【エッセイ】銀巴里*昭和の光とおさまりの悪い私のこと ②
銀座の街を彷徨う。惨めだった。色とりどりのネオンサインが針のように尖って感じられ、沈み込む心と身体に突き刺さった。思い描いた場所にたどり着けない。いや最早、思い描いた場所がどこだったのかもわからない。明日も早朝と夜のバイトのダブルヘッダー。疲れた…… 握った手を開くと、しわくちゃのメモ用紙が出てきた。とにかく今は、コマを進めるしかない。
翌日、電話をかけた。女性の父親らしき人が応対してくれたので用件を伝えると「お話し伺ってますよ」とのこと。女性だと思い込んでいた人は、女性的な名前の男性だった。
すぐにレッスンをしていただけることになった。また断られるのか、また怒鳴られるのかと身構えていたが、実際にお会いすると、とても穏やかな人で何だか拍子抜けした。
「先生は、怒鳴らないんですねぇ」
思わず口に出してしまった。
「なんで怒鳴る必要があるの?」
と不思議そうな顔をされた。オーナーの紹介とは思えない……
私にとって新しい先生は、音大出身の現役のシャンソン歌手。古くから銀巴里にも出演されているとのことで、初回レッスンでは、ご自身がリリースされたサイン入りのLPレコードをプレゼントして下さった。
なるほど。師匠が言っていた「シャンソン界の流儀」という言葉が、ようやく染みてきた。
シャンソン歌手になりたい人は、後輩の指導を行っているベテラン歌手の門下生となり、師匠の持っている膨大なレパートリーの中から曲をいただく。もちろん門下に属さない歌手もいるが、歌っている曲や訳詞を聞くと、誰の門下かすぐにわかるのだという。シャンソン界は狭い。全てオリジナルで活動するなら別だが、訳詞者や先輩歌手、伴奏家とのつながりが仕事の発展には不可欠となる。
それにしても、まともに歌えるレパートリーが一曲もないまま「歌わせろ」とシャンソニエに押しかけて行った私の無知蒙昧振りが、恐ろしい。誰の弟子でもないのにいきなり寄席に行き、「落語やらせろ」とねじり込む素人の狂気と同じだ。とことん恥ずかしい。
しかもあの店は、銀座の文壇バーと呼ばれ、名だたる大作家が集う超名店・大人気店だった。オーナーは元々音大の声楽科に通い、同時に銀座のナンバーワンホステスで、大作家の愛人で、小説にも度々登場し、歌手になってからは、銀座に三店舗経営するやり手となり、銀巴里の花形スターでもあった。乗ってる車は真紅のアルファロメオ。スケールが桁違いだ。そりゃ、怒鳴られる。
オーナーと先生は連絡を取り合い、私の様子を共有していたらしい。レパートリーが20曲近くに増えた頃、再度オーデションの機会が与えられた。
再び穴倉のようなシャンソニエを訪ね、ピアノ伴奏で一曲歌った。
「あんた、週何日来れる?」
それが合格の言葉だった。
「学校の先生みたいな名前だからさ、変えな」
オーナーは、苗字はそのままで名前を「ユリ」もしくは「さゆり」「百合子」に変えろと言った。ユリの花に、強いこだわりがあるらしい。バイト先のスナックのママに相談すると「あんた、ユリじゃぁないよね」と一蹴され、ふたりであれこれ考えて「浜田真実」という新しい名前を名乗ることにした。オーナーはちょっと不機嫌な顔をしていたが、最終的には「ま、いいか」と受け入れてくれた。
デビューの日。お客様は三名だった。それでも激しく緊張した。マイクを持ってピアノの前に立つ。いやな汗が吹き出してくる。仁王立ちになった私は言った。
「えぇ… どうも。浜田です」
「選挙演説か、イモっ!」
オーナーの罵声が飛んでくる。客前でも容赦なし。ステージの度に叱られ「容姿と声と歌がバラバラ! 気持ち悪いんだよ!」「鏡を見て練習してこい」とドヤされた。さすがに、満身創痍だ。
それでも、毎日ステージに立っていると振る舞いにも慣れてくる。やがて銀座のシャンソニエだけでなく、都内に点在している他のシャンソニエからも声がかかり、バイト生活から抜けだせた。私は毎晩どこかのステージに立ち、歌う人になった。
銀巴里のオーデションは一年に一回行われる。
一次審査はカセットテープ審査。数百人から30人ほどに絞られ、二次審査は実際に銀巴里のステージに立ちバンド演奏で歌う。持ち時間は二分。二分経つと強制的にライトが消え、バンド演奏も止まる。審査員は、客席のお客様と先輩歌手だ。前年の合格者は一名。該当者なしの年もある。
前年、初めてオーデションを受けた。合格できなかったが「補欠」に選ばれた。補欠は隔月に一回、銀巴里で歌う機会を与えられる。そして翌年、再受験をする。そこで正式合格できなければ二度と歌う機会は与えられない。
二度目のオーデションに、どうしても通過したかった。祈るような気持ちで客席に座り、出番を待った。他の店で一緒にステージに立った同世代の歌手や先輩方もいる。店内の空気が張り詰めている。
出番だ。ステージに立つ。呼吸を整える……
ふと見ると、客席最後列奥の厨房が見えた。客席からは見えないが、ステージからはよく見える。ピンスポットの後ろ側に、先輩歌手が立っていた。私が初めて銀巴里と出会った日に歌っていた方だ。他の店でご一緒するようになってから、とても可愛がってくださっている。バンド演奏が始まった。すると先輩は、やおら手に持った扇子を開き上下に振りリズムに合せて踊り始めた。扇子には真っ赤な日の丸と「がんばれ」の文字。
「えっ?」
扇子を持って踊るキャラクターの人じゃない。嘘でしょと思っている間に、思わず笑ってしまった。可笑しくて一気に力が抜けて、二分間、その先輩の奇妙な演舞だけを見ながら笑って歌った。バラードじゃなくて良かった。下町の元気な女の子の歌で良かった。
オーデション終了後、先輩の元に挨拶に伺ったらこう言ってくださった。
「ここは、お客様を楽しませる場所だから。肩の力を抜いてて良いんだよ。歌い手が楽しまないと、誰も楽しませることなんて出来ないでしょ。今日の歌、とっても良かったよ」
合格するか否かなんて、もうどうでも良くなった。私の進む道は、どんな時でも、どんな場所でも「目の前にいる人を楽しませる」この一点なのだと気付くことができた。
先輩の額には、うっすらと汗がにじんでいた。
昭和六十三年(1988年)。
私は、銀巴里のオーディションに正式合格した。
「先生、銀巴里デビューが決まりました!」
師匠に電話で報告したら
「良くやった! ほめてつかわす!」と大きな声で讃えてくれた。
銀巴里の楽屋は、ステージ横のカーテンの奥。そこは畳二枚程の押入れのようなスペースに、鏡と細長いベンチシートが置かれている。キャリア順に座り、ベテラン歌手が一番奥、私は一番手前に座る。新人は先輩の譜面を集めて順番通りに並べ、バンドメンバーに配布し、ステージが終わると回収する仕事もあるからだ。
一ステージで持ち歌を二曲歌える。一日、四回から五回のステージ数。緊張するし。忙しい。だけど嬉しかった。私はようやくたどり着きたい場所に着き、おさまるべきところにおさまることができた気がした。
終演後、ギャラの入った封筒をいただいた。千円札が一枚と小銭がチャラチャラと音を立てていた。え……?
銀座の石畳を踏みしめて歩く。
昭和が終わろうとしていた。