ぼくは彼女とセックスしたくない

 ぼくは彼女とセックスしたくない。そのわけは簡単。ぼくがゲイで、彼女が女性だから。でも、遠距離じゃなくて、週に最低二度か三度はリアルで会ってて(一緒に電車で帰るだけの時含む)、まもなく交際一年を迎える成人カップルがセックスをしたことがないんだったらそっちのほうが不自然だ。ぼくは日本の学生カップルの交際開始からセックスまでの平均期間を知らないけど、交際3か月目後半に初セックスっていうのは別に遅いほうじゃないと思う。ぼくらが付き合ってからまもなく4か月を迎えようとしていたあの日の晩、ぼくは由梨と初めてセックスした。ぼくはゲイで、由梨は女性なのに。だからもしこの文章を読んでいるひとの中にノンケ男子がいたら言っておきたい。大丈夫、きみは男とセックスできる。しかも何度もできる。できないというのはきみの勝手な思い込みだ。

 いまから考えると、あの日の由梨はちょっとソワソワしていた。あの日、ぼくらは由梨の大学から近くて、ぼくの大学からも電車で一本で行ける吉祥寺で遅めの晩ご飯を食べることにしていた。本当は夜7時半に落ち合う予定だったんだけど、ぼくのゼミのミーティングが長引いちゃって(ぼくのせいではない!)、ぼくは由梨に「ごめん30分ぐらい遅れる」ってメッセージを送った(結局50分近く遅れた)。ぼくが由梨との約束にそんなに遅刻するのはそれが初めてのことだったから、ぼくは実際に会う時の由梨の反応がちょっと怖かった。まさか駅前で怒鳴り声を上げるなんてことはないだろうけど(由梨はそんなひとじゃありません)、まあ不機嫌にはなってるだろうな、とか。だけど、ぼくが由梨に駆け寄っていって「ごめん、本当にごめん」と謝った時の由梨のようすは、怒っているどころか妙にもの柔らかで、ぼくとしてはだいぶ拍子抜けした。むしろ由梨は「ううん、気にしないで。それより(ゼミミーティングを)抜けてきちゃって大丈夫だった?」とぼくを気遣ってくれたりもした。いや、途中で抜けられなかったからこの時間になっちゃってるんですけどね。

 いつもの由梨は「あそこにしよっか?」と言って入るお店をパッと提案してくれるんだけど、この日はそういうことにならなくて、駅周辺を無駄にぐるぐる歩いちゃって、結局、前にも一緒に行ったことのあるイタリアンのお店に入ることにした。ぼくは信じられないほどお腹が空いていて、たぶんそれは由梨も同じだったから(遅刻しすぎてマジでごめん)、いつものぼくらの感じより多めに料理を注文した。「ピザ、もう一枚頼んじゃう?」とか言って(単にぼくが食べたかっただけ)。その日の出来事とか時事ネタっぽいこととか、もちろんサークルの人間関係的なこととかの話で盛り上がって、気が付いたら10時半に迫っていた。吉祥寺からだとぼくらは帰りの電車がずっと一緒だ。お店を出て、ふつうに電車に乗るつもりで駅へ向かおうとしたら、由梨が「井の頭公園へ行きたい」と言い出した。たしかに、ぼくらがいまいるここは公園口側なので井の頭公園はとても近い。ただ、駅とは反対の方向である。ぼくは内心めんどくさいなと思いながらも、大遅刻して由梨に迷惑をかけた手前、その提案に従うことにした。終電まであと1時間ある。最悪、吉祥寺駅からじゃなく京急井の頭線井の頭公園駅から帰るという手もある。いや、井の頭公園駅は各駅停車しか止まらないから、それだと逆に終電の時間は早まってしまうんだけども。

 井の頭公園はぼくらにとって思い出の場所だ。七井橋通り(という名前らしい)を歩いて、階段を下りて、井の頭公園へ入って、ずーっと右へ突き進んだほう。そこのベンチに座ってぼくは由梨に「付き合いませんか」と告白し、由梨は目を輝かせながら「うん」と即答したのだった。まさに青春である。ただ問題なのは、ぼくがその時言った「付き合いませんか」というのはなぜか咄嗟に出てきてしまった一言で、ぼくの本心ではなかったということだ。由梨は井の頭公園をぼくらの聖地か何かだと思い込んでいて、吉祥寺で会う時にはいまでもしばしば「井の頭公園へ行こう」と提案してくる。

