グラス一杯の物語
Ep1.『ロゼの思い出』(28歳、女性)
『(こんなところにバーがある。転勤で近くに引越してからもうすぐ2年が経つけど知らなかった。)』
『(入ってみよう…)』
『こんばんは、1人です。』
私は空いていたカウンター席に座り、マスターから温かいおしぼりを受け取った。
白い花のいい香りのするおしぼりで、少し心が落ち着いた。
初めて入るお店は、いつも少しだけ緊張する。
メニューを見ると、ワインからカクテル、ウイスキーまでと幅広いお酒が書いてある。
苦手なお酒が無い私は、ついつい迷いがちになる。
そんな時は、健康で元気な体で産んでくれて本当にありがとうと両親に感謝する事にしている。
『(さてと…最近覚え始めたワインにしようかしら…)』
『マスター、飲みやすい赤ワイン下さい。あとポテトサラダもお願いします。』
『(ゴクン)』
よくわからないけど、多分美味しい。
そしてポテトサラダをパクリ。
なんだこれ、美味しい!チーズの味がする。
なるほど…
ゴルゴンゾーラチーズを混ぜ込む事によって、コクと塩味を補っているのか。
赤ワインに一層合うなぁ…
あともう一杯飲んで帰ろっと。
悩むなぁ…
そうだ!
『マスター、オススメのワインを下さい!』
するとマスターは、桜のようなピンク色をしたスパークリングワインを彼女にお出しした。
なんともキレイに泡が立ち昇り、見た目がとてもカワイイ。
マスター『ロゼのスパークリングワインです。』
『(ゴクリ)』
美味しい。
ロゼって甘口ばかりだと思っていたけど、辛口に仕上がっている。
グラスも冷蔵庫で冷やしたものを使い、とても清涼感を感じる。
それにしても、本当にカワイイピンク色だな。
そういえば、
初めてお母さんにおねだりして買ってもらったヘアゴムも、ピンク色だったっけ。
就職祝いで買ってもらった口紅もピンク色だったなぁ。高級ブランドのめっちゃいいやつ。
プライベートで数回使ったりきり、化粧台の引き出しの奥にまだ残っている。
次の出番は私の結婚式かしら。
と言ってもその予定はない。
今度の日曜は私の誕生日。
久しぶりに実家に電話しよう!
『マスター、お会計お願いします。』
ー日曜日ー
『あっ、お母さん?元気?』
『私今日誕生日だよ!こんなに健康に産んでくれて、本当にありがとう!』
ーあなたこそ、健康に産まれて育ってくれてありがとうー
『お母さん…大好きだよ…』
Ep.2『理想の赤ワイン』(65歳、男性)
『こんにちは』
私はマスターにそう言うと、いつものお気に入りの席に着く。
あとはマスターがいつもの赤ワインを、注文せずとも自動的に持って来てくれる寸法だ。
私は5年間の海外赴任を経て日本に戻り、役員として定年まで会社一筋で勤めあげた。
その為、家族にはお金で困らせた事はなく、今では可愛い孫までいる。
最近は私の名前を呼ぶようになり、ますます孫の虜だ。
そんな娘夫婦が、今離婚しようとしている。
私はそのストレスからか、競馬や株に明け暮れる毎日だ。
利益が出る事もあれば、大損する事もある。
目まぐるしく変化するこの時代で、今まで積み上げて来た知識や経験に背くような結果が多いように思う。
思い描いた理想通りにいかない。
どんなことも理想通りになったら、誰も苦労しない。
苦労や失敗を重ねた方が、人生は面白いかもしれない。
『マスター、今年のブドウはどうかね?』
マスター『地球の温暖化や異常気象で、以前の様にはブドウが育たないと聞いています。毎年理想通りには行きませんね。』
ブドウの収穫は一年に一度のみ。
3年あっても3回しかワイン造りが出来ない。
紀元前から存在しているワイン造りも、気候の変化について行くのがやっとだ。
私の人生も、ワイン造りも一緒ではないだろうか。
今生存している人々全員が、天国に行くまで初めての体験を積み重ねて行くのだ。
これからどんな体験が待ち受けていようとも、
ワインはワインであるように、私は私でいよう。
そう思って赤ワインを飲み干すと、
