全戸の給水給湯管更新をした話(前編)
前回音の話をしたので、今回からは漏水の話をしたいと思う。
フロントと漏水とは切っても切れない関係にあると思う。
たかが漏水、されど漏水。
第一弾は、全戸の給水給湯管更新をすることになったマンションの物語。
はじまりはじまり…
金子が担当したそのマンションは、ヴィンテージマンションといえば響きはいいが、30年目を迎えた古めのマンションだった。立地がいいこともあり、年月とともに、区分所有者が住まなくなった結果、半分以上の住戸が賃貸に出されており、残りの住戸のオーナーも高齢者が目立つ。
このマンションに当時住んでいた、両手で数えるほどしかいない区分所有者の1人が、太田だった。
この部屋で事件は起こった。
それはとある11月の寒い夜、19時を過ぎた頃、太田の部屋のインターホンが鳴った。
ピンポーン
そんなに遅くもないものの、こんな時間になんだろう、と太田が部屋のドアを開けると、若者が1人、玄関に立っていた。
「あの、僕、下の階に住んでいるのですが、天井の照明が落下してきまして、中に水が溜まってたみたいで、それで、今も天井から水漏れしてます。見に来ていただけますか。」
太田は、まさかという気持ちで下の階へ降りていくと、確かに部屋が水浸しで照明器具がテーブルに落下し、パソコンもろとも破損した無惨な状態であった。
幸いにも寝室やその他居室には影響がなかったため、その夜は緊急で手配した水道屋による応急処置のみとなった。
太田は下階の若者である湯沢に頭を下げた。この時はまさか、あのようなことになるとは思ってもみなかった。
翌朝、太田は担当の金子に昨日の出来事を説明し、今後の段取りについて確認した。
金子は、漏水調査をしますが、このマンションの過去の傾向からすると、給湯管のピンホールによる漏水と思われます。と説明し、実際にその後、太田の家で調査した結果、確かに給湯管で減圧したので間違いないとのことであった。
通常、漏水した場合は、可能性が3種類ある。
飲み水である給水か、台所やお風呂、またはトイレ等の排水か、外壁や屋上からの雨水である。
それぞれ漏水の仕方にはざっくり特徴がある。
給水の場合はとある時から常時漏れ続けている。
排水は何かを使用したときに漏れる。
雨水はもちろん雨の降り方に関係する。
といった形だ。もちろんそれ以外の設備漏水やこぼし水の可能性もあるが、大きくはこの3つだろう。
今回太田の部屋で起こった漏水は、給水管のひとつである給湯管からの漏水であった。給湯管は、その名の通り、お湯が通る管であるが、これが太田のマンションの場合、銅管を使用しており、さらに床下のコンクリートに埋められていた。
そのため銅管にピンホールと言われる穴が空くと、コンクリートに染み出し、下階に漏れる、という仕組みだ。
幸いにも太田の家は、台所の下から手の届く範囲での給湯管から漏水していたため、原因箇所はすぐに見つかった。
問題はその下階の補償について、であった。
今回のような上下階での漏水の場合には、通常マンション居住者がつけているまたは管理組合が掛けている個人賠償責任保険を使用する。
今回のケースで問題になったのは、下階の被害のうち、補償されないものが多数あったということであった。
湯沢は、フリーのカメラマンで、映像編集などを生業にしていた。
湯沢が作業に使用していたダイニングテーブルに水が溜まった照明器具が落下してきたことで、仕事用のカメラや機材がまるでダメになった。
さらにはパソコン。バックアップデータのない写真や映像作品もあったようだ。
そしてこれらの機材や作品が駄目になったことにより、湯沢が得られるはずであった仕事の対価。
これらは全て被害申告を被害者である湯沢がしなければならず、また、購入した金額で申告してもそれがまるまる出るわけではない。
さらにはパソコン内のデータや写真は一切補償されなかったのだ。
どうしてくれるんですか、と湯沢は電話で連絡した金子に詰め寄った。当初思っていたよりも被害が出てしまったこともあり湯沢もかなり感情的になっていた。
金子はなんどか湯沢と太田と3人の話し合いの席を設けたものの、折り合いがつかず、結局個人間での示談は不可能となり、太田は弁護士に示談交渉依頼することとなった。
全てが終わった太田から、報告したいのでと言われた金子は、マンションの近くの喫茶店で太田と会うこととなった。
太田によると、結果として弁護士費用数十万円及び湯沢への数十万の支払いで示談は成立したようだが、この数ヶ月の間に亘る漏水問題は、金銭的な損失以上に太田の精神をかなり疲弊させていた。
「金子さん、今回は色々お願いしてしまい、すみませんでした。ありがとうございました。個人的には、仕事でも結構苦情対応をやっていますし、メンタルは強い方なんですが、やはり仕事とは違いますね…」
「太田さん、この度は本当にお疲れ様でした。私は仕事ですからいいんですよ。お気になさらないでください。」
このマンションはあまり住民の意識が高くない。今回だって、太田だから対応してくれた部分も多く、もしこのような漏水があの部屋で起こったらと思うと、背筋がぞっとするような住戸がいくつも思い浮かぶ。
「太田さん、実は、不躾ながら、お願いしたいことがありまして…」
「なんでしょうか?金子さんにはお世話になりましたから、出来ることなら協力しますよ。」
「こちらの、マンションの役員が、この3月で変わりますよね。太田さん、次の理事長やっていただけませんか。マンション内の全住戸の給水給湯管の更新工事を進めたいんです。」
金子は考えていた。これがいつどこで起こるかわからない、一種の爆弾を抱えているのが、このマンションの実情だ。
そして、金子は知っている。こうした爆弾は、常に起きてはいけないところで破裂する。
「金子さんのお気持ちはよくわかります。うちのマンションは、問題児も多いでしょう。賃借人も多いし、貸しっぱなしでほったらかしのオーナーも多い。」
「そうなんです。だから、この太田さんの経験をご自身で話していただきながら、みなさんを説得して、全住戸更新したいんです。本来、給水給湯管は専有部ですので、予算措置もしていませんし、すでに更新している部屋もあるかもしれません。もしかしたら二年がかりになるかもしれません。それでも、このマンションには絶対に必要だと思っています。私もサラリーマンですのであと数年で異動する可能性もあります。太田さん、ぜひ一緒にやっていただけませんか。」
手元のブレンドコーヒーを一口飲んで、太田は言った。
「金子さん、実は、私、このマンション売却して出ようと思っているんですよ。」
「え、そうなんですか…」
金子は思わず声を漏らした。太田の気持ちは痛いほどわかる。もうこんな思いはしたくない、そういうことだろう。
「実は近くに高齢の母が住んでまして、そちらに同居しようかと思っています。いい機会ですし、と思っていました。」
金子は下を向いていた。これは、太田でないと出来ないことだ。諦めるしかないのか…。
「ただ、急ぎということではありませんので、今のご提案の件、協力しましょう。私の言葉で説明するのが、一番いいですよね。」
金子は思わず立ち上がり、こう言った。
「ありがとうございます!」
続く…🐀
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