行き過ぎた「正義」ほど恐ろしいモノはない。それは歴史が証明している。すべては「程度」問題なのだ。
『進化心理学では、心をシステム的に捉え、あらゆる知覚や感情には、進化によって備わった「ファンクション(=機能)」があると考える。たとえば、腐った食べ物に嫌な臭いを感じず、身体が傷ついても痛みを感じず、砂糖を甘く感じないような個体は、進化上不利になり、やがて淘汰されてしまう。砂糖分子そのものには、「甘い」などという性質はもともと含まれていない。自然淘汰の働きによって、遺伝子を生きのびさせるうえで有利な形質──ここでは、「糖分を美味しく感じさせる遺伝子(のセット)」──を保有する個体が生きのびた結果として、砂糖は「甘くなった」のである。当然のことながら、「甘い」という味覚と、ATP(=細胞のエネルギー通貨)との結びつきをその生物自身が理解している必要はない。われわれサピエンスをふくめ、生物自身は進化上の “戦略性” や、進化上の “目的性” を自覚しない。あとで詳述するが、きっとそれは「イートイン脱税にムカつく」という心理についても同様だろう。進化とは、自然選択が大自然の「ビッグデータ」を活用して、アルゴリズム的に実行する統計プロセスだ。結果的に有利な心の設計をもつ個体が次世代にその遺伝子を伝え、結果的に不利な心の設計をもっていた個体は、次世代に遺伝子を伝えていくことができない。~サピエンスの心に搭載されている基本的な感情システムには、すべて独自のファンクション(=機能)が備わっていると述べた。つまり“ムカつき”も、生物学的な起源から生じている可能性が高い。イートイン脱税にムカついている当事者たちがSNSでよく口にしていた言葉といえば、「ズルい」「もやもや」「ルール違反」「正直者が馬鹿を見る」「一人だけ得するのは許せない」といったフレーズだ。~その他多くの研究からも、どうやらわれわれサピエンスという種は、他者の不正行為(ズル、ルール違反、イカサマ)を見抜くのが非常に得意であるらしいことがわかっている。なぜサピエンスは、そのように進化したのだろうか? それは、われわれ人類が数百万年にもわたって過ごした太古の部族社会において、ながらく「モラルゲーム」を遂行してきた動物だからである。進化心理学者のロバート・クルツバンによれば、モラル(道徳心)の起源は〈他人の行動を規制したい〉という心理の進化に見いだせる。われわれは、他者と〈意図を共有〉できる動物だ。たとえば、強いボスザルがワガママな行動に出た際、それを弱いサル同士が協力することで「規制」することができる。そうした「規制」こそがモラルの原型だというのである。*5──どういうことだろうか。クルツバンは、“生殖”を例に出して説明する。進化の論理では、上手く異性を獲得し、子孫を多くもうけた個体の心理形質だけが生き残っていく(当然ながら、異性を獲得できない個体は子孫を残せない)。しかし、人々が〈意図を共有〉できる人類の社会では、圧倒的に強い特定の個体だけが異性を独占している状況を、そうでない個体がただ指をくわえて見ているというだけでは済まない。そのような状況が続くことを、多くの個体は許さないのだ。~“ 繁殖成功度という意味での生物の状況は、生殖に関するルールの如何によって、向上したり悪化したりする。ここで、人類も他の霊長類同様一夫多妻制をとり、「もっとも有能な」男性が、複数の女性を手にし、相手が一人もいない男性が大勢出現したとしよう”“ その場合、能力の劣る男性は皆、一夫一妻制を遵守させるルールに深く決定的な関心を抱くであろう。そのようなルールが規定された社会では、能力の劣る男性でも、うまくやっていけるはずだからだ”(ロバート=クルツバン著 『だれもが偽善者になる本当の理由』より)~お分かりだろうか。モラルとは、「他人がやりたがっているXという行為をさせたくない」という、ある意味で“利己的な”感情が、互いに互いを縛り合い、制限しあった結果として進化的になんとか成立した側面が大きいものなのだ。~では、「他人が手を使うプレーは禁止するが、自分だけが手を使うのはオーケー」と考えるような人はどうだろう。──じつは、行動経済学者のダン・アリエリーも示しているように、人目がなければ、誰もが少なからず、そういう「ズルい」振る舞いをする傾向を持ち合わせている(遺伝子生存競争において有利になるので、そのような傾向が進化している)。*6しかし、かといって人目につくところで、公然とそのような「ズル」を押し通そうとする乱暴者は、人類社会ではうまく生きのびていけない。