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都の西北、早稲田の隣の牛めし屋
(早稲田大学本部キャンパスの西門の近くにある牛めし「三品」。早稲田のビンボー学生のソウルフード。しかしそれでも、私の時代に食い逃げをした学生がいたらしく(笑)大学機関誌(?)「早稲田乞食」で「三品で食い逃げ」という号外が発行された)
「学生注目!」で書きましたが、私のフランス語の師は森乾先生と内藤ソランジュ先生です。
おかげでわずか3年でフランス語の学術書も読めるようになり、会話もヒアリングが出来るようになりました。
6年間中学校、高校で英語を習ってロクに論文も読めないのは、なんだったんだろうか。
私が新潟大学大学院法学研究科の時に、この仏語と行政法の経験が役にたって、フランス公法学の論文を書くことになるので、早稲田で一番重要な先生だったと思います。
猪俣津南雄先生ですが、早稲田大学で講師を務めていたのはわずか数年で、早稲田大学での大正末期での大学での軍事教練反対集会、猪俣講師は、反対運動の首謀者として研究室を家宅捜索(佐野学先生とともに)を受けるのです。そのあと大学を除籍されます。
その後は在野の研究者として、雑誌に論文を投稿して活動しました。
「在野の一匹狼のマルクス経済学者・猪俣津南雄」とはまさに「早稲田イズム」です。
長岡高等学校同窓会名簿に「著述家」と記されているのはそのような理由だと考えられます。
私の大学生時代は、ソビエト連邦の崩壊により、マルクス経済学が読まれなくなるという激動の時代でした。バブル全盛期で、マル経の授業を取る学生は激減。
マルクス経済学者は忘れられようとしていました。
しかし猪俣津南雄先生の著作は、観念論的、机上論的マルクス経済学でなく、「窮乏の農村」(岩波文庫)にあるように、実証主義的な社会分析によるものでした。そのため多くの学生、研究者から支持されます。
「マルクス経済学」というフィルターを取ってみればわかるでしょう。
現代でも政党の「非共産党系社会主義、社会民主主義政党」つまり社会党、社会民主党、立憲民主党、国民民主党につながる源流の論客の1人ですし、労働運動では労働組合の総評、連合の源流になります。
新潟県の小作争議で木崎争議が有名ですが、猪俣津南雄先生の教え子(浅沼稲次郎、三宅正一など)も参加しています。
早稲田大学社会科学部の政治学の岡沢教授は、「政治学の論文は早稲田の先生の方が、東大の小野塚喜平次先生より古いが、内容が良かったとは限らない」と早稲田の自虐ネタをかましていました。
「長岡高校」とは、そういう存在であるのが、当時の「ふるーい」、早稲田大学教員の認識みたいだったようです。
知りませんでした。
県立高校教員は人事異動で動くので、長岡から上京した私には伝えられなかったと思いました。なんてこった。
親には「大学で勉強したらイナカに帰る」と言ったのは、そういう理由もありました。
自分の地元のことを知らない、というのが一番大きな理由です。