マスターが自動的におかわりを注いでくれた。
Ep.3『濃い目のハイボール』(40歳、男性)
『マスター、ハイボール濃いめとミックスナッツ。』
そう言って俺はカウンター席に座った。
俺はこの近くに事務所があり、この店の雰囲気が気に入って最近来る様になった。
30歳で起業して、気づけば社員を5人程抱える社長になっていた。
ようやく余裕が出てきたから、こういったバーに通う事が出来る。
思えば昔、安酒で酔うために良くハイボールを濃いめで飲んでいたっけ。
今でもその癖は抜けずに飲んでいる。
これを飲むと起業したての時代を思い出し、原点に戻れる気がする。
俺はがむしゃらに働き、無我夢中で仕事に打ち込んで来た。
そのせいか浮いた話はほとんど無く、今も未婚のままだ。
両親は地元で兄貴と暮らしている。
変わらず元気でいてくれるから、俺は今まで自分の事に専念出来た。
本当に感謝している。
と言っても、そんな気持ちになったのはつい最近のことだ。
俺にも心の余裕が出来たのだろうか。
一丁前にも、少しは成長したって事かな。
ありがたい事に、社員の人生を背負いながらも会社は安定している。
社長として、経営者として、次なるステップは後継者の育成だ。
細く長く、この会社を健康的に維持して行って欲しい。
それから、自分の家庭を築きたいと思っている。
両親にも、孫の顔を見せる事で親孝行したい。
残念ながら、まだ兄貴にはその気がない様なので…
『マスター、ハイボール濃いめおかわり』
ー私もハイボール濃いめおかわりー
どうやら、左側に座っている女性も同じ物を飲んでいるらしい。
マスター『お待たせさました、ハイボール濃いめ、おかわりです。』
マスターはそう言うと、俺と左側の女性の前に、同時に置いた。
思わず、僕らは顔を見合わせた。
お互い少し照れ笑いをしながら、
恋めのハイボールで乾杯をした。
Ep.4『ニセモノは本物』(80歳、女性)
『(今日は最後に何を飲もうかしら)』
私はこのバーの常連客。
以前は近くに事務所があり、入ったのがきっかけ。
以来、お店の雰囲気とマスターの清潔感ある営業が好きで、通いつづけている。
思えば私も女性第一線、今の様に女性が働きやすくない時代で夢中で仕事に取り組んできた。
中には『鬼の鉄人』とか『鋼の姉さん』と呼ぶ部下たちもいた。
激務やストレスの中、私をリラックスさせてくれるのはバーで飲む酒だ。
若い頃は部下達を連れて飲み歩き、朝まで酒を飲んだ。
酔っ払ってだらしの無い男の部下が、甘えてきた時があった。
その時も部下のお尻を叩き、彼の部屋まで担いで帰るといった調子だ。
現役を引退するまでは無我夢中で仕事をする姿勢は変わらず、時間とエネルギーを全てを注ぎ込んだ。
そして時代と共にトレンドが変わりゆく中で、常に新しいものを作り出し、強い信念をもって発信してきた。
それもあってか、今は仕事の悩みを抱えた女性たちの相談が絶えない。
年齢もあってか、彼女達は私のアドバイスを反論なく聞き入る。
女性が社会で活躍しやすい時代になってはいるが、まだまだ男女差別が根強く残っている企業も少なくない。
それはそうと…
『マスター、私、今日最後に何を飲んだらいいかしら?』
そうするとマスターはペルノーのストレートと水を、迷わず私の前に置いた。
以前も同じ状況で私が注文したのを覚えていたらしい。
ペルノーはフランスの薬草系リキュールであるパスティスの一種で、主に食前や食後に飲まれている。
『ありがとう。頂きます。』
私はパスティスの味は好きだが、名前は嫌いだ。
パスティスはフランス語で『ニセモノ』や『まがいもの』を意味している。
好んで飲んでいる私が、そう言われている気がするのだ。
『マスター、このお酒の意味がニセモノだなんて、なんだか不快な響きね。』
マスター『このお酒は、当時禁酒となったアブサンを真似て作られました。変わりゆく時代の変化について行くという人々の努力の結晶。新しい物を作り出して行くという、強い信念が感じるお酒だと私は思うのです。』
