【エッセイ】潮騒を聴きながら・平成3年~令和4年頃
■平成前期を生きる 呪いを解き新しい家を作れば
原因不明の喘息も、身体の痛みも出血も、小笠原の数週間で全て快復することが出来ました。ところが、東京に戻り歌の仕事を再開しようとすると恐怖に襲われます。喘息や痛みの苦しさが思い出されて、再び声が出せなくなるのです。
私は歌うことをあきらめて、企業の派遣社員として働き始めました。
平成六年十二月。
三十三歳で結婚しました。シンセサイザーで音楽を創作する重信将志氏です。年が明けて直ぐに、阪神・淡路大震災が起こり、地下鉄サリン事件などで世相が大混乱した年でもありました。
不妊治療や流産を経て女の子を授かったのは、その六年後。私は、三十九歳になっていました。
娘を抱きしめていると、私自身が幼い頃から経験して来た寂しさや悲しみが思い起こされるようになりました。妹の死、両親の不仲、暴走、薬物依存や精神疾患を持つ親と関わる残酷さ、機能不全家族の苦しみ。呆然としました。私には、子育てをするための良き親のモデルがありません。さらに強く緊張に襲われるようになりました。
夫には、結婚前に家庭環境のことは包み隠さず話しました。「よく頑張って来たね」と夫は言い、こう付け加えました。
「お母さんとあなたは似てるかもしれない。二人とも強いエネルギーを持ってる。マグマみたいな。そのエネルギーは、火砕流になって人を殺すことが出来るけれど、温泉になって人を温めることも出来る。あなたが、そのエネルギーをどう使うかだと思うよ」
救われました。母を少しだけ受け入れることも出来るようになりました。
私は、誰かを温める温泉になりたい。この子のために、そして歌を受け取ってくれる誰かのために、強くなりたいと願いました。カウンセリングを受け、心と身体の勉強を始めたのもこの頃です。
すると私の心の奥底には、両親、妹、弟、つまり家族の誰をも救うことができなかった無力感と罪悪感が、澱のように溜まっていることに気付きました。
「誰も救えない私」「誰の役にも立たない私」「生きる価値のない私」「誰からも愛されない私」
耳をふさいでも、心の奥底の声は消えません。私はその声から逃れたくて、十代の頃から闘って来ました。でも、もう無理。外の世界に自分の価値を埋め合わせてくれるものなど、なにもないからです。
私の体調不良の原因は「今」ではなく、遠い「過去」の傷から発症したものでした。
ある日、とてもリアルな夢を見ました。
大洪水の濁流の中に、小さな小屋が建っています。今にも押し流されそうな小屋の中には、祖母と小学生の弟と中学生の私。中学生の私は、
「私がしっかりしなければ」「私がこの老人と子どもを守らなければ」
と震えながら二人を抱きかかえ、必死に死の恐怖に耐えていました。
目がさめた時、私は中学生の私が抱えていた恐怖に初めて気付くことができたのです。私は、遠い日の私自身に向かって話しかけました。
「中学生のあなたには荷が重すぎたね。よく頑張ったね。もう大丈夫。これ以上、背負わなくていい。安心して。もう大丈夫だから」
私の悪戦苦闘の日々が、少しずつ収束に向かい始めました。
「私は、ここにいていい」「私は、生きていてもいい」
この言葉を実感し素直に受け取れるようになるまで、随分長い時間がかかりました。
こうしてステージを降りてから八年後、私は心と身体を整える大切さを学び、自分の声を取り戻す方法を知り、娘と一緒に歌う歓びを得ることがようやく出来たのです。
■平成後期を生きる 私でなければできないことをやる
四十代に突入した年、派遣社員の更新が打ち切られました。職業安定所に通う日々。けれど私は、自分でなければできない仕事を見つけたいと願っていました。
そんな時です。街中で、緑山塾時代の友人に数十年振りに再会しました。
「あなたプロの歌手なんだからさ、私に歌を教えてよ」
無理。絶対に無理よと、即、断りました。けれど友人は諦めません。
結局その一言をきっかけに、私の人生が大きく動き始めました。
友人と再会した翌年の平成十六年三月。声の不調や回復過程から学んだことを元に、心と身体を整えるボイストレーニングクラス「マミィズボイススタイル」をオープンさせました。
不思議なことに、通って来られる生徒さんたちは、どの方もかつての私のように原因不明の身体症状を抱えていたり、生き辛さを抱えておられました。女優や歌手として表現出来なかったものが、別の形と方法で伝えることが出来るようになりました。「無駄なものはなにもない」というのはこういうことなのかもしれません。
その後、ボイストレーニングの実用書を四冊出版し、自宅レッスンの他に、講演やセミナー、雑誌、テレビ出演、そして生徒さんからご紹介を頂き、心療内科のデイケアプログラムでの指導や、虐待を受けた子どもたちのシェルターでも、ボイストレーニングを行えるようになりました。
■平成から令和へ 「この道」はいつか来た道?