 ぼくは終電の時間を気にしながらも、由梨と並んで井の頭公園を歩く。やっぱりこの時間の井の頭公園は暗い。真っ暗闇というわけではないが、ちゃんと目を凝らさないと相手の顔が見えないぐらいには暗い。由梨が自然な感じでたまに体をぶつけてくる。気持ち悪い。傍から見れば「かわいい彼女とイチャイチャしやがってコノヤロウ」という感じなのだろうが、ぼくとしてはテンションが萎えてしょうがない一幕である。需要と供給のアンバランスについて考えさせられる。はあ、深田。サークルの後輩の深田健也、なんとかなんないかなあ(この時ぼくはまだ深田に出会っていないが)。

 井の頭公園を歩いて数分後、ぼくらはやっぱり例のベンチの前に来てしまった。仕方ないので並んで座る。由梨が何やらしゃべり出す。自分がいま作っているアニメ作品のことだ。作品づくりの話をしている時の由梨は文句なしに麗しい。由梨は結構シュールな内容の作品を作る。でもクリエイターとしての由梨のすごいところは、シュールだけど観るひとが理解して楽しめる作品を作れるところで(だから放送研究会界隈ではファンも多い)、ぼく自身が大好きなタイプの作風かというとそういうわけでもないんだけど、でもぼくはたまにこのひとは100年に1人の天才なんじゃないかと思ったりする。あと、自分の作品に自分の日常を引きずられていないところもすごい。どういうことかというと、これはシュール作品創作者への偏見でしかないけど、由梨はシュールな内容の作品を作っているのに、性格は変にひねくれたりしてなくて、悪い意味でサブカルかぶれじゃなくて、外面的には「明るいかわいい女子大生」として生活している。少なくともぼくの前ではそうだ。ぼくは自分がいま作っている作品の気質に逆に自分自身を振り回されてしまうほうだから、「人間としての性格」と「クリエイターとしての作風」を混同せずに自分を生きている由梨の芯の強さをすごいと思う。──まあ、由梨にはたまに「〜なのだよ」とか「〜なのさ」って言う癖があって、そういう時にはサブカル臭っていうやつを感じるけど、それはまた別の話です。

 由梨の話を聞きながら、由梨の横顔を見ながら、そんなことを考えていたせいだろうか。終電の時間が迫っていた。井の頭公園駅から帰るにはもう遅すぎる。いまから吉祥寺駅へ向かわないと間に合わない。ぼくが「そろそろ帰ろう」と言おうとした瞬間、由梨がベンチから立ち上がって池の近くへ向かう。ぼくもついて行く。由梨が向こうのほうを指さして「あそこに鳥がいるよ!」と声を上げる。礼儀として一応チラッと視線を向けるが、ぼくとしては鳥類の動向などどうでもいいので、ついにというかようやくというか、「終電の時間だよ。間に合わないよ!」と告げる。由梨はそれには何も答えず、またさっきのベンチに戻って座ってしまった。ぼくは最初、もしかしたら由梨は体調が悪いのかもしれないと思って「……大丈夫? 具合悪い?」と聞いた。由梨は「ううん」と小声で言うと、こっちをじっと見つめてきた。意味の分からない沈黙の時間が流れる。ぼくは誰かと一緒にいる時にそのひとの前でスマホを操作する行為を人道的観点から嫌っているが(目の前の相手を軽視している感じがする)、仕方がないのでスマホを取り出して終電の時間を確認する。出発駅と到着駅を入力して現在時刻で検索。……あれ? ……あれれ? ……あれれれれー? 出発時刻が午前4時42分になっている。どういうことなんだい。いったいどういうことなんだい。画面を戻して再び検索。……えっとですね。ぼくはそもそも終電時刻を勘違いしていたようです。ぼくは十数分前にすでに終電を逃していたようです。おかしいよ、こんなのおかしいよー! ねえー! おかしいってー!

