Ep.10『IPAビール』
IPAビール(32歳、男性)
『マスター、お久しぶりです』
そういうと僕はカウンターに座り、ビールを注文した。
嬉しそうにマスターは2杯のビールをサーバーから注ぐと、きめ細かな泡をこぼさない様に、僕らは乾杯をした。
『お久しぶりです、先輩』
そうだ、
この店のマスターは、以前の会社の先輩だ。
先輩は同じ会社にいた時に本当によくしてもらった。
勤務先が駅から遠くて、
当時は良く先輩の車で一緒に帰ったっけ。
仕事が遅く終わった時は、車で往復2時間のラーメン屋まで深夜ドライブした。
仕事でミスして落ち込んだ後輩を連れて、3人で人生初のバンジージャンプをした事もあった。
かなりの粗治療だったが…
あの頃から先輩は、他の先輩達よりも突き抜けていた。
探究心が強く、技術が向上して行く姿をずっと見ていた。
真面目で責任感があって、
優しかった。
それに何より、コミュニケーション能力に長けていた。
と言っても、他の先輩達が不得意なのも要因だ。
憧れたし、大好きだった。
そんな先輩が会社に辞表を提出した。
僕は驚かなかった。
いつかそうすると思っていたからだ。
先輩が最後に会社に来てから2カ月後、バーテンダーになった事を聞いた。
その時はオーセンティックなバーで修行中だと言っていたが、一年半後にメインバーテンダーとしてお店を開いたとの事で、僕も度々寄らせて頂いている。
先輩は当時、お酒の知識は皆無に近く、四苦八苦していた。
なぜそんな状態でバーテンダーになったのかは謎だが…
とはいえ、僕はビールオタクと言われるぐらいビールが好きで、詳しい。
それが功を奏して、新聞に取り上げられた事もある。
そんな僕に、先輩はビールの事を教えて欲しいと言って来た。
僕の行き付けのビール専門店に飲みに行ったり、オクトーバーフェスに一緒に行ったりした。
そして、先輩のビールに関する質問に、一つ一つ丁寧に答えて行った。
その影響もあってか、今ではこのバーにクラフトビールがいくつか置いてある。
『先輩、おすすめのクラフトビール下さい』
すると先輩はIPAビールを2つ用意し、僕らは2度目の乾杯をした。
マスター『僕は昔、ビールが苦手だったんだ。でも、このビールがきっかけで好きになったよ。ありがとう。』
IPAとは、インディアペールエールの略。
当時イギリス人がインドに渡航する為、保存目的で従来のビールにホップを強く効かせた。これで長期保存が可能となったと同時に、強い苦味に比例して、華やかフルーツの香りが特徴となった。
これが美味しいと話題になり、現在はビールのスタイルとして確立している。
という説明を、以前先輩にしたのを思い出した。
趣味とはいえ、僕が今まで得てきたビールの知識が先輩の役に立っているなんて、嬉しい事だ。
僕が今まで得てきた経験や知識は、自分の中で閉じ込めておくのではなく、発信していかないとかもしれない。
それが誰かの役に立つなら、僕の今までの体験によりいっそう意味が持てる。
なんだかそんな気がしてきた。
『先輩、お会計お願いします』
そう僕が先輩に言うと、
必要ないと首を横に振って、先輩は僕を見送った。
同じ会社にいた時と同じ様に。
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グラス一杯の物語【シーズン1】
東京銀座にひっそりと構えるバー。来店されるお客様と、今宵最高の一杯をお出しするマスターのお話。ダサくてもホットな気持ちにさせてくれるエピソ…
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