動物だ。他人のことでも、それを自分のことのように共感できてしまう。それは、規模の大きくなった「市場」や「国家」を動かしていくのに役立つ能力だった。だが、ボスやリーダーが共感能力を発揮して、その都度裁量し判断している社会は、法治社会ではなく「人治」社会と変わらない。人治主義には、ボスやリーダーの人格や能力に左右されやすく、機嫌のいい・悪いで判断が左右されかねない(属人的)という欠点があるし、「お前のためを思ってやっているんだ」という「温情主義(父性による支配、パターナリズム)」や、身内だからという「縁故主義(ネポチズム)」のような、依怙贔屓えこひいき(不平等)を生みがちだ。そういう仕組みは「人間的」かもしれないが、安定した平等な世の中にはなりにくい。「非人間的」に見えたとしても、現代社会には、やはり「法」が必要なのだ。マックス・ヴェーバーは『経済と社会』において、カリスマ的支配、伝統的支配、合法的支配の三類型を示している(「支配の類型」)が、この合法的支配が、法治主義にあたる。それは、近代国家においては、革命などの例外を除いて、日常政治の原則だ。そして、その合理的支配=法治主義の典型が「官僚制」である。ヴェーバーは、官僚を「働き続ける機関の歯車」であり「非人間的」と表現している。彼の考えでは、官僚制が批判されてもなくならないのは、結局のところ、官僚制よりも効率的なシステムが他には見つからないからである。~この本によると、実際に殺されたのは、レーニンが子供の頃に親しかった従弟で、逮捕し、秘密のうちに処刑したのは、レーニンが組織したチェーカーと呼ばれる秘密警察だった。それを知ったとき、レーニンがどんな顔をしたかは、伝わっていない。だが、その後も、彼が、秘密警察を維持するよう指示したことだけは分かっている。革命や独裁すら、それを適切に把握し、合理的に管理する官僚制抜きには、成り立たないというわけだ。ましてや、民主国家では複数の利害を調整するための官僚が必要になるのはいうまでもない。私たちが公正で平等な「人間的」な生活を営めるのは、官僚制が「非人間的」に、その時々の感情とは無関係に動いているからなのである。もちろん、このことは、官僚制を無限に受け入れるべきだ、という意味ではない。しかし、官僚が非効率的だと非難されることによって、「前例がないことはやらない」という先例主義に走ったり、非人間的だと非難されることによって、「首相の奥さんだから」「首相の友人だから」等々、「人間的」に忖度そんたくするようになったり、さらには一切の非難を避けるために不作為のサボタージュに徹したりすれば、より酷い官僚制(ブルシット・ジョブ)が生まれるだけだ。私たちの社会は官僚制なしでは成り立たないからこそ、無際限な官僚制の拡張を許すべきではなく、そのための新たな批判の言葉を持たなくてはならないのだ。官庁に限らず、民間企業でも大学でも、どんな組織も生き残ろうとする。チャンスがあれば、自分たちのテリトリーを拡大しようとする。官僚制批判があるにもかかわらず、官僚制が生き残り、制度改革の度に強化されるのは、そうした適応の結果に過ぎない。』
『民主国家では複数の利害を調整するための官僚が必要になるのはいうまでもない。私たちが公正で平等な「人間的」な生活を営めるのは、官僚制が「非人間的」に、その時々の感情とは無関係に動いているからなのである。』この『公正で平等』がクセモノで実は『公正で公平』を望んでいるのに他に人間は策を持たないのだ。何故なら「自由と平等」はホントは両立しないからである。ある個体が「みずからよし」としても違う個体は「みずからいな」と成ってしまうので平等には成りえない。ヒトがヒトをコントロールしているうちはもう手詰まりなのだ。ならば「非人間的」な「何か」がコントロールした方が「公正」ではないかもしれないが「公平」にはできるだろう。
なぜ役人は無意味なクソ仕事に一生懸命なのか
それこそが「官僚制」の本質である
https://president.jp/articles/-/32250