~このダイナミクスにより、狩猟採集社会では、ワガママを抑制できない者は集団から追放されたり、処刑されたり、評判を傷つけられ結婚できなくさせられたりして、適応度(=遺伝子の成功度合い)を進化的に引き下げられてきた。すなわち淘汰の憂き目を見たのである。その結果、太古の社会システムを維持していた狩猟採集社会ではどこも、〈徹底的な平等主義〉によって、社会が維持された。進化生物学者のデイビッド・スローン・ウィルソンはこう述べている:「集団は平等主義的だ。全員が高潔だからではなく、ずるい人やいじめっ子の予備軍を見つけて罰する手段を集団としてもっているからだ」。*8~結局のところ、われわれサピエンス社会において「モラル」(=みんなでXという行為をしないようにする決まり)というものをうまく機能させるためには、“公平”がキーワードになる。モラルは、生物学的な論理からすると、全員を一律に縛らなくてはならない。例外が生まれてしまうと、多かれ少なかれ、だれもが腹をたてる。それはわれわれが種としてそのように進化しているからであり、そのひとつのパターンが「イートイン脱税にムカついてしまう人々」なのだ。そう、繰り返すが、われわれサピエンスは、モラルが行きとどいた平等主義的な社会環境──太古の狩猟採集社会──で心の設計を進化させてきた。その環境では、ズルいやつを目ざとく見つけ出して叩き、集団から排除することができる個体が生き残ってきた(場合によっては、それにより評判と適応度を高めさえもした)。*9しかし、「叩く」と言っても、自分一人で殴りかかるなどして私刑を下すということではない。そのような行動はリベンジリスクが高すぎて、これまた自然淘汰を生きのびられない要因となる。自然淘汰を生きのびたのは、〈部族の皆で集団制裁を下すこと〉を呼びかけるような正義心をもった人々なのである。正義心という感情は、進化心理学では一般に、“ジャスティス(=裁き)を下したいと感じる怒り” として説明される。正義による裁きは、進化人類学者のポール・ビンガムが「連合執行」と呼ぶように、モラルの違反者に対して、部族の皆が噂話などを介して意見を一致させ、公的な暴力として振るわれる。*10ズルい違反者を見つけて、公的な所に──店員や、お客様窓口に──「クレームを入れる」という振る舞いはまさに、ズルいやつに対して“ジャスティス”の執行をもとめるという、部族社会時代から受け継がれたヒト生物学的な感情の名残なのである。〈正義心〉という感情は、神経科学の世界では、別名「利他的な処罰/altruistic punishment」とも呼ばれる。われわれサピエンスはどうやら、規範から逸脱した者に制裁を加えることで、脳内ドーパミン神経系回路が活性化し、快感を感じるように進化している種のようだ。*11正義心には脳の報酬系が絡んでいる。もしかしたら、習慣的かつ日常的な〈正義〉行為の実行により、「他人を罰するのをやめたくてもやめられない」依存症や中毒のようになっている人もいるかもしれない。他罰的な傾向を自分ではやめたいと思っていても、離脱症状がひどく、イライラが止まらないのだ。──進化心理学の知見からは、以下のことが言える。われわれサピエンスは、「ズルい奴」に鋭く反応する認知システムと正義心を、〈過去の部族社会で〉適応的に進化させている。その感情はたしかに、「他人のズルを防ぐ」(=自分だけが損をすることを防ぐ)という意味で、有益に働き、生物学的なメリットをもたらしてきた。そうしたしくみが、いまでは「モラル」と呼ばれるようになっている。だが、あまりにも巨大化し複雑化した現代社会ではどうか。店内だと418円のカプチーノがテイクアウトだと410円になる──いくら「ズルい」といっても、その程度の差にわざわざイラだちを感じるメリットがどれほどあるだろうか。その損得を冷静に判断した方が、総体としてはおそらく“おトク”になるはずだが、これだけ技術を発達させ高度な社会を築いても、われわれの心の進化は、それにまだ追いついてはいないのである。』
「正論おじさん」や「ネット自警団」はともすれば「暴走」しかねない。彼らの言動のエネルギーは「正義」だからだ。行き過ぎた「正義」ほど恐ろしいモノはない。それは歴史が証明している。すべては「程度」問題なのだ。
「イートイン脱税」は、なぜ私たちをこんなに「ムカつかせる」のか?
進化心理学が暴く「ムカつき」の論理
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68694
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