そこに愛はあるか
時代は絶えず変化を続けるが、変わらないものもある。それは、どの世界、どの国においても人の心を打ち続ける。俗に愛と呼ばれる代物である。なんでもかんでも愛という安易な言葉に集約されてしまい、特に若い男女間の恋愛でこの言葉を使うと、途端に陳腐になるので、誤解を避けるために、ざっくりと自分なりにこの言葉の意味を解釈し定義づけるなら、「愛とは、自己を犠牲にしてでも誰かを守ろうとすること、その思いや姿勢のこと」としよう。
我ながらこの定義もかなりざっくりしている。便宜的に設定したものではあるが、この定義のポイントは、自分の存在よりも大切な存在がある、という点にある。そこに、人の心を打つポイントがある。少年マンガの王道パターンなど、全部コレだと言って過言ではない。私の大好きな北斗の拳だって、極道マンガの魁男塾だってそうだったし、ワンピースも、鬼滅の刃も、東京リベンジャーズもそうなのだ。どの作品の主人公も皆、自分の命などいとも簡単に投げ打って、仲間を助ける。自分のことが1番大切だということは、遺伝子が証明しているのにも関わらず、利他のために考え行動する人の姿に私たちは心を打たれる。
現実の世界でそうした愛の現場を見る機会は少ない。耳にする事件はほとんどが可哀想な人が起こした悲しい出来事ばかりで、誰かが人を助けたなんてニュースは滅多に聞かない。それでも、たまに流れる人名救助のニュースがあって、数年前のネットニュースだと思うが、川で溺れた小学生を、自ら川に飛び込んで救助した20代男性が警察から表彰されたというwebニュースを読んだ。そこには、ニュース読者のコメントが並んでいる。
詳しい状況が解らんとはいえ、これは相当無謀だ。川は流れがあるため恐ろしく、しがみつかれたら二次災害となり二人とも溺れ死ぬ恐れがある。自分の子供のように、命を賭けても救いたい場合は別だが、「人が溺れていても飛び込むな」は鉄則だ。
というコメントに高評価がならぶ。私にはなぜこのコメントが高評価を受けるのか意味がわからない。
カントは、定言命法と仮言命法という言葉を使って道徳や人間の理性について説明をするのだが、ざっくりこれを説明すると、人間の行動原理には2種類ある。〇〇だろうから、〇〇するというのが仮言命法。例えば、このニュースを例に出すなら、自分の命を落とすかもしれないから助けない、というパターン。それに対して、ただ助けるべきだから助ける、というのが定言命法。人名救助などは、損得勘定で動いていたら間に合わない。ただ、シンプルに助けるべきなのだ。私は、この内なる道徳法則に従って定言命法によって行動する人間の状態を真に自由な状態だというカントの考え方が大好きだ。そして、人はそれを愛と呼ぶんだぜ。