恥の多い人生でした
久方ぶりの人間失格を引きづり
気まぐれに寄った近所の図書館
目についたのは酒井順子さんの
センス•オブ・シェイム恥の感覚
というご本だった。
著者の恥に思う事柄や感覚を
他社との関わりから観察した
コラム形式の本だった。
そのコラムのつむぎに
「恥は他者がいないと感じられない」
ということをおっしゃっていた。
それを思うと、
自殺をした太宰治の晩年のつぶやき
「恥の多い人生でした」
とは他者との関わりがあってのものだとでも
考えれば少し救いを感じるところではある。
太宰さんの周りには良くも悪くも他者がいた。
友達であり愛する人も
酒井さんのご本を読み太宰さんの生涯を思うと(人間失格の中でのあくまで空想でしかありませんが)
必要だったのは恥を感じることのない場所だったのかなと思うところがありました。
日本では(外国と比較した場合ですが)
内と外を分けるそうで
家に入る時は靴を脱ぎます。
外でしっかりしていても家ではだらしない
他人が来る時ばかり綺麗に片付ける家庭が多い
わたしは外もしっかりはしていないわけですが、
また外国人に比べ日本人は
恥の感覚も研ぎ澄まされており
他者を気にすることが多いようで
気をつかいその鬱積した心持ちが
家での散らかり具合に反映してくるのだと。
偏見という方もおられると思いますが
わたしにはこのご意見がしっくりきたのです。
恥を感じることは当然で
その感覚が死後74年経ってもこれだけの共感を呼ぶ太宰さん。
恥を感じることのない
内の時間や空間を太宰さんも持つことが出来たらなあと思うのでした。
「うんこ」を「うんち」と呼ぶ
酒井順子さんの感覚により学ぶ「恥」について
恥を意識すると人生は少し見えやすくなってくるのものだと思うこの頃です。
この感覚を自身の人生にも大切に育てていきたい
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