そうか、必ず変わりゆく時代。
その中で常に新しい物を作り出して行くという人々の強い思い。
このお酒は、私の人生そのものだわ。
『マスターありがとう、また来るわね。』
Ep.5『マスターハート』
髪の長い素敵な雰囲気の女性が来店した。
僕はいつも通りおしぼりを出すと、彼女は少し悩んだ後に赤ワインとポテトサラダを注文した。
初めてお店に来たお客さんだ。
彼女はしばらく時間を楽しみながら、
ーマスター、オススメのワインを下さいー
そう僕に注文した。
僕は彼女の素敵な雰囲気に合ったロゼが、とっさに思いついた。
今はまだ桜のイメージが残る季節。
そして僕が最近ハマっているワインだ。
『ロゼのスパークリングワインです』
そう言って彼女の前にお出しした。
彼女はその大きな目で、ピンク色のワインから立ち昇る泡を見つめながら飲んでいた。
そして彼女は素敵な雰囲気のまま、会計を済ませて帰って行った。
続けて、いつもの常連客が来店した。
僕はおしぼりと同時に赤ワインを彼の元へと持って行く。
彼は決まって赤ワインしか飲まないからだ。
それに毎回同じ物を注文する客に、毎回注文を聞くのは野暮ってもんだ。
彼はいつも通りワインを飲み始め、しばらくしてから神妙な面持ちで、
ーマスター、今年のブドウはどうかね?ー
そう尋ねてきた。
僕は、『地球温暖化や異常気象で、以前の様にはブドウが育たないと聞いています。毎年理想通りには行きませんね。』
そう答えると、彼は一気に赤ワインを飲み干した。
僕はそのタイミングで、いつものようにおかわりを注ぐのだった。
ーマスター、ハイボール濃いめとミックスナッツー
彼は最近良くお店に来るお客様。
その際、決まって濃いめのハイボールを注文する。
そういった変わった注文をするお客様は、こちらもすぐに覚えてしまう。
度々部下を連れてくることがあるが、今夜は一人の様だ。
しかし、よく、まあ、
毎回ハイボールを濃い目で飲むことができるもんだ。
他の場所で飲んでから来店されても、必ず濃い目で注文する。
半分寝そうになっているところを、部下が運んでいく場面を何回か見たことがある。
ーマスター、ハイボール濃いめおかわりー
今夜はまだ一件目の様だ。
偶然にも、同時に注文が入っていたもう一つの濃いめのハイボールを作り、
『お待たせいたしました、ハイボール濃いめ、おかわりです。』
そう言って僕は、カウンターの隣に座っていた女性にも、それぞれ同時にお出しした。
変わった同じ飲み物を、隣にいたお客さん同士が注文するなんて珍しい。
二人はどうやら濃いめのハイボールがきっかけで、会話が始まっている。
ーマスター、私、今日最後に何を飲んだらいいかしら?-
そう聞くのは常連客のマダム。
僕はとっさに、以前も同じようなことがあったときに注文されていたペルノーを思い出した。
ペルノーはフランスの薬草系リキュールで、主に食前酒や食後酒として飲まれている。
僕は以前と同じようにペルノーをショットグラスに注ぐと、水と一緒に彼女の前に迷わず置いた。
彼女はそれを飲みながら、しばらくすると。
ーねぇマスター。このお酒の意味がニセモノだなんて、なんだか不快な響きね。ー
彼女がそう言うと僕は、『このお酒は当時禁酒となったアブサンを真似て作られました。変わりゆく時代の変化についていくという人々の努力の結晶。新しいものを作り出していくという願いが感じるお酒だと私は思うのです。』
と答えた。
以前にお酒の本で読んだことがあるフレーズだった。
僕は今、この言葉がぴったりなんじゃないかと思い、彼女を励ますかのような表情で伝えた。
彼女はゆっくりと、時間をかけてペルノーを飲み干すと。
ーマスターありがとう、また来るわね。ー
そう言って店を後にした。
このバーの外では皆、違った顔を持っている。
仕事、家庭、恋愛、たてまえ、見栄。
このバーの中では皆、その肩書を忘れる事ができる。
僕はそのお手伝いを全力でする。
いつの時代もお酒の味は一つの物語。
今宵もあなたに最高の一杯を!