 ぼくが終電を逃したということは、ぼくよりここから遠くに住んでいる由梨も終電を逃したということのはずだった。由梨がこっちを見ている。ぼくは由梨に「ごめん……時間を勘違いしてたみたいで……ぼくたち終電逃しちゃったっぽい……」と伝えた。「えっ」と由梨は反応する(いま考えれば演技だったんでしょう)。はあ。深夜営業の居酒屋に入って朝まで時間を潰すか、ネットカフェにでも行くしかない。どっちにしろめんどい。今日はバイトの夜勤がないから自宅のベッドでぐっすり眠れたはずなのに。それだからぼくはゼミミーティングの時間超過も耐えたのに。「どうしよっか……」とぼくはつぶやく。「どっか入る……?」と由梨が言う。「どっかって……?」とぼくが言う。居酒屋とネカフェ、由梨はどっちがいいんだろう。まあ、由梨はお酒が飲めないからネットカフェだろうな。ぼくもそのほうが気が楽である。たぶん部屋は別々にしようってことになるだろうから(というかそうしたい)、うん、自宅のベッドほどの快適さは得られなくても眠れることは眠れるか。そんな風に考えていたから、由梨の口から「……ホテル?」って言葉が飛び出しても、ぼくはその発言の意味を正しく理解できなかった。

 ホテルかあ。出費が馬鹿にならないだろうけど、その選択もありかもしれない。吉祥寺の駅前にシティホテルがあるのをぼくは知っていた。料金がいくらぐらいするのか知らないけど、あそこのいちばん安い部屋を別々に借りて、「じゃあおやすみ。明日の朝は会わなくていいよね? 今回はこれにて解散!」ってことでいいのかもしれない。まあ、朝ご飯をどうしても一緒に食べたいってことなら付き合ってあげてもいいけど。ぼくは妙に心が軽くなって「そうだね、そうするか」と由梨に告げた。……うん? 由梨のようすがおかしい。口をすぼませて上目遣いで照れた感じでモジモジしている。やっぱり小手さん具合が悪いんじゃないか。救急車を呼ぶべきか。……いや違う。違う。この時、ぼくは由梨の「……ホテル?」という回答の意味をようやく理解した。かつて上野くん(アプリで知り合ったぼくの初体験のお相手)がぼくに爽やかな笑顔で「ホテル、行く?」と呼びかけてきた時の光景が脳裏によみがえってきたのだ。

 ぼくは彼女とセックスしたくない。そのわけは簡単。ぼくがゲイで、彼女が女性だから。しかし、井の頭公園のベンチの上で、あの日のぼくは完全に自分で自分を追い込んでいた。いまになって思えば、あの時にぼくは前言を無責任に撤回し、「……あ、やっぱり、結婚前の男女がそういうところへ行くのはよくないと思う! ぼくらは婚前交渉禁止の宗教の信徒なのだから!(事実と異なる)」とでも主張すればよかったのだと思う。しかし時間は巻き戻らない。まただ。またぼくは井の頭公園のベンチに座って誤ったことを言い、ぼくが望むのとは逆の展開を作ってしまった。ただ、ここで一つ問わせてほしい。この展開が作られた責任は本当にぼくだけにあるのか?

 ぼくはオカルトや黒魔術の類いを信じない。エンターテインメントの対象としては楽しむが、まじめに信奉している人々にはドン引きする。しかしそれでも、いやそれだからこそ、ぼくは井の頭公園にはふしぎな魔物が棲んでいると信じて疑わない。もしもこの文章を読んでいるきみが、ゲイかもしれない彼氏と付き合っていて、だけど彼氏とセックスしたい女の子だとしたら、ぜひ彼氏を夜遅くの井の頭公園に連れて行ってみてほしい。池が見えるベンチに座らせて、終電時刻ギリギリまで話し込んでみてほしい。ぼくのおすすめは、七井橋通りを歩いて、階段を下りて、井の頭公園へ入って、ずーっと右へ突き進んだほうにあるベンチだ。そこに彼氏を座らせさえすれば、きみは何だってできる。どんな夢だって叶えられる。

(注:そのあとぼくらがそこから徒歩5分のラブホテルへと向かい、しかし「もしかしてそのホテルにはコンドームが置いてないんじゃないか」と不安になったぼくが道を戻ってファミリーマートに駆け込んだというお話は、後日掲載の予定です。)

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