平成二十七年の早春。精神病院に三十九年間入院していた母が他界。父と弟は、葬儀参列を拒否しました。無理もありません。私は、広島に出向きひとりで母を送りました。棺の中で少し窮屈そうに眠る母は、心なしかほっとしたような表情に見えました。
東京に戻り、愛媛県の親族を探すと母の兄が健在でした。先祖が眠る墓に遺骨を届け、私は娘の役割を終えました。
みかん山の中腹にある静かな墓所。
私の原風景は私のイメージそのままに残されていました。
かつて私が、心の底から望んでも決して手に入れる事の出来なかった時間があります。親と他愛ないおしゃべりをする・三者面談に親が来てくれる・合格を一緒に喜べる・母と一緒に買い物に行く・家族そろってご飯を食べる・家族みんなで笑い合う……
あぁ、欲しかったものは、ちゃんと手に入れられました。子どもとしてではなく、親の立場としてなのですが、夫と娘のおかげで全て叶えることができました。生きてみるものですね。私の人生は、これだけで充分だったのだと、今は思えます。
■平成から令和へ 新しい生活様式
「新しい元号は、令和であります」
大学生になった娘と昼食を取りながら、新元号発表の瞬間をテレビで観ました。夫との生活は銀婚式を迎えました。
令和二年。
コロナの感染拡大防止を受けて、十六年間続けて来た個人レッスンを三月から休業しています。大切なものをもう一度見出すために、今の災厄があるのかもしれません。
令和三年。私は、還暦を迎えました。驚きました。こんなに生きるとは思ってもいませんでした。ボイストレーナーとしても、そろそろ引退を考えた方が良い時期なのかもしれません。
さて、どうしようか… と考えています。
で、どうしたい? と問いかけてもいます。
令和四年。病気をして入院を経験しましたが、思った以上に健康に過ごせていることが不思議に思えます。ようやく肩の力が抜けました。生きる価値を見出すために、闇雲に頑張る必要はなく、淡々とご機嫌に日々を過ごして行きたいと穏やかに願える人になれました。
私の「この道」には、いつの間にか、今は亡き妹や母、出会って別れた、たくさんの人たちの声が聴こえています。潮騒にも似た、たくさんの声に耳をすましながら、誰かの心と身体を温める温泉になれる方法を、これからも探して行くのかもしれません。
長い「わたくしごと」になりました。振り返ると、その時々、不器用ながら一生懸命に選択し、真っ直ぐに生きたような気がします。要領の悪い下手くそな生き方をしてきましたが、まぁ、頑張った方だよねと自分を少し褒めたい気持ちです。人生は短いですね。瞬く間に過ぎて行きます。あとどれくらい時間が残されているかわかりませんが、丁寧に柔らかく、日々を、言葉を紡げる人になりたいと願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
これからも末永くよろしくお